第26話 判決
「アンタみたいに仕事のできる人ばかりじゃないのよ」女社長Qが金切り声をあげた。
サチエの顧客から紹介された建築設計事務所ははじめからハラスメントするためだけにF氏の席が用意されていた。無視、軽蔑、マウント、決めつけ、仲間外れ、情報の不伝達、陰口、言葉の端に込められた侮辱。半年ほど我慢して女社長から例の科白を聞かされた夜 F氏は妻に相談した。
「いつまで甘えているの」サチエはそう言って夫を突き放した。「愚痴ばかりで努力しないからダメなんじゃない。逃げてばっかり」
F氏は今更ながら相談する相手を間違えたのだと気が付いた。やれやれオレの居場所は自分で引いた間取り図の中だけか。咳が止まらない。
翌朝F氏が出社すると机の上の資料がすべて破かれていた。パソコンは片付けられ、愛用の事務用品は捨てられ、机の天板の上にはパソコンと資料の代わりにくず入れが置かれていた。椅子はどこに隠されたのか見つけることができなかった。F氏は黙って机を片付けて、それから徹夜で最後の仕事となる設計図を完成させた。彼がこの時描いた図面が建築デザイナーQの名前で実際に建てられていることをその後もF氏は知らされていない。
サチエの上顧客である建築デザイナーQ氏。F氏が彼の声を聞いたのはその時が初めてだった。相手は電話口で自分の顔に泥を塗ったとF氏を叱責した。
「サチエさんにも謝りなさい」
裁判所を訪れたのは生まれて初めてだった。会談の踊り場の壁に何かわからない染みがべっとり付いていた。通路に並んだベンチシートに慣れない素振りで座る。隣にはおおよそ裁判所にふさわしくない男が座っていた。胸元が開いたシャツにブランド物の黒ジャケット。左手首には金の腕時計が光っていた。人を騙すのが常態化しているのだろう。爬虫類のような黒目をして口角を常時あげていた。太っていて頭髪が薄いせいかなんだか勘違いしたホストみたいにみえた。ベンチに対面する部屋が破産申請の部署とわかって合点がいった。
しかし妙なことに裁判が始まる旨を伝えられるとその男もF氏の後を付いてきた。驚くべきことに勘違いしたホストみたいな男は破産宣告の手続きを待っているのではなく相手側の弁護をする弁護士だった。
裁判官は弁護士Qと被告の女性経営者Qの苗字が同じなのを見て親戚ですかとフレンドリーに訊ねた。ふたりは同時に偶然だと答えて一同は和やかに笑った。一方原告の男を見て裁判官はなんだか鼻持ちならない男だなという印象を持った。彼はこの時点でおおよその結末を決定していた。一方F氏側の弁護士も小遣い稼ぎのつもりで仕事を請け負っただけでやっぱりF氏のことを鼻持ちならない奴と内心軽蔑していた。F氏は裁判が始まる前から四面楚歌だった。
裁判はモビングの延長戦と化してF氏の精神をずたずたに引き裂いた。いわゆるセカンドレイプだ。来る日も来る日もまるでこちらが犯罪者であるかのように文書が提出され質問された。裁判は最終的に不慣れな原告に対して裁判官となぜかF氏側弁護士までもが言いくるめるようにして和解へと持ち込まれた。F氏に対する補償は無く、反対に会社の悪い噂を外に漏らすなという誓約書にF氏はサインさせられた。
「悪い噂を口外しないというのはお互いにという意味ですよね」
F氏が確認の意味で放った言葉に裁判官は顔を引きつらせた。
「もちろんです」
F氏と対面して座る相手弁護士の舌打が乾いた部屋にこだました。
裁判が終わってF氏に残されたのは弁護士費用の請求書と挫折感だった。さすがに法は誰に対しても平等だろう。そう思っていた、いや信じたかったF氏はこの瞬間からあらゆるものに絶望してしまった。喉が止まらない。
