第20話 ジャーナリズム
翌日もまたF氏は職業安定所に出向いた。仕事を見つけるのが喫緊の課題になりつつあるのはもちろんのことだが、またユキさんに会えるのではないかという期待もあった。ふたりともそんなタイプではなかったので連絡先なんて交換してない。しばらく建物の中をぶらついたがユキさんの姿を見かけることはなかった。代わりに昨日見たあの男と肩がぶつかるというハプニングに見舞われた。職員に怒鳴っていたあの男だ。男は昨日とは打って変わって背中を丸め気の弱そうな表情を浮かべていた。どちらが先という訳でもなく互いに謝罪をしたあとF氏は思い切って男を呼び止めた。
「あの、頑張ってください。何もできないけど応援してます」
男が知らない人物からそう言われたのは今日はこれで三度目だった。耳を赤くした男はあらためてF氏に会釈をした。
高架下の酒場は営業時間外だったが店先の清掃をしていた店主はF氏の顔を見るやいいところに来たと手招きをした。
「飲み過ぎなんですよ。ユキさんは」店主がカウンターにお茶菓子を出しながら言った。「先週も自分自身と擦れ違ったって大騒ぎして」
F氏の左眉がわずかに上がった。どうやら世界はもうひとりの自分で溢れているらしい。もしくはイカれた野郎で溢れている。
「アルコールで頭がおかしくなったんだ。だから暴漢に立ち向かうなんて莫迦な真似を」
「え」
「朝警察が来ましてね。ユキさん、昨夜暴行にあったんだそうです」
「大丈夫なんですか」
「それがけっこう重症で救急病院に担ぎ込まれました。見舞いは本人が拒否してるので病院までは教えられません。警察の話では自転車を盗まれそうになって犯人と格闘したんだそうです。ほら最近流行ってるでしょう。ユキさん自転車だけは高級だから狙われてたんじゃないかって」
「犯人は」
「まだ。ユキさん酔いが回っていたから顔を覚えてないって」
「あの、どうしてあの人は自転車だけあんな、すみません。なんか失礼な質問で」
「いえいえ。当然ですよ」店主が笑みをつくった。「娘さんからのプレゼントだそうです。地方の自転車メーカーに勤めているそうで、冗談で一台よこせと言ったら誕生日に送って来たそうです。貴方、昨日の会話からいくとユキさんの事知りませんね」
「ええまあ。職安でたまたま隣り合わせだけですから」
「ユキさんに気に入られるとは珍しい人だな」
「どういったかたなんですか。ユキさんて」
「ユキさんは昔、同業者の間では知られたジャーナリストだったんです。特派員として海外にも行っていたらしいです」
店主はホームレスにしか見えない男が記者時代に執筆した本の名を言った。それはF氏が先日図書館から借りた本だった。半年待ってやっと借りることのできたあの書籍。日系二世についてのインタビューをまとめた本。
「ところが」店主がジャーナリストの物語を進める。「ある事件を追っかけてしまった為にユキさんは人生を狂わせてしまった。ユキさんは私にもその事件のことはだんまりで、おかげで私も詳しい内容は知らないんですがね、世間ではある学者がやったとされる論文捏造疑惑がどうやら裏では関係省庁やら政治家やら企業やらそのほか様々な団体が絡んでいた大掛かりな捏造事件だったという話らしいんです。たぶん公的資金だとか株価操作だとかそういった話なんでしょう。美味しいケーキは皆で分けようというやつですよ。それを報道しようとした矢先に勤めていた新聞社をクビになった。ユキさんはフリーになってあちこちにネタを売ろうとしたみたいなんですが、どこからも無視されて逆に反社会的な人間として迫害されたそうなんです。酔うと時々そこで突っ伏して呟いてましたよ。悔しいのは同業者から嫌がらせを受けたことだって。連中は真実を伝える気が無いのかって。
そういった社会制裁がきっかけで奥さんとは離婚。娘さんもユキさんの子供というだけで就職先が決まらずに結局奥さんの地元にある自転車製造工場で働くようになったみたいです。今も独り身で女性ながら勤続年数最長記録を樹立中だそうですよ。ユキさん、いつだったか泣きそうな顔で言ってました。俺のせいで娘は結婚もできないって」
少しのあいだ余韻に浸ったあと店主は仕込みに戻って忙しく手を動かした。
「申し訳ないですが貴方のことも警察に話しましたよ。こういうのは下手に嘘を混ぜるとかえって疑われますから」
F氏は構わないと言って財布を取りだした。
「お茶だけですから」そう言って店主は支払いを断った。店主はF氏が職安に通っていることを知って気を使った。
F氏はその日もやっぱりQハイツに向かう気になれなかった。どうしても行けない。まるで見えない壁に邪魔されているみたいだ。レンタカー屋に行ったところでまた追い返されるだろう。なぜだかサチエの顔が無性に見たくなった。そしてその直後には傷口を広げるつもりかと自嘲した。寄る辺なく向こうの自分に思いを馳せる。引越しをしなかった自分は愚直に変わらぬ日々を過ごしている。掃除をし、洗濯をし、レジの順番を抜かされ、料理を作り、筋トレをし、半年間停滞したままの予約図書に憤慨し、仇花と笑われた勉強を続ける。負け犬が吹き溜まりで牙を研ぐ。今はそう。あの陸上競技場で走っている。六枚羽根の門をくぐって入る競技場。白いウェアを着た女性がどこかの街に消えていったあのコーナー。彼はそのコーナーを曲がりながら遠くの高層ビルを眺める。ふとこちらを思い浮かべ鬱陶しいと口を曲げた。そう。オレ達は互いにうんざりしている。この奇妙な妄想から解放されたいと切望している。その為には引越し前の部屋に行って誰も住んでいないことを確かめねば。言い訳を見つけては足踏みしていては物事なんて進まない。明日こそは。最優先で。
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