第30話 新しいうさぎ
日本ではうまくいっていた方法がアメリカの人には通用しない。サチエはそのことを悟り戸惑っていた。あえて間の抜けたような印象を相手に抱かせたり、誰に対しても下手に出るというコミュニケーションはアメリカ人やアメリカナイズされた日本人からは過度な依存心と取られてかえって鬱陶しがられた。だめだ。なにをやっても通用しない。この国の人たちは自分で考えて自分で判断してその自分の判断にしたがって行動する人を評価する。真逆だ。どうしたらいいのかわからない。耐えられない。サチエは広大なアメリカ大陸で一粒のスケープゴートを欲していた。一刻も早く。
ネズミ一匹飼うのにいちいち責任がどうとか、まったく面倒な国だ。アメリカに渡って一週間、Q氏は早くもホームシックにかかっていた。それでもやり手の彼はすでに職場の日本人コミュニティをおおかたを手中に収めることに成功していた。もともと赴任する以前から影のリーダーの支配力が強かったおかげでナンバーツーの座に就くだけで物事が自動的に進んだ。だがその一方で日本人以外を相手にするとなるとそれまでに培ってきたカリスマ性や処世術が思うように発揮できずにいた。それどころか生まれて初めて疎外感というものを覚えていた。しかしそれでも彼は諦めずにコツコツと日本人以外の味方、あるいは信者、もしくは奴隷を増やしていくことに尽力し続けた。
Fという人物を耳にしたのは陰のリーダーと会話していたときだった。職場内でQの部屋がなかなか決まらず、ちょうど良い空き部屋がないかと探していた時期だった。影のリーダーはF氏から部屋を奪えばいいとほのめかした。なるほどそれは面白い。やっと腕を振るえるといった気持ちだ。研究所で働く日本人にはコミュニティに距離を置く者も少数いた。国民性といってもよい排他的な雰囲気やヒエラルキーを嫌って自分から離れていくのだ。アメリカのほうが風通しが良いというのが彼等の主張のようである。そういった少数派は大抵高名な学者や一目置かれるエンジニアなどでいくら鼻持ちならないといってもコートテイル組では太刀打ちできない存在であった。しかしそうしたアウトサイダーのなかではF氏は最も小者だ。潰すのなら彼が妥当だろうというのが影のリーダーの見解だった。話を聞いてみてなるほどFというのは自分と真逆の存在なのだなとQは会得した。これまでにもFのような人物を幾度となく陥れてきた。サチエの元の彼氏もそうだ。完膚なきまでに心を折って追い出してやったが。あのときと比べてもFなどカモでしかない。Qはアドバイス通りFに標準を絞った。しかしよく考えてみると直接手を下すのは芸が無い。ここはサチエを使ってみよう。こういうトラップに妻を利用するのはさすがにやり過ぎとも思うがアメリカに来たばかりで駒がない。サチエにはよく言って納得してもらおう。それからというものQは獲物に対して用意周到に包囲網を張っていった。久々の狩りだ。
当初サチエは人妻であることを隠してFを誘惑するのを嫌がった。曲がりなりにも彼女はQの妻だ。しかしFという男を知るにしたがって、なるほど夫が何を考えているのか解るようになってきた。F氏は夫が与えてくれた新しい小動物なのだ。それに気付いてしまえばさほど難しいミッションでもない。彼女は職場でつい要らぬ事を言ってしまったという体でF氏の気持ちを繰り返し逆撫でした。またF氏が席を外すと積極的に陰口を叩いた。それから時々間違ってキーボードにジュースをこぼしてしまいF氏のその日の成果を台無しにした。一番面白かったのは以前からFと親しかったインド人女性数学者の前で親しげにFの腕に触れる時だった。
一度心を開いてしまうとF氏は何でもサチエに打ち明けるようになった。良く言えば純粋。悪く言えば莫迦。おかげでQ氏はFの情報を大量に入手することに成功した。一切の情報を与えずに相手の情報のみ仕入れる。なにより心が打ち震える瞬間。Qの策略は上手く進行しF氏と親しかったインド人女性はフラれたと誤解して職場を去りヨーロッパのCERNに行ってしまった。これで奴の理解者がひとり減る。さらにF氏はあらぬ疑いを掛けられて徐々に精神不安定に陥ってきている。あと一息。
サチエは夫の指示に従い突如会社を辞めた。さようなら灰色の子ウサギ。最後のミッションとして夫は家で電話を待つようサチエに指示した。電話が来たらあらかじめ教わった科白を言う。うまく演技できるかしら。鼓動が早くなる。
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