裁判が終わって一週間後、F氏はかつての同僚に呼び出された。そこで初めて相手側の事情を彼は聴かされた。F氏が訴えて間もなく女社長Qと弁護士Q、それから女社長Qの会社とは元請け下請けの関係だった建築デザイナーQによる裁判対策チームが結成された。女社長に弁護士を紹介したのは建築デザイナーQだった。そしてこの会議にF氏の妻であるサチエも頻繁に顔を出していた。サチエは最後の切り札として登場する予定だった。だがその前にF氏が折れたので出番が無くなった。かつての同僚は自分も昨日辞表を出したこと、余計なおせっかいだが奥さんには気を付けたほうが良いことを告げてテーブルに置かれたコーヒー代の請求書を無理にでもと掴んだ。
彼の不幸は自力で機能不全の家庭から逃がれたにもかかわらず、またすぐに同じ問題を抱えた女性と結婚してしまったところにある。サチエは夫を陥れるため仕事のできない男という既成事実を周到に積みあげていった。自信を失うような声掛けをし、気に障るような事を言って気を散らせ、人前で恥をかかせ、二律背反することを同時に言っては混乱させ、夫の悪い印象を周囲にほのめかした。F氏の人生が期待通りにはいかず真逆の結果に終わっていたのは偶然だけとは限らない。そういうふうに仕向けていた人物がそばにいたのだ。サチエは夫の人生だけでなく具体的な貯金についても積極的に散財して余裕の無い環境を作っていった。その行為はちょうど彼女の母とそっくりだった。サチエのおこないは常に霧に紛れるように曖昧で判然としないまま執り行われる。手は汚さない。常に逃げ道は用意しておく。安全な逃げ道を得られない場合は無理に計画を進めずに簡易的な罠だけ仕掛けてまた次の機会を待つ。罠はいくらでも仕掛けることができた。夫の脇の甘さが自分に対する信頼感から来ているとは彼女は考えもしていない。アタシならこんな簡単なトラップには引っ掛からない。こうやって彼女は駄目な男を健気に支える優しいサチエさんを演じ続けた。そうすれば周囲から承認が得られる。彼女が枯渇しているもの。それは承認。彼が枯渇しているもの。それもまた承認。ふたりは同じベクトルに悩み、逆のベクトルに向かって走り続けていた。
まがりなりにも一家の大黒柱。建築デザイナーQから紹介された事務所を辞めたあとF氏は無理にでもと日雇いの仕事を始めた。収入は一層安定しなくなった。仕事のある時期はそれなりに稼ぎ、無い時期は雀の涙。そんな夫に妻は当てつけで自分の顧客の自慢をした。ニューヨークの建物も手掛けたことのある一流建築デザイナーQ氏は先日車を購入できるほどの値段の骨董品を玄関に飾ったという。他にも若くして都内に一軒家を建てた敏腕証券マン、去年ドラマをヒットさせた名プロデューサー。偶然ではあるが彼女のクライアントは離婚して夫が子供を引き取ったケースばかりだった。遅ればせながらようやくF氏は妻の自分に対する態度に疑問を抱くようになっていった。元同僚は正しかった。振り返ればサチエはF氏が仕事に充実感を求めることを嫌っていた。仕事に満足していると不服そうな顔をし、職場の人間関係で相談すると途端に顔が晴れた。少なくともサチエが夫に強い対抗心を持っていることは間違いない。まるで札幌でモビングをした同僚達のように。そう。彼女もQの一派なのだ。交際して結婚するという特殊な立場ではあったが彼女は今でも一貫して向こうのグループだ。しかしそれだけではない。彼女の憎悪はQのシンパのそれを超えていた。夫が不幸になるということは運命共同体であるサチエも不幸になるということ。それをわかっていながらサチエは夫への破壊行動を止めらない。いったいどこを直せばいいのか。どうしてあげればサチエの気が済むのだ。どうすればふたりは理解し合える。それともオレは仕事にせよ何にせよ上手くやってはいけないという事なのか。それが答か。かつて家族がそれを期待したのと同じように。
