第31話 デッキウォーク

 背の高いビルがまばらになり、代わりに巨大な倉庫が視界に入るようになってきた。湿度が高くなっているのを肌で感じる。微かに海の匂いがしてきた。間もなくコンクリートの谷間から東京湾と直結した川が見えてくるはずだ。ニューヨークにあるというハドソン川と同じ潮の混じった川。信号が赤に変わり、F氏はステップを踏みながら肩を回した。

 引越して以来しばらく休んでいたジョギングを再開した。都営住宅のエントランスからスタートし、坂道の多い高級住宅街を通り抜ける。息を弾ませながらF氏は考えた。地球が丸いのならどちらの方角を向いても次の一歩は下り坂のはず。なのにどうしてこうも東京は坂道だらけなのだろう。高級住宅街の風景が終わり雑多なオフィス街に。さらに東へ。東京湾のボードウォークまで行って帰ってちょうど一〇キロ。当初は人通りの激しい道を走るのが恥ずかしくてコース選定に迷った。しかしそもそも団地の前が通行人の多い通りなので諦めるしかなく、試しに短い距離を走ってみるとまったく人の目が気にならなかった。誰もジョギングする人なんて気にもとめない。それに何年も走っているうちにいつの間にか猫背だった姿勢は伸び、顎はあがらなくなっていた。タイムも少しだけだが上がっている。ジョギングを始めた頃は競歩の学生に追い抜かされたり小学生に勝負を挑まれたりもしたが気付かぬうちに上達していたのだ。もう隠れて走るレベルではない。


 信号が青に変わった。季節外れのサーフボードを載せた右折車が白線の手前で止まる。手を挙げて挨拶し車の前を走り抜けた。ここ数日F氏は努めて日常の生活に意識を集中していた。Qアパートに行く計画は中止だ。ここまで邪魔されるということは行くのは叶わないということ。確かめるなんて後ろ向きな発想はよそう。もうひとりの自分なんていやしない。慣れない生活で感覚が以前の習慣に引きずられただけ。妄想の世界に逃げず現実を生きよう。仕事を探し、部屋の掃除をし、洗濯をし、料理を作って食べ、建築設計の勉強を諦めず、サチエの洗濯物を取りに病院に通う。F氏の足が大きくストライドし始める。そういえばキッチンの吊戸棚にチョコレートが残っていた。あれも食べてしまわなければ。サチエに持って行ったら食べてくれるだろうか。


 その頃、地球から遠く離れたGS-Ezs8-1銀河、その端に位置した恒星j9の第四惑星UXでは物理学者のW氏が朝食の時間に突然一一次元の物理法則をもとめる方法を閃き、母の制止も聞かずに書斎へと駆け込んでいった。もちろん彼は自分が大きな歯車のひとつになっていることを知らない。プロジェクトは着々と進んでいた。


 指導者Eは緻密に設計されたシステムが予定通りに進んでいるか固唾を飲んで見守っていた。もう時間は巻き戻せない。残されたチャンスはこの一回のみ。すべてはFの1と2に掛かっている。


「チョコレート? さあどうだろう。キクスイさんなら食べてくれるんじゃない。それよりも、ずっと言わないでいたんだけどね」電話の向こうのサチエが言った。

「最近夢に出てきて思い出したんだけど、あなたにはずっと言わなかったんだけど、ずっと前あなたのお姉さんと内緒で会ったことがあるの。そう。札幌で。違う。上のお姉さんのほう。下のほうのお姉さんは対抗意識剥き出しだったでしょう。だから言い訳を作って会わなかったの。そのときね、お姉さん面白いことを言ってた。お父さんとお母さんは本当はあなたに別な名前を付けるつもりだったんだって。でもお父さんの上司という人が名付け親になると言って聞かなくて結局断り切れなかったって。子供の頃のお姉さんはそのときのことをよく覚えているって言ってた。両親が喧嘩しているのを弟をあやしながらずっと眺めてたって。え? 下のお姉さんはすやすや眠ってたって。お姉さん不安だったでしょうね。だからあなたは自分の名前が嫌いなのよ。それでね、話したいのはここからで、その上司というのがQという名前だったんだって。やだ偶然に決まってるじゃない。すぐそうやってなんでも結びつける。それからね保育園の時に保母さんに毎日睨まれてたって話してたでしょう。そう。それ。お姉さんその事も覚えていたわ。その人ね、偶然やっぱりQという名前だったらしい。あら別に不思議じゃないわ。Qなんて珍しい名前じゃないでしょう。あたしの地元じゃどっちかというと多いほう」

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