第22話 Q

 F氏は綿雪の舞う午後に札幌の産婦人科で産まれた。東京でもその日は観測史上初となる季節外れの春の雪が降っていた。


 己に付けられた名前にしっくりこないのは物心ついた頃からずっとだった。なぜか名を呼ばれたり自己紹介する度にストレスを感じるのだ。彼の両親も実のところ同じ感情を抱き、そしてそれをひた隠してきた。それは訳あって望まない名を息子に付けたことが原因なのかもしれない。

 妙な話ではあるがF氏はもちろん彼の両親もF氏の名前を誰が考えたのかどんな意味が込められているのかを知らなかった。断っておくがF氏は養子ではない。れっきとした両親の子だ。ただ両親はある仲介者からなかば強引に息子の命名を決められてしまっていた。F氏の両親はどちらも外面を気にするタイプで他者にノーと言えない性格だった。義理の押し売りに逆らうことができなかった両親は息子を犠牲にした自分達の弱さを恥じ、背中を向け、互いに傷付け合うことで現実から逃避するようになっていった。大人になった現在もF氏はその仲介者が何者かを知らない。


 F氏の家庭は両親と姉がふたりの五人家族。両親のあいだで喧嘩が絶えずF氏は親の言い争いを見ながら育った。家族のなかで長女の役割は母の友人、次女は父の王女様だった。そして末子はこうした家庭においてしばしばスケープゴートとなる。アダルトチルドレンの定番だ。もちろん彼もそのひとりだった。やがて機能不全の家庭の末子は家族の問題を一挙に背負って自分の問題として表出させる。それは問題行動となって現れる。本当は被害者であるのだが第三者が察することはなくただ社会から疎まれる存在となるだけだ。

 保育園も彼の安全な場所ではなかった。彼は眉の吊り上がった女性保育士からいつも睨まれて居心地の悪い思いをしていた。幼い彼はなぜいつも担任から睨まれるのか彼なりに考えたが結局保育士の気持ちを推し量ることはできなかった。あえて非があるとすれば昼寝の時間に布団で拘束されて眼を瞑るのが嫌だったのでずっと天井を眺めて物思いに耽ったり布団から手足を出してみたりしたのが彼女の癪に障ったのかもしれないということくらいだ。しばらくすると彼は保育園を登園拒否した。彼女の苗字がQであることを彼は知らなかったし知っていても記憶には残らなかっただろう。まだこのときにはその苗字が彼にとって特別なものとは思わなかっただろうから。


 彼の記憶にあるなかで最初にQという名を持つ人物に出会ったのは中学一年、英語教師がその苗字をもっていた。そしてアメリカという国を意識するようになったきっかけもQの授業だった。ふたりは最初から反りが合わなかった。F少年は矛盾だらけの教師の話に困惑した。英語教師Qは素直さの足りない新入生に不快感というよりもむしろ見下して嘲笑を向けたい気持ちを抱いた。俯瞰的に物事を見て論理的に分析し結論を得たい子供と近視眼的で利己的に振る舞う大人との遭遇。それは不幸しか生まない。またQがみてきた歴代の生徒のなかで最もお気に入りだったのが卒業したばかりのFの姉だったことも少なからずQの心理に影響を与えていた。

 Qは英語教師には珍しくアメリカ人の考え方に否定的な姿勢をとっていた。彼はそのクラスの三度目の授業のときにプリントを配り欧米人の価値観、考え方と日本人のそれとの違いを生徒たちに教えた。教壇に立つ彼はアメリカ人は愚かであると嘲笑し教え子たちにも一緒に笑うよう促した。笑い声が蓄積する箱の中で唯一F少年だけが笑えずにまたも困惑していた。どう煎じずめても日本人の価値観、考え方よりもアメリカ人のそれが彼にはしっくりくるのだ。

