第28話 きらびやかな繁華街の裏手にあるこじんまりとした耳鼻科
頭の中に靄がかかって視界がいつも一メートルしかないような日々をすごした。働きもせず家で呆けたように口を開けて時々天井を見上げてはため息をついた。妻から与えられた食事を口に運んでは腹を壊してトイレに駆け込む。深夜になると膝を抱えてあれやこれやと悩み怒り呪い後悔し乾いた咳を吐き出した。不自然なほどに大きな窓が明るくなる時刻にやっと浅い睡眠が訪れる。感情が死んでいるので何を見ても興味が湧かずただ灰色の部屋の壁をぼうっと見ている。暇があれば寿命で死ぬであろう年齢を想定して指を折った。自殺する勇気がないので自然に死ぬまでの日数を数えるのだ。毎日何度も計算を繰り返す。あと〇日で死ねる。あと〇日で死ねる。
比較的気分が安定している時期を見計らって繁華街の裏手にある小さな耳鼻科に予約を入れた。咳が止まらなくて頻繁に血を吐くようになっていた。通い出してしばらくした頃 医者が訊ねた。
「Fさん、ひょっとしてストレスを溜めていません」
F氏は蹴られた子犬みたいなびくびくした姿勢のまま驚いた表情を医者に向けた。耳鼻科医はそれまでの薬をやめてストレスを減らす漢方の薬を処方してやった。何をやっても改善しなかったF氏の咳がその日からぴたりと止まった。
耳鼻科に通う必要がなくなると医者に勧められてF氏は心理カウンセラーを探した。八つのカウンセリングルームの門を叩き、相手のほうから断られたり、追い打ちをかけるようにハラスメントを受けたりして傷口に塩を塗られるような思いをした。他人に頼ることを諦めたF氏は図書館に並ぶ心理学の書籍を端から順番に読み漁ることでカウンセリングの代替とした。開業したての臨床心理士並みに詳しくなるまでにはさほど時間は掛からなかった。基本的信頼感、アダルトチルドレン、モラルハラスメント、モビング、日本人と欧米人の価値観の違い、共依存症、代理ミュンヒハウンゼン症候群、ガスライティング。本の力を借りて回復に向かっていったF氏だったが、どうしても最後は誰かから承認を受けなければならない。それだけは避けることのできない壁だった。ただし彼の場合は基本的信頼感がゼロというわけではなかった。それが救いだ。両親の希薄な愛情はもちろんのこと、ふたりいる姉のうち長女のほうからごくわずかな承認を受けていたおかげだ。それでも誰かから理解され受け入れられるという経験が絶望的に不足しているのには変わらない。そのせいで過剰な承認欲求をしてしまい余計に鬱陶しがられて嫌われてしまう。負のスパイラル。しかし本を読んだだけでは承認されるという経験にはいたらず、ましてこうしている間にも日々 妻からは自信を無くす言葉を浴びせかけられている。F氏はもう一度だけ挑戦してみようと地下鉄を五駅進んだ駅前のカウンセリングルームに予約をいれた。今度はDV男呼ばわりをされた。あらたな傷がひりつくのを感じるまま地下鉄には乗らずオフィス街を歩いた。適当に横道に入ってふと見上げた視線の先に別のカウンセリングルームの看板があがっていた。これで本当に最後。どうせ予約無しということで門前払いだろう。これを最後に諦めて一生基本的信頼感が薄いまま生きていくことを受け入れよう。すべてを望むのは贅沢だ。いまさら人並を望んでどうする。
たまたまキャンセルが出たおかげで気前よく話を聞いてくれると請け負ったカウンセラーは臨床心理士というより気さくなエンジニアといった風貌だった。F氏自身もなぜそうなったのか分からない。ひとしきり直前のカウンセリングルームで体験したDV男呼ばわりのことで愚痴を吐き出したあと突然 妻の話でも仕事の悩みでもパワハラの件でも家族のことでもなく なぜだか中学の時に起きた暴行事件について話し始めた。机を挟んで対峙した臨床心理士は辛抱強くF氏の話を聴いたあとひとつだけクライアントに対して異論を示した。
「Fさんはお話しされるまえに人生の中で最も恥ずべき絶対ひとに知られたくない過去とおっしゃられましたが、それは違いますよね。貴方が話されたその中学の頃の出来事は恥ずかしい物語ではなく英雄譚ですよ。普通に考えて」
