第29話 ウミノイエ サチエ 2
美人と評判のサチエは就職してすぐに同僚のひとりから声を掛けられ言われるがままに交際を始めた。だがふたりの仲は長くはなく翌年の春に彼は黙って会社を辞めそのまま音信不通になってしまった。原因が職場の先輩Qにあることは彼女にも薄々気付いていたことではあった。だが身の安全を考えて余計な詮索は控えるようにした。それにQの嫌がらせだけが原因とも言えない。振り返ればサチエもまた彼を精神的に追い込んでいた。なぜそんな事をしてしまったのか彼女にも理解できなかった。サチエは交際相手の男をQに売るようなマネをした。彼のプライベートを一から十まで同僚を通じて報告したのだ。そんなことをすれば弱みを握られるのは当然の帰結。それでも彼女は抵抗できなかった。なぜならQは職場の母だから。
交際相手から正式に別れの電話がきてから間もなく、サチエは今度もまた言われるがままにQと結婚した。Qにとってそれは勝利者のトロフィーみたいなものだった。ふたりには互いを思いやる気持ちなど無い。それを分かっていてなおサチエは妻になることを選んだ。母も大賛成というのが一番の理由だった。母とQは似ている。でもどこが似ているのかとそれ以上 踏み込むのは危険。疑問は罪。自分を持つということは罪悪。流されて生きるのが清い人生。
Qは最初こそ容姿の美しいサチエを連れて歩くのを喜んでいた。だがそのうちに飽きてしまって仕事を理由にサチエのことをかまわなくなった。それでもサチエは不満を感じたりはしなかった。結婚生活は楽だ。夫はあっという間に出世して会社の重役にまでなった。そして何よりも母がそれを自慢にしていた。
動物が苦手なのを夫に悟られたのは失敗だった。早速Qは妻が嫌がるのを承知でハムスターを購入した。最初は手伝うと言っていたがそれはいつもの嘘でサチエの夫は一度もハムスターの面倒をみようとはしなかった。結局サチエはうまくハムスターを育てることができなくて死なせてしまった。夫はその事で妻を責めたが、ハムスターが死んで初めて夫がぐったりとした小動物に興味を示したことをサチエは見逃さなかった。
それからというもの、ペットが死ぬとQが新しい小動物を購入してサチエあずけ、またサチエが死なせてしまうという繰り返しが続いた。サチエはやっと夫が意地悪で動物を買ってくるわけではないことを理解した。彼はアタシにスケープゴートを与えてくれているのだ。こいつよりマシ。そのうちに彼女の虐待はほんの少しずつエスカレートしていった。最初は餌をやらずに黙ってみているだけにした。徐々に小動物は弱っていった。やがて餌に殺虫剤をかけたりいろいろ工夫するようになった。動物が死ぬと夫は口で悲しいと言いながら顔では満足そうな表情を浮かべた。夫はいつも言葉と表情が二律背反する。
重役にまでなったのに夫はなぜか簡単に会社を辞めた。それからすぐに親の伝手で代議士秘書となった。サチエも夫と共に東京に出て一等地のマンションで暮らすようになった。
東京に来て間もなく夫がペットショップから白いウサギを買ってきた。まだ子供とはいえウサギほどの大きさの動物は初めてだった。子ウサギはたいへん臆病で隠れてばかりいる。サチエは少しだけウサギに共感した。初めて彼女の掌から餌を食べたとき彼女は訳もわからず涙を流した。今までに味わったことのない感情。つぎの瞬間 玄関から夫が帰ってくる音が聞こえた。サチエは慌てて頬を拭っていつもの彼女に戻った。
結局サチエはうまく育てることができずにウサギも他の小動物同様死なせてしまった。名前も付けてやらなかったウサギが弱っていくのをどう世話したらいいのか困り果てたまま彼女は最期を看取った。
夫は妻を励ました。「早く元気にならないと次の生き物を飼えないじゃないか」
そっか。アタシを人形にすることであなたは手を汚さずに欲望を満たしているのね。でもアタシはそれを拒めない。それはあなたがお母さんと同じだから。アタシは今の生活に不満を持ってはいけない。彼の言う通りにさえしておけばアタシはしあわせを確保できるのだから。母さんもきっとそう言う。
ある日、夫が珍しくはしゃいで帰宅した。彼はアメリカ行きが決まったと報告した。肩書はスーパーエグゼクティブプロデューサー。
「これでやっとニューヨーク帰りの箔が付くぞ」そう言って夫はワインのコルクを抜いた。
サチエは続く夫の言葉に眼を丸くした。夫は給与やら保障やら保険やらの関係で彼女にも新しい職場で働くよう命令した。いったい何をしろというのか。地方のさほど大きくない会社で受付しか経験したことのないアタシに。
「何もせず席に座っていればいいんだ。あくまで政府から余分に金を貰うための口実なのだから。世の中とはそういう仕組みだ。オマエは黙ってオレの言うことに従えばいい」
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