サチエの奇行に気付いたのはこのように彼女に対する疑いの目が芽生えた時期だった。どういうつもりか妻は夫の給与明細に合わせて毎月同額の借金をした。当初はF氏は生活費のうち足りない分を補っているものだと解釈していた。数字の一致は単なる偶然なのだと。自分の収入が少ないので申し訳ないとさえ思っていた。しかし給与明細の額と借金の額の一致は毎月必ず百円単位で時には十円単位で繰り返された。どうやら妻は夫の収入を借金を作ることによって相殺しているらしい。つまり彼女は夫に収入があること自体を否定しようとしていたのだ。それに経済的に余裕ができてしまうと夫は引越しを考えるはずだ。Qアパートに留まるか、それとも貧困者向けの都営住宅に引越すことでさらにプライドを傷つけるか。それ以外の選択肢を夫にもたせたくない。給与明細の額に合わせて毎月借金するという奇行はそれからもずっと続いた。F氏はいつまでも妻に問いただす勇気を持てずにいた。一度問いただせば今度こそふたりの関係が壊れそうな気がする。
頑張って働いても報われることはない。むしろ借金の利息を計算に入れれば頑張って働いたぶん借金は増えていく。頭ではそうはならないと否定できても心が日に日に重いチェーンに縛られていく。ある朝F氏は働くことに恐怖を感じて動けなくなった。
無断でバイトを休み、幾日も部屋の中で考え続けた。どうやらサチエは本気でオレの人生を磨り潰そうとしている。ちょっとした夫婦間の行き違いとか夫の素行の悪さに対する妻の復讐とか少し魔が差しただけとかそういった性質のものとは違う。付き合い始めた頃からずっと彼女の理解不能な言動に困惑させられてきたが見方を変えればなんということはない。一度彼女の大前提を理解してしまえば首尾一貫わずかな矛盾もなくサチエは行動していたのだ。その前提に薄々気付きながらも長いあいだ目を背けてきたのはF氏のほうだ。サチエが夫に望んでいるもの。それは彼女に向けた優しさでもしあわせな家庭でも安定した生活でもない。彼女が望むもの。それは夫が自暴自棄になって牢屋にぶちこまれるか、精神的に追い込まれて自殺するか、それが叶わないならせめて精神病院に入院するか、このいずれか三択。
ありあわせの包帯で補強されていた心が遂に壊れた。彼はこの時になってやっと家族を作るという試みに失敗したことを悟った。両親の勝ちだ。姉の勝ちだ。これまで出会ってきたなぜか名字が同じQという人々の勝ちだ。ありとあらゆるF氏を良く思っていない人々の完全勝利だ。咳をして吐いた血を掌で受ける。F氏の様子は目に見えて変わっていった。背中を丸め、頻繁に咳をしては不健康そうな顔をして、働きもせず部屋に籠り、事あるごとに言い訳をし、愚痴を吐き、誰も彼もを手当たり次第に嫉妬の対象とした。F氏はサチエが望む理想の夫となった。
サチエは最後の一手として前にも後にも身動きとれなくなるようF氏に首輪を掛けた。
「離婚したらアタシの友達が一斉に攻撃を始めるからね。みんな我慢してきたんだから」
F氏としても今すぐの離婚は得策と思えなかった。すっかりまともな判断ができなくなった彼が必死に考えた末にだした最善策は恥を凌いで妻に養ってもらう。これだ。ここからはしたたかさが要求される。これまでのF氏にはなかった生き方。彼は妻に言われたとおり伏し目がちな飼い犬となった。その日から直接であれ間接的であれF氏を知る者は総じて彼と自分とを比べて自信をつけるようになった。
アイツよりマシ。
どこか別の世界でビルの上のガーゴイルが高笑いした。
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