第25話 Qハイツ

 何も決めずに東京にやって来たふたりはビジネスホテルに泊まりつつ夫は仕事を、妻は新居を探すという生活を始めた。間もなくF氏は小さな建築設計事務所に拾ってもらいビジネスホテルから通うようになった。一方なかなか部屋を決められずにいたサチエは夫の助言を受けてビジネスホテルよりは安価でアパートよりは高額な週貸しのアパートを見つけだした。最寄りに広大な公園のある高級住宅地。その坂を登りきった頂上にある場違いなアパート。Qハイツだ。サチエはまだ札幌にいた頃に夫からQにまつわる奇妙な話を聞かされていた。なぜか彼の人生には決まってQという苗字を持つ人物が現れる。そしてそのQ登場をきっかけになぜか人生の軌道が狂ってしまうのだ。それを意識してこそのQハイツだった。週貸しのアパートに引越すとサチエは早速友人を通じて前の職場の先輩Qに近況報告をいれた。


 短期滞在ということもあり新居最初の夕食でF氏は妻にこう宣言した。

「早ければ一か月、遅くとも一年以内にもっと広いきちんとした部屋を見つけよう。それから貯金してどこか郊外にマンションを購入する。そうしたら今度こそ子供を作ろう。だからサチエも応援してくれ。オレは仕事を頑張る」

 この言葉を受けてサチエは冷めた目付きをしてみせた。翌日彼女は夫に相談もなく大きな冷蔵庫と洗濯機とテレビを購入して部屋に入れた。どうやら彼女は一時凌ぎではなくこの部屋に住みつきたいらしい。


 勤め始めた小さな会社で荷物の運び出しからお茶くみ、車の運転やトイレ掃除まで彼はなんでもやった。クリエイティブな生活とはかけ離れた毎日だったがそれでもしがらみの無い都会で身を粉にして働き 家に帰ればサチエがいる暮らしは張りがあった。これでやっと自分も家族を持てた。自分を必要としない家族ではなく愛し合った家族。でも時々彼女の冷めた眼がなぜだか胸を締めつける。


 新しい職場に慣れたころまだ半年ほどのことだった。F氏は再びパワハラを受けるようになる。会社のメインデザイナーでもある社長の息子がF氏の仕事振りを見て不安を感じたのが発端だ。F氏は呑み込みは遅いが一度要領を覚えてしまうとあらゆる仕事を巧くこなす。また素人とはいえ設計図を描かせると独特のセンスが垣間見られ社長の息子に嫌な予感がよぎった。おまけにF氏は権力に媚びない。いつかこの男は自分が会社を継ぐうえで大きな障害となる。つけ加えればこっちは結婚相手を探すのにも苦労しているというのに向こうは美人の奥さんがいる。鼻持ちならない。


 パワハラが繰り返されてもF氏は意に介すことなく黙々と仕事を続けた。だが平気なふりをしていても心より身体のほうが先に音をあげた。彼は乾いた咳をするようになりやがてその咳が止まらなくなった。

 いくら嫌がらせをしてもFは職場を辞める様子をみせなかった。このままでは埒が明かない。社長の息子は興信所に金を払ってF氏の素行調査を始める。間もなく以前の職場や疎遠になっている家族から充分過ぎるほどの情報が集まってきた。案の定元職場や彼の両親、それどころか彼の妻でさえF氏のことを良く言う者はいなかった。自信を得た彼は集めた情報をまとめて父親のデスクにドスンと置いた。F氏に目を掛けていた会社経営者はレポートを見てもF氏に対する評価を変えなかった。彼はF氏を良い人間だと思ったし有能だとも思っていた。だが息子がそれほどまでに嫌っているというのならいずれふたりに亀裂が入るのは火を見るよりも明らか。そう判断して経営者はF氏の解雇に踏み切った。F氏を追い出したあと社長の息子は運が開けたのか間もなく見合い結婚をした。政略結婚だったために婿養子となり、以来彼はQという苗字を名乗るようになった。


