第23話 無重力の感覚に陥る
事件はその夜のうちに知れ渡ることとなった。両親も教師達も本音を隠そうとする努力はするものの浮足立った気持ちは隠しきれず誰もかれもが噂話で事を大きくしていった。要するに誰もが少年の惨めな姿に幾ばくかの胸の空く思いをしていたのだ。それを口にするのは不謹慎というだけ。今日は楽しい前夜祭。唯一ふたりの姉のうち長女だけが「でも相手に手を出さなかったのは偉いよね」と家族会議の流れを少しだけ変えることに成功した。
翌朝、学校では全校朝会が開かれ校長によってF少年の眼の痣について詳細な説明がなされた。校長はFの保護者が大事にしないで欲しいというのを真意は逆と読んで汲み取ってやった。そして校長にとってもそれはなぜだかスカッとする出来事だった。以来卒業するまでF少年は不良に土下座した臆病者として後ろ指をさされるようになった。
晒し者。
全校朝会が終わると少年は担任に促されるままに下校し、それから一週間休みを取った。怪我の心配ももちろんだがそれよりも痛々しい眼帯で学校に来られては他の生徒に影響があるというのが学校側の本音だった。休む理由がちょっとした事務の行き違いで落書きに対する停学処分となっていたことはF少年にとってはもうどうでもよいことだった。なにをどう弁解してもうまくはいかない。
家で反省文を書きあげてしまうと他にやることもなくスニーカーをつっかけて公園のブランコで空を見上げて夕食時まで過ごした。またこの休みの期間に行われた校外学習も彼は当然のことながら欠席した。地元の科学館に行くのだ。プログラムには東京からやって来た物理学者の講義が含まれていた。F少年は以前から悪友たちに合わせて行きたくないという態度を取っていたが本当はこの日を心待ちにしていた。
このときだ。武骨な分岐器がF0とF1の間で軋んだ音を立てたのは。
一連の事件の裏側には同級生Qの存在があった。それを知ったのは卒業式が終わったあとのことだった。クラスであまり目立たなかった女子が最後にF少年を図書室の隅に呼びよせて本末を教えるというささやかな勇気を見せてくれた。Qは転校してすぐに臆病そうなクラスメイトふたりを子分にした。そして次にスケープゴートになりそうなカモを探した。クラス皆で見下す相手を作りそいつの陰口を叩くことによって結束力を高める。もちろん中心に居るのは自分。彼が見つけたターゲットがFだった。Qの策略はみごとに成功して彼はあっという間に学年一の人気者へと駆け上がった。そして最終学年では異例の教師推薦によって生徒会長まで務め、同じく推薦枠によって彼にはそぐわない高学歴の高校へと進学を果たした。
図書室で真相を教えた女子は明日九州に引越すから心配はいらないとF少年の質問に返した。
中学の経験からFは高校にあがっても目立たぬよう学校生活を送った。それでも同じ出身中学の生徒が噂を広めたおかげで相変わらず彼は臆病者と陰口をたたかれていた。空手部に入部したのもそれが理由だ。空手部の顧問は偶然ではあるが中学の英語教師と同じQという名字だった。もちろん血縁関係は無く単なる偶然に過ぎない。
部活初日、並んだ一年生の前でQは凄んだ。
「一年は奴隷。二年は平民。三年は王様。そして顧問の俺は神様だからな」
F少年はこのとき最も価値観の合わない部活を選んでしまったと遅ればせながら後悔した。だがへたに退部すると仕返しが怖いので結局三年間部活に青春を捧げることとなった。彼の心は中学時代以上に色を失っていった。そうした高校生活で唯一心を通わせた友人が同じクラスのタナカマル サトシである。タナカマルは利口にも体育会系の部活には入部せず英会話クラブに属した。そしてタナカマルはそのクラブでもあるいはFと同じ教室でも、祖父がフランス系アメリカ人で自分はクォーターだということを自慢にした。しかし青い瞳を除けばどこからどう見てもその容姿は日本人そのものだったせいで、この年頃によく見られる思い込みと冗談の対角線上の話として周囲からは聞き流されていた。
タナカマルは夏休みが始まる直前の教室で空手部顧問をつとめていた現代社会の教師Qと口論をした。発端は民主主義についての解釈だった。帰り道、タナカマルは古めかしい校風に嫌気がさしたので祖父の住むアメリカに留学するとFに告げた。突然のことにFは誇らしいやら見捨てられた気分やらで夕陽がやけに眼に染みた。
その夜、Fは数年ぶりに両親に口を開いた。
「留学したい」
返ってきた答えは予想したとおりだった。
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