第21話 喫茶店みたい

 最寄り駅まで地下鉄で行くことにした。Qハイツまで歩いていこうとするから邪魔がはいる。今日こそは絶対にケリをつける。そう決心して靴紐を縛んだ。立ち上がりドアノブを捻る。開かれたドアの隙間から朝の匂いがする。

「よし。行こう」

 スマートフォンがポケットの中で震えた。


「今日家に居る?」

「なんで」

「昨日一時帰宅の許可もらったから。今から帰る」

「用事があるんだ」断わりつつもF氏は苦いコーヒーに濃厚なクリームを溶かした気分を味わっていた。

「用事って? ある訳無いじゃん。鍵無いし」

「合鍵は渡してあるだろう」

 サチエがまたタマキなる人物の名を出した。話を聞いて身震いした。業者とはいえ知らない人間、しかもF氏のことを良く思わない人物が部屋の鍵を持ち歩き、その気になればいつでも部屋の出入りができる状態だったのだ。思わず周囲を見渡して何か変化はないかと確かめる。


 待ちくたびれてふて寝していたF氏の頭上にインターホンが鳴ったのは夕日が窓を紅く染めていた時間だった。廊下に立つサチエの顔色は良かった。とても病院のベッドで寝ている女性には見えない。今日も彼女は美人だ。玄関ドアが閉まると早速サチエは挨拶代わりとばかりにF氏の気に障るような事をふたつみっつ見繕って言った。そして靴を脱ぐなり自転車に貼られていた紙を突き出した。「これどういうこと」

「剥がしたのか」

「だめなの。アタシの自転車なんだけど」

「剥がしたら団地の役員は自転車の持ち主が警告文に目を通したと判断するだろうな」

「何言ってるか分かんないですけど」サチエが侮辱した眼差しで笑った。

「つまり貼り紙に気付かなかったという言い訳が通用しなくなる。速やかに自転車を移動させなくてはならなくなった」

「じゃあイドーさせればいいじゃん」

「それができないから困っている」

「どうして」

「鍵が無いからだろう。せめてチェーンの鍵だけでも開錠できれば」

「じゃあまた貼れば」

「もういい」溜息と交換で警告文を引っ掴むとそのままゴミ箱に捨てた。

 サチエはF氏の苛立ちを見て満足し、それから物珍しそうに新居を見て回った。夫にとっては早くも馴染んできた住まいが妻にとっては新鮮な場所だった。ふたりの相対性理論。

「ちょっとトイレのドアが開かないじゃない。これどうなってるの」

 奥からヒステリックな声が聞こえるのを無視する。やがてその声がF氏に近づいてきた。

「なんか喫茶店みたい」

 ダイニングキッチンの襖を前回にするとF氏の部屋と繋がってひとつの細長い部屋になる。さらにその先のベランダも窓を開け放しにするとかなりの奥行きとなる。サチエはその奥行きある空間を眺めて珍しく本音を漏らしたのだ。狙い通りだ。悪くしか評価しないサチエでさえ喫茶店と例えた。照れたのも束の間。自分の振る舞いが夫に餌を与えていると気付いてサチエはすぐさま表情をこわばらせてそのままベランダに飛び出した。

「ふうん。床に木を敷いたんだ。足が冷たい。ねえ何これ」

 傍らに鉢が置いてあった。試しに種を植えたら季節外れで芽が出たとF氏は説明した。話の途中で興味が失せてしまい、サチエはオレンジ色に染まった東京へと視線を移していた。

「病院のほうがもっと遠くまで見える」

 デッキチェアの座り心地を試すサチエに夫がコーヒーカップを渡す。しばらく景色を満喫したあとサチエは空になったカップを夫に返し、飽きたという表情で彼女の部屋に入っていった。F氏は残された部屋で外出の支度を始めた。

「えっ。場所が全然違うんですけど」襖の向こうから棘のある声が響く。荷物の置き場所が指定していたものとは異なっていたらしい。無論それは引越業者の責任なのだがなぜか怒りの矛先はF氏に向かっていた。OK通常運行だ。誰かがミスを犯す。オレが責められる。

「スーパーに行ってくる。部屋に居るんだろ」

「アタシも行こうか」

 F氏は適当に誤魔化して断った。妻と行動を共にすれば必ずトラブルに見舞われる。せっかく列を抜かされない平穏な買物が引越し以来続いているというのに。

 ドアが閉まる音を聞くや否やサチエは夫の部屋の物色を始めた。本当にカフェみたい。むかつく。今から部屋を交換したいと言ったらアイツどんな顔するだろう。どこに隠したのか通帳が見つからない。ふと木箱の中に置かれた本に目がいった。図書館のものらしくラベルが付いていた。やれやれだわ。超ひも理論とは開いた口が塞がらない。アイツはアタシががんで入院しているというのにまだヒモとして生きていくつもりらしい。筋金入りのロクデナシね。このことはぜひとも皆に報告せねば。サチエは通帳探しをやめて押入れからF氏のTシャツを出しては力任せに首を伸ばして、それからたたみなおして元の場所にしまった。