 会社側からの一方的な解雇ということもあり、また目を掛けていたということもあって会社経営者は息子には内緒と口止めをして多めの退職金を渡した。その金をF氏は建築設計の勉強に充てた。アルバイトをしながら本格的に建築設計を学ぼうというのだ。アルバイトはどれも長続きしなかった。レストランで皿洗いをしたり、事務用品の営業をしたり、紳士服の販売員をしたり、研究所のテストドライバーをしたり。どの職場でも最初のうちは仕事のできない奴と莫迦にされた。やがて時期が来るとF氏は突如コツを掴んでしまい誰よりも上手にこなすようになった。調理場では皿洗いから調理に昇格した。事務用品の営業では大きな顧客を任された。紳士服の販売では全国トップ販売員として表彰され、テストドライバーの時には専属でという話が持ち掛けられた。しかしいずれもそういった有能さが嫉妬を生んだ。彼は仕事に対して表面的なことを真似るのではなく、なぜその作業が必要なのかという理由から追及していった。そのため傍目から見てしばしば要領の悪い人物に見えたが一旦仕事の本筋が見えてしまうと誰も追いつけない領域にふわりと着地してしまう。時には彼は代々受け継がれてきた手法とはまったく違ったやり方で効率的に仕事をやってみせ周囲の者に息を飲ませた。そんな時、ある者はF氏の仕事に感嘆し、ある者は愚弄していると非難した。どこの職場でもF氏のアイドリングが終わり、いよいよ全開で仕事をし始めるとそれまで彼を見下していた同僚達が互いに顔を見合わせて苦笑いするという時期がおとずれ、それからちょうど七営業日目に決まって誰かが代表して彼の前に仁王立ちした。

「オマエみたいに仕事のできる奴ばかりじゃないんだよ」

 そこからはいかにして足を引っ張るかが同僚らの関心事となる。それが会社の不利益に繋がるとも知らず。この時期が訪れるとF氏はそっと仕事を辞める準備を始めた。F氏が去ったほうが会社のためなのだ。そうして彼はアルバイトを転々とする。妻に辞めることを告げるとサチエはいつも内容を聞かずにただ「辞めた方がいい」と乾いた声で告げた。


サチエはうだつの上がらない夫の代わりに仕事をしたいと考えるようになった。F氏はどうせやるなら自分が好きなものを選んだほうが良いとアドバイスした。二度の進路変更の末にサチエはたまたま道端で知り合って仲良くなった主婦の紹介でベビーシッターを始めた。美人で愛想の良いサチエはあっという間に人気者になった。彼女は夫が仕事を辞める度にどんどん元気になっていきより良い条件の顧客を増やしていった。まるで人の気力を吸い取る吸血鬼。やがてサチエはフリーで活動することを決める。F氏も立ち上げの際には妻の仕事を全面的に応援した。チラシのデザインをしたり、そのチラシを配布したり、事務手続きを一手に引き受けたり、モチベーションが上がるような言葉掛けをしたり。家事だけはプライドが傷つくと断られたので引き続きサチエに任せた。


 サチエがフリーになって最初に契約したのが夫が気を利かせて作ったホームページを見て連絡してきた夫婦だった。その後もHPやチラシを見て依頼する客が増えていったがサチエはその全てを知人からの紹介だと偽った。F氏には理由が分からなかったがサチエは夫の貢献を面白くないと思っているようだった。報われないF氏はしばらく経つとHPの運営を含むすべての応援をそっと停止した。サチエはその事実さえ気付かずにいた。夫のやる事に興味は無かったし、助けを借りなくても彼女独りでやっていける状態までビジネスは完成されていた。活き活きと外で仕事をするサチエ。引け目を感じながらアルバイトを転々とするF氏。ふたりの姿は昼と夜。


 珍しく長続きしていた清掃業務のアルバイト先でF氏は突然事務所に呼びだされた。またクビかとふてくされていた彼は耳を疑った。

「今の仕事を任せたいので社長になってもらえませんか」

 清掃業務の雇われ社長をやらないかと持ち掛けられたのだ。経営者の説明はこうだった。本業の翻訳が忙しくなった。集中したいので成り行きで引き受けていた清掃業務を思いきって切り分けたい。それにともない外国に住む友人の資本を投入して業務を独立させ、実際の経営はF氏に任せたい。会社は元々経営者をはじめ社員全員が帰国子女で占められていた。そのせいかF氏にとっても風通しの良い職場であった。社員のほうもアルバイトのFさんに対する信頼は厚い。悪い話ではなかった。帰宅してサチエに相談すると翌日彼女は夫がかねてより希望していた建築設計の仕事を紹介できると申し出た。

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