 例えば日本人は臭い物に蓋をする。反対に欧米人はわざわざ問題を掘り起こして解決したがる傾向がある。あるいは日本人は論理性や客観性よりも感情を大切にする。欧米はその逆だ。それと関係して悪に対する対処法もやはり日本と欧米とでは違う。日本の場合神輿を担ぐようにして積極的に悪を持ち上げる。そうすることで被害を最小限に抑えようとするのだ。だが欧米ではたとえ負けたとしても悪に立ち向かうことこそが美徳、ヒロイズムなのだ。まだある。日本人は個人よりも集団を優先させる。欧米人が一対一の対等な関係を好む傾向があるのに対し日本人は組織対組織とか組織の中でのポジションとかを重要視する。枠に収まってさえいればたとえヒエラルキーの下層であっても安心するのだ。そのくせ裏ではみんなバラバラだ。いざという時の自己犠牲なんて物語の世界でしか起きない。もちろんこれらの傾向には例外もあるのだが。

とはいえ、己の価値観が日本人のものよりアメリカ人に近いという事実はF少年に大きなショックを与えた。なぜなら彼は日本で生まれた日本人であるからだ。彼の両親も四人の祖父母も純粋な日本人だった。おそらく五代遡っても日本人だ。この授業を受けたあと彼は無理をして日本人らしく振舞おうとつとめるようになった。なにより彼は日本人であり周囲の者たちと同じでなければおかしい。だが彼の努力は長くは続かずしばらくして彼は息切れを感じた。言葉としての息切れだけでなく本当に胸の痛みと呼吸困難に苦しんでいた。これ以上は身体がもたない。そのとき想像もしていなかった発想が思いついた。思い切って日本人としての価値観を捨ててアメリカ人のほうを受け入れてみる。次の瞬間にはもう息苦しさが消えていた。それ以来少年は少しずつ仲間や大人達から距離を置くようになっていった。英語は毎回赤点だ。三学期には教師QもF少年も互いに相手に対して冷めた感情になっていた。こういった経験によりF氏は大人になっても英語が苦手なままとなった。最初に出会う外国語教師との相性がその後の外国語修得に影響を及ぼすことを彼はまだこの時知らなかった。


 中学二年のことだ。吹奏楽部の吐き出す音が風に吹かれる放課後F少年は職員室に呼びだされた。それは冤罪だった。校舎裏に落書きをしたのはF少年ではなく最近転校してきた同級生とその取り巻きだった。たとえ落書きの隅にFの名前が書かれていたとしてもだ。偶然ではあるがこの落書きをした同級生の名も英語教師と同じQという苗字だった。F少年を犯人と決めつけた教師Qとやっていないと言い張る生徒。ふたりのあいだで譲られない時間がたなびいている。教師Qは真実云々の問題ではないと指導した。つまりFが折れればそれで済むことなのだからと説得した。それが世の中というものだ。生徒Fは自分は犯人ではない。きちんと真実を追求すべきだと主張した。時間差で二機の旅客機が雲の線を引いていく。最後は夜勤の用務員に追い出される形でふたりは決別した。そして教師Qはこのタイミングで生徒に反省文を書けと命令した。F少年は溜息をもって了解の返事とした。積極的敗訴と言えば聞こえが良いがしつこいQに疲れて心が折れてしまったというのが本音だ。だが安易に妥協することで不のスパイラルへの扉を開けてしまうことだってある。


 すっかり遅くなった帰り道、幹線道路から逸れた脇道に一台の改造車が止まっていた。なかなかの威圧感だ。車の横には持ち主と思われる不良と連れの女。ふたりの正面にはF少年と同じ学校の女子生徒が立っていた。部活で遅くなったのだろう。女子生徒と不良の態度は対照的だった。遠くからでも何をしているのか容易に判断できる。カツアゲだ。F少年の足が自然とそちらに向かった。


「どうした」少年は努めて明るく女子生徒に声を掛けた。

 F少年が近づくのと入れ替わりで女子生徒は走って逃げた。不良は女子生徒を逃がしたものの新たにやってきたカモに興味を示してじろじろとその華奢な体躯を値踏みしはじめた。煙草と安物の香水の匂いがF少年の鼻を刺激する。少年は最初こそ不良に恐怖心を抱いたがそれから数秒のうちには恐れるに足らないという判断を下していた。見るからに不健康そうでよく見たら身長もたいしてかわらない。何よりその眼には臆病さが宿っていることを少年は見抜いていた。少年にとって恐いのは目の前にいる男ではなくその男の背後に隠れた集団。不良の後ろ盾がどのくらいのものなのか人生経験の足りない少年には想像すらできなかった。いらぬ妄想ばかりが膨らむ。