F氏は次回の予約を入れなかった。臨床心理士もF氏の判断に満足していた。たった一度。たったひとかけらの承認を彼はずっと欲していたのだ。そしてそれは今満たされた。
どん底から這い上がったF氏はサチエとの離婚を念頭にゆっくりと準備を始めた。これまで妻にまかせて口出ししてこなかった事柄を少しずつ手元に引き寄せていく。手始めに家計簿を彼の管理下に移す。もちろんへそくりもあるだろう。それでも把握できるだけの金の流れはすべて彼が掌握した。間もなくしてF氏はいつまでも終わりそうにない借金を比較的容易に返済した。金銭の管理を始めてから気付いたこともあった。妻の収入だけでも充分貯金できるのだ。共働きしていた時期ならば五年で中古のマンションが購入できただろう。何が都営住宅以外に方法が無いだ。
妻の稼ぎだけで充分やり繰りできることが分かるとF氏は目先の金を求めて無理にアルバイトを探すことをやめ心の回復を優先させることに決めた。金を掌握したあとは今度は家事に手を伸ばした。散らかった部屋の掃除をし、洗濯をし、スーパーに買い物に行って料理を作った。不思議なことに彼が洗濯するようになってからシャツの首が伸びることが無くなった。妻の料理ではなく自分の料理を食べるとこちらも不思議なことにトイレに駆け込むことがなくなった。こうやってF氏は主夫となった。身体を動かすようになると心も幾分軽くなり彼は設計の勉強を再開した。それから筋トレをし、英語の勉強をし、ジョギングを始めた。ゆっくりとした歩調でF氏の生活からサチエの存在が霞んでいった。
当て擦りのつもりだろうか。最近夫は家事をするようになった。通帳も奪われたまま。認めたくないがアイツは一度スイッチが入ってしまうとあらゆるものを器用にこなしてしまう。だから皆スイッチが入らないように、入ってもすぐ挫折するように仕向けてきたのに。それなのにアイツは今度は居直って主夫になってしまった。こんなこと許されない。どうしてアタシが外で働いて向こうが家でのんびり家事してなければいけないの。これでは夫婦がさかさまじゃない。そもそもアイツは幸せになってはいけない。アイツが不幸であることがアタシも不幸であるという証拠になり、他の人から非難されないための担保となる。友達やお母さんよりも幸せになってはいけない。絶対に。もう一度あの人を陥れなければ。たとえこの命と引き換えにしても。
サチエは生まれて初めて頭に血をのぼらせた。ルールを無視して自信を付けかけている夫に。友人という名の支配者に。自分で考えることも、自分で判断することも許さない心の中の母親に。自分自身に。幼い頃、母に連れられていった宗教に。暗く冷たい蛍光灯とたくさんの大人達が一心に何かを唱えている世界に怒りをぶつけた。助けを求めて手を伸ばす。この寒い場所から救い出して欲しい。それがFの役目だったはず。彼女の中で封印されていたものが噴出した。極度のストレスは体調の変化となって現れ彼女の身体を無音のうちに蝕んでいった。
長い苦悶の末にF氏は離婚を決意した。現状のままでは階段をのぼるそばから足をすくわれているようなもの。一時的に経済状況が悪化しても清く別れるべき。これを機にアメリカに行くのもありかもしれない。離婚届を区役所にもらいに行ったのは街路樹の枝先が揺れる風の強い午後だった。区職員はお察ししますという表情で同じ書類を二枚手渡した。
「記入ミスがあるといけませんので」
「話がある」
いつもの食卓が妙に暗く感じた。
「アタシも話がある」
なるほどそうきたか。F氏は正直肩の荷が降りた気がした。サチエのほうから離婚を切り出してくれるならそれに越したことはない。彼女のことだからただで済ませてはくれないだろう。それでも今の自分ならどんな仕打ちも切り抜けられる。だがサチエの話はF氏の想定を超えるものだった。
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