第24話 モビングのなかで彼女と出会う
高校を出るとF青年は家出同然で独り暮らしを始めた。最後の荷物を実家から持ち出す時 これで家族はしあわせに暮らしていけると彼は微笑んだ。両親が離婚を口に出すことは二度とないはずだ。姉達が些細なことでいがみ合うのも減るだろう。親戚同士の陰口の応酬も収まる。なんせ家を出ていった放蕩息子を嘆いたり罵ったりしておけば家族の和を保っていられるのだから。これこそが彼にとって最高の親孝行の瞬間だった。
家を出てすぐにF氏は大学を中退した。世間体を気にする両親のために進学したまでで彼からすれば受験や就職のために勉強するのは学問に対する冒涜だった。
最初のモビングは勤め始めた建築設計事務所で起きた。もともとはシステムエンジニアとして就職したがそこで彼は建築美術に魅せられた。ある日、見よう見まねで書いた図面が周囲の反感を買った。大人になるにつれ愛想が無くなってゆき、それと反比例するかのように仕事を効率化させていったF氏は嫉妬深い連中から恨まれ、スケープゴートを欲していた面々から標的とされた。対抗意識を隠そうともしない同僚。露骨に邪魔する先輩。依怙贔屓を悪とも思わない上司。F氏は情報を与えられず、孤立し、ミスリードするとほらやっぱり奴は無能だと陰口を叩かれた。いつのまにか彼らは会社の利益を度外視して鼻持ちならないFの足を引っ張ることに専念するようになっていた。本末転倒。残念ながら世の中はF氏が期待していたものとは違っていた。子供の世界と違って大人の社会では頑張っていれば報われる。そう信じていた。だが現実は前向きに生きる者、真面目に働く者は報われず、仕事そっちのけで序列争いをする者が発言力を増していく。所詮世の中なんて押しのけ競争か可愛がられ競争なのだ。
しかし彼はまだこの時 ハラスメントグループの中心人物がよく世話を焼いてくれていた先輩Qとは気付いていなかった。
別の部署で指揮を執っていた若きリーダーQはしばしば会議で名前のあがるFのことを良く思っていなかった。しかし嫌いとも思っていなかった。彼からすればFはからかうのにちょうど良い玩具という印象だ。外堀を埋めて信用を失墜させ それから先は無能のレッテルを貼って笑い者にしておくか それとも思い切って追い出してしまうか あとはそのときの気分次第。
一方F氏は周囲の挑発にはのらずさらなる仕事のギアを上げていった。しばらくするとハラスメントの加害者たちがよわったなという表情で視線を飛ばし合うようになった。さすがに無能と呼ぶには無理がある。やれやれ期待どおりの出来損ないでいてくれればよかったのに。周囲が見下した態度から微妙な態度へと変化してからちょうど一週間後、ハラスメントグループのひとりが代表してFの前に仁王立ちした。
「オマエみたいに仕事の出来る奴ばかりじゃないんだよ」
どうやら仕事ができなくても、できても批判されるらしい。何をやっても何もやらなくても癪に障るのだ。息継ぎさえ許されない世界。F氏はふと昔の友人を思い出して天井を仰いだ。タナカマルはどうしているだろう。まだ祖父のもとで暮らしているのだろうか。今からでもオレもアメリカに行けるだろうか。
サチエと初めて会話を交わしたのはそんなざらついた毎日を過ごしていたある朝だった。エントランスホールで彼女が落し物と言って渡したのはF氏のペンではなかった。
F氏が孤立しているという事実は受付のウミノイエ サチエにとってはどうでもよい事柄である。少なくともそう受け取れる振舞いを彼女はした。たとえ鋭い視線を浴びせられても彼女だけはF氏と普通に会話をした。F氏は少しだけ自信を取り戻した。もしかすると会社ぐるみのパワハラというのは大袈裟なのかもしれない部署が違えば誰も彼のことを目の敵にはしていない。のかもしれない。
サチエは社内でも有名な美人だった。その受付嬢が厄介者のFと仲良くするのを見て余計恨みを募らせた男性社員も少なくない。孤独だったF氏は当然の流れでサチエに惹かれた。間もなくふたりは職場に隠れてデートを重ねるようになった。
妙な事が起き始めたのはこの頃からだった。サチエと親しくなるにつれてF氏のプライベートが職場で周知されるようにもなっていたのだ。
数か月が経ち遂にF氏にも禊が終わる季節、春がやってきた。新入社員のなかにいかにも虐められやすそうな女性がいた。通常組織ではこのタイミングで虐められ役が交代する。F氏の場合、特別嫌われていたので数年分後輩に追い越されてきた形だ。
だがしかし。
そういった社会システム自体にF氏は疑問を抱いていた。彼は最大のチャンスを捨てて虐められ役を庇う側に立った。
間もなく庇った新入社員に梯子を外される形でF氏は職場を去ることとなった。新入社員がハラスメントする側に付いてF氏への攻撃を始めていた。気付けば会社の運営を妨げているのは虐めに明け暮れる連中ではなく周囲に合わせることのできないF氏のほうだという論調になっていた。彼さえ引けば職場はまるく収まる。共に暮らすようになっていたサチエもF氏に退社を勧めた。仕事に生き甲斐を求めるなというのが彼女の持論だ。F氏はこれを契機にアメリカに行きたいと恋人に呟いてみた。サチエは英語もできないくせにと一蹴した。その代わりという訳でもないがサチエはすぐにでも籍を入れて子供を作りたいと主張した。それに対しては経済的不安を理由にF氏のほうが返事を濁した。視点の違いすぎるふたりは妥協案としてアメリカではなく東京に行き、子供はまだだが籍だけはひとまず入れることで話をつけた。
こうして職場の先輩Qはサチエを遠隔操作することで邪魔者Fを追い出すことに成功した。この経験により自信を持ったQは同じ手法でライバルを次々と失墜させていき若くして重役のひとりとなった。だがそれを境に会社の経営は傾いていく。当然だ。Qの発言力が増すにつれ本当の意味で仕事の出来る者は減っていき、処世術ばかりで中身の無い社員ばかりが増えていったのだから。
Qは経営責任から逃れようと倒産するより先に転身し地元の政治家の秘書となった。そしていつしか彼は国会議員や官僚の裏金を作る専門家となった。
サチエの態度が急変したのは籍を入れて間もなくのことだった。付き合っていた頃からコミュニケーションが噛み合わないとしばしばフラストレーションを感じていたもののそれはまだ互いを知らないためだろうとF氏は信じていた。しかしそんな単純な問題ではなくどうやらサチエは意図的に夫の言う事、目指している方向の逆張りをしているらしかった。「このホットドック美味しいね」そう言えばサチエは「そうね。他の店の方がもっと美味しいもんね」と返し「今朝は晴れて気持ちが良いな」と言えば「そうね。遠くの空が雲で真っ暗」と返事した。F氏にはなぜ妻がそんな態度をとるのか理解ができなかった。きっと自分に足りないところがあるのだろう。不満があるのならはっきり口に出して言ってくれれば良いのに。
サチエは職場を離れてもまだカリスマQの言いなりのままだった。彼女はQに忖度して徹底的に夫を困らせた。そうすることによって彼女の帰属意識は満たされるのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます