第19話 髭をだらしなく伸ばした男、船を漕ぐ

「誰も悪くなんかないんだよ」

 手入れされていない髭、汗臭いジャケット。男は老けて見えたが職安に通っていることからして見た目よりは若いのだろうと推測された。ホームレスに見間違われても仕方ない風体の割に話す内容が知的で何より洞察力に優れている。ひょんなことからハローワークで隣り合わせた男と一杯だけ付き合うという約束が酒を酌み交わすうちに前のアパートに行くことも職安に戻って求人検索を再開することも病院に寄ることすら今日はやめておこうという気にさせられた。皿のピーナッツがいつの間にか空になっていた。


 どうせ見つからない。見つけても長続きしない。そう思いながらもF氏はその日ハローワークに出向いた。あわよくば今度こそ競技場の横を通ってQハイツに行くつもりでもいた。もうひとりの自分という幻影はより深くなりつつあり、厄介なことに今朝顔を洗っている時に向こうの視線を感じてしまった。

 大企業のオフィスのごとく並んだ端末を縫って歩き、割り当てられた席はどこだろうと探していた時だった。背後から怒声が聞こえた。振り向くと男が職員に噛みついていた。視線が集中する。相手をする職員をはじめフロアに居る全員が一様に怒鳴る男を憐みの表情で見つめていた。理解しているのだ。男が怒りを感じているのは目の前に立つ職員ではない事を。彼が頭に来ているのは報われない人生。不条理な世の中。つかみどころのない理由。駆け付けた警備員に連れられて男は別室へと消えていった。

 気を取り直し端末のナンバリングを数えていく。六一七六、六一七五、あった。六一七四。座った途端、隣の席の男が顔を突き出して言った。「誰も悪くなんかないんだよ」

 F氏も同意の意味で頷いた。


 酒場のカウンターは油でべとついていた。気前よく開店前に店を開けてくれた店主が目の前で慌ただしく仕込みをしていた。味噌の煮詰まる匂い。F氏の表情を見て察した店主が「まだ味が染みてませんがね」とモツ煮をふたりの前に置いた。濃いめの味付けで臭みの無い丁寧な仕事だった。

 店主は常連客の男をユキさんと呼んだ。ユキさんはF氏に職安に行ったという事実を作らないと生活保護を切られてしまうので時々こうしてハローワークに立ち寄るのだと説明した。

「あ、今オマエ真面目に働けよって思っただろう。顔を見れば分かるぞ。甘いな。働いたら負けなんだぞ」

 開け放しの引き戸からはユキさんのマウンテンバイクが見えていた。街灯の柱を支えにして止めてある高級自転車。醜く太ったホームレスにさえ見える老人にはおよそ似合わない自転車。

 ユキさんはこれ以上ないくらいに下品な飲み方でスコッチを煽ると話を続けた。

「世間てのはさ、仕事の中身で評価しないんだなこれが。努力や才能や誠実さは二の次さ。そういうのじゃなくて、どれだけ権力者に取り入るかでその人の評価が決まる。結局強い後ろ盾がある者か、そうでなけりゃ他人を押しのけてでもって輩しか成功しないんだ。もちろん突き抜けた才能を持つ者は例外だよ。まあ、そういう奴でも体制にさからうと結局は抹殺されちまうんだけどな」ユキさんの笑いは下品だ。「逆に言えばだな、後ろ盾があれば怖いものはない。アンタも中学や高校の時に経験があるだろう。それまで普通に接していた同級生のあの娘が不良の先輩と交際していると分かった途端敬語で話すべきかどうか迷う、あれだよ。だからこの世界に順応しようと思えば後ろ盾を作ることに尽力せざるを得ない。虚飾で結構。大事なのは中身ではなくコネ、上辺、忖度。

 そこのところをいくとアメリカなんかはちょっと違うな。もちろん俺達も最低限南部と北部は違うくらいは認識してなきゃいけねえけど。それに都市部と田舎でも違うだろうし人種差別が完全に払拭された訳でもない。でもな、アメリカだったら頑張って仕事をしたり勉強をしたりすれば必ずそれなりの評価をしてくれる人が現れる。アメリカだって完全じゃないが少なくとも中身で勝負できる。

 日本ではスポーツ選手でもない限りなかなか実力で勝負という訳にはいかないな。後ろ盾や組織の掟が優先されるんだ。でもな、それは同時に自分を縛っていることでもある。そういった意味ではよ、俺は無職で良かったよ。今はニートていうのか。俺はニートで良かったなあ。おかげで帰属意識を払拭することができたからな。人は、特に日本人はだな、帰属意識が強すぎる。もうこれは強迫観念に近いな。帰属意識が強過ぎるせいで人は悪事に加担したり、言いたくもないことを言ったり、結局自分の信念を捻じ曲げて生きていかなきゃならない。これはさ、精神的な奴隷だよ。オレはニートでいたおかげで自分を捻じ曲げなくて済んだんだ。

 俺だって娘を育てるためにしたくない仕事に就いたりもしたんだよ。でもさ、その賃金はどう計算しても労働の対価には合わないんだ。これでは精神的な奴隷だけじゃなく肉体的にも奴隷と変わらない。実際大昔の奴隷だっていくばくかの賃金を貰っていた者もいた。なにも背中を鞭打たれ強制的に労働させられた奴ばかりではなかったんだ。それとこの労働と何の違いがある。

 俺は奴隷にも信者にもなれない。誰かから強要されたり盲目に何かにすがって生きるのはごめんだね。だからといってASPDのように人を押し退けたりだましたりするのも好かない。

 結局この世界はさ、優秀だったり、深く物事を考えて正しい判断をする者は撃ち落とされるんだよ。支配者が求めているのは愚民。信者だ。もっともその支配者も頻繁に取って代わられちまうんだけどな。下もたいへん。上もたいへん。誰もしあわせにならない」

 最後のほうの言葉はほとんど聞き取れなかった。男が船を漕ぎ始めたからだ。

 気付くと外が暗くなっていた。男のマウンテンバイクが街灯に光っている。F氏はそれでもと心の中で呟く。それでもオレは仕事がしたい。


 団地に帰ってくるとサチエの自転車の警告文がより辛辣な文章になって貼り換えられていた。酔い覚ましのコーヒーを飲んで勉強を始めると間もなく待ちわびたメールが届いた。サチエが入院したあと藁にもすがる思いで図面を送った設計事務所の返信だ。図面自体は優秀だがうちでは使えない。それが先方の返事だった。思えばその会社もサチエと繋がりがあり結局は彼女の紹介のようなものだった。はじめから からかわれていたのだ。

 設計の仕事には自信があった。それなりに努力もしてきたし同業者からも能力があることは認められていた。勤務経験の年数さえ稼ぐことができれば一級建築士取得も夢ではない。しかし業界は狭い。彼の悪い評判は広く流布されており誰も彼を使ってみようという冒険はしたがらなかった。

 ベランダに出て戯れでもうひとりの自分に波長を合わせてみる。途端に重低音のリズムが響きわたった。相変わらず二階の住人はやっているな。そういえば二階も随分長い期間住んでいる。次に行く場所が見つからず宙ぶらりんになっているのだろう。うちと同じ。あそこに集まるのはそんな連中ばかりだ。

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