 不良が女に言った。「なんかこいつ生意気だよな。こいつの眼、ムカつかつかない」

 隣の女は返事をしなかった。無言を貫くのが彼女のスタイルなのだろうか。あるいは中学生を相手にする男の器の小ささにうんざりしていただけなのか。

「こいつ殴ってもいいかな」不良が女に承認を求めた。

 少年は身体を固くした。厄介なことになった。男の問い掛けにやはり女は何も声を出さなかったが今度は承諾の意味で少しだけ眉を吊り上げた。

「よし。やってやる」男が指をぽきぽきと鳴らした。

 男の拳は怖くなかった。F少年には相手の動きが見えていた。拳は当たらない。仮に当たっても痛くない。本当はリミッターを外せばFはなんだって器用にやれた。ただ本気を出すと家族や教師や悪友から心折れるまで口撃されるので普段から自分を偽って暮らしていただけなのだった。今はそんなことを言っている事態ではない。男の無様な空振りが続く。相手の拳をかわしているうちにF少年の中で男を軽蔑する気持ちが芽生えてきた。それが相手に伝わった。

「おまえ○○中学だろ」

 安物の香水の女が男の背後で初めて声を出した。連れの男よりずっとドスの利いた声。女はどうやら土地勘があるらしい。調子づいた少年の表情が一気に強張った。ここらで一発殴らせておかないと後でもっと悲惨な目にあうかもしれない。少年にとって最も避けたいのは家族を巻き込むこと。彼の両親なら相手に金を掴ませてでも事を穏便にすませるだろう。そのくせ根に持って事あるごとに少年を責めるようになるにちがいない。少年は覚悟を決めた。あえて男の拳を額で受け止める。想像よりもずっと重い衝撃。煙草臭い不潔な肌と細い筋肉、その下に隠された骨の硬さが順番に彼の頭蓋骨を超えて脳を震わせてゆく。一瞬頭がフリーズし、遅れて衝撃と痛みが認識された。これで満足したはずだ。解放される。しかし男は手を止めなかった。少年の余裕ある表情が男の傷付いたプライドをさらに深くえぐっていたのだ。もうガキが立てなくなるまでやってやらないと気が済まない。一度パンチが当たったことで少し自信も取り戻していた。まずいな。少年はギアを上げた。少年の眼はあどけなさを失い冷静な大人の眼に変わっていた。瞬時に論理的思考を巡らせ、直感的に正しい選択をし、感覚に任せて軽やかに動く。本気になった思考と身体にスリッパ履きした靴がついていけずにもたつく。一旦走って相手から距離をとって膝をつき、スリッパ履きしていた靴を履き直す。その時だった。注意していた方向とは別の角度から赤い物体が視界に入りそのまま右眼にヒットした。ハイヒールの爪先だ。あまりの衝撃にF少年の動きが止まった。


 本当に星って飛ぶんだ。


 ふたりの大人は跪いたまま動きを止めた少年を心ゆくまで蹴り続けた。もう誰の足かも分からない。何発かが頭を真っ白にさせ何発かが内臓に重い衝撃を加えた。

「土下座して謝れ」不良の息が荒くなっていた。

 なるほど終わるタイミングを与えてくれた訳だ。御安い御用だ。互いに次の一手はない。こちらは身体が動かない。向こうも身体が動けなくなっている。このまま時間ばかりが経過して誰かに見られでもしたらその方がもっと厄介。F少年の右眼は腫れて視界が奪われていた。左目も眼が回っていて相手の位置がどこにあるのか判然としない。とりあえず声のほうに向かって土下座した。不良の運転する自動車が空ぶかしをして去ってしまうまで少年は顔をあげなかった。

 この事件の一部始終を物陰から観察していた者がいた。最近クラスにやって来た転校生Qだ。

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