 引越しをして以来レジで並ばなくなったのはたぶん彼女のおかげだ。スーパーとしては小ぶりなLYマーケットという店で商品がスキャンされては別の籠に移されていくのを眺めながらF氏はそんなことを思っていた。インド人のアルバイトの彼女は何かとF氏に気を使ってレジを開放してくれたり、順番抜かしされそうなところを防いでくれたりしてくれている。不謹慎と知りつつF氏は整った彼女の顔を盗み見した。どことなくサチエに似ている。実際ふたりとも骨格からして美しいのだ。きっとうまいこと入国して内緒で出稼ぎしているのだろう。その所作から聡明さがうかがえるが彼女も環境が違えば他の国でもっと自分を活かせる仕事をしていたのかもしれない。名も知らぬインド人のレジ打ちは機械にバーコードを読ませながら突然不慣れな日本語で隣のレジのパート社員に計算が間違っていると言った。指摘されたパート社員が再計算してみると確かに牛乳二本のところを三本と入力していた。

「どうして隣の計算までわかったの」

 彼女はたいしたことはないと微笑み計算は得意だと付け足した。


 隣室はついに郵便受けに新聞が入りきらず、しかたなく折りたたまれて床に積まれるようになっていた。一面は高級官僚の汚職疑惑の続報。金は海外に持ち出されて隠されているらしい。部屋に戻るとサチエは鍵を開け放しのまま外出していた。彼女の夫は静かになった部屋でブリ大根と味噌汁を作り始めた。しばらくして駄菓子を抱えたサチエが玄関ドアを開けた。

 食卓に漂う余所余所しさは生ぬるい味噌汁みたいな味がした。サチエはF氏に向けてなのか、それとも独り言なのか判別できない声音で「病院の料理は不味いけど、まだ食べれるよね」と言った。夫が反応しないのを見てとると今度は「足が痛い。団地のエレベーターって待ち時間長いわ。待ちくたびれる」と愚痴を言った。

「そうかな。気にした事ないけど」

「遅いよ。絶対。やっぱり都営住宅は駄目ね」

「ああ、そうだ。余計なお世話だと思うけど深夜二時にはエレベーターを利用しないほうがいい」

「何それ? 脅かしてるつもり」

「いや。ただなんとなく」

 できた沈黙を埋めるようにサチエが口を開いた。

「この間、電話で話してたとこキクスイさんに見られた。サチエさん、いつも旦那さんにそんなきつい言い方してるのって」

 サチエは悪びれもせずバレたと表現した。キクスイという人物が誰なのか特に説明は無かったが仲の良い看護師か患者なのだと想像された。そして誰であろうとこの話はF氏にとってもショックな内容であることに間違いなかった。まったくもって盲点だ。籍を入れてすぐに彼女の毒のある言い方が常態化してしまい、夫にとってもいつの間にかそれが当たり前の会話となっていた。やはり他人から見れば妻のF氏に対する接し方は異常なのだ。裏と表を使い分けるから他の人にはわからない。

「それがね」妻がキクスイ女史の話を続けた。それともいつの間にか別の人物の話題に移っているパターンか。サチエの話は主語を抜くうえに起承転結が無いのでしばしば誰の何の件なのか混乱させられる。「昨日トイレに起きたら廊下にドッペルゲンガーが立ってたんだって」

「え」

「あ、知らないか。もうひとりの自分の事をドッペルゲンガーて呼ぶのよ」

「鏡を見間違えたとかじゃないかな」

 サチエが内緒話をするみたいに声をひそめた「もうひとりの自分に会うと一週間後に死ぬんだって」

「そうなんだ。ところでそれはキクスイさんの話で間違いないかな」

 サチエは当然でしょう。何を聞いていたのという表情をした。それでキクスイさんとは誰なんだ。


 サチエの部屋の片付けは深夜まで続いた。F氏は隣の部屋で布団に包まりながら彼女の出す騒音を聞くとはなしに聞いていた。一息ついているのかニュースの音声が流れてきた。イヤホンを付けてくれと言いたくなるのをじっとこらえる。官僚の汚職疑惑は本人や擁護派の言い訳が延々と続き有耶無耶にされかけていた。アメリカで作られた次世代型コンピュータとやらが専門家の予想に反していまだ暴走を続けている。繰り返される自転車の盗難。東南アジアで流行している蚊を媒介としたウィルスの患者が日本で初めて発見された。患者は競技場に隣接したあの公園で蚊に刺されたと証言している。季節外れの蒸し暑い日の話だ。政府はこれを受けて急遽公園封鎖に踏み切った。これでまたQハイツが遠くなった。ブラインドの隙間から洩れる街の明かりが部屋の壁にゼブララインを投影していた。光は粒子。光は波。向こうの自分は同じ理論物理の本を読んでいてもこの定番のスリット実験を思い浮かべることがない。あの部屋にはブラインドが無いから。代わりにあの部屋にはサチエが誰かから譲り受けたカーテンが掛かっている。趣味の悪い、他の家庭の匂いが染みついた厚手のカーテン。向こうも隣室の音に悩まされながら独りの夜を過ごしている。いいや。違う。誰だろう。もうひとりいる。サチエか。サチエじゃない。もっと身体の小さい誰か。

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