第18話 ラプラスの悪魔
「貸せませんね」
レンタル業を生業としているのにバイクを貸せないとはどういう了見だ。F氏はBVレンタカーの店主に不満を表した。
「駄目ですよ。ええ、たしかにあれはレンタル用です。でも今の貴方では乗りこなせない」店主の指が煙草の先に火を付けた。「ツーシーターも駄目。今のお客さんじゃ事故を起こす。心が乱れてる。ウチの車はどれも繊細だからね」紫煙が伏し目がちなF氏の顔を曇らせた。「いいですか。何があったかは知らないがお客さんが今やるのは逃避じゃない。まずは自分の問題をクリアするんだ。焦らずゆっくりと。話はそれから」
肩を落として店を出ようとするのを今度は店主が引きとめた。
「まった。バイクの代わりと言っちゃなんだがお客さんにとっておきの秘密を教えてあげましょう。まあそこにお掛けなさい。そう。楽にして。いいですか。私は二十歳の時に誰にも媚びずに生きていこうと決心した。少々行き過ぎた所もあったかもしれない。でもね当時の私にだってそれなりの理由があったんだ。紆余曲折の末に私はレンタカーの仕事を始めた。大手に依存せず自分だけで完結できるビジネスをいつも心掛けている。まあなんというかいろんな事がありましたよ。荒波を乗り越える度に人には幾つものタイプがあるのだと気付かされる。勤勉な者。怠惰な輩。謙虚な人。横柄な奴。正直者。嘘つき。笑顔は無いが誠実な人物。笑顔を武器にした詐欺師。みすぼらしい恰好をした崇高な人物。肩書だけ立派な無能。そうした人間達を観察してきたせいかひとつだけ自慢できることがあるのです。それはね人を見る眼の確かさです。政治家だろうが医者だろうが学者だろうが経営者だろうがどんな肩書にも惑わされない。その人物の本質を見極める眼を私は持っている。貴方はあれを傷ひとつ付けず返却した。タイヤも無駄なすり減りが見られなかった。たいしたものだ。大胆さと繊細さ、論理性と直感、いかなる時も常に冷静でいなければいけなかったはずだ。私の眼に狂いはなかった。合格だ。だけどひょっとして他の人は貴方に対して違う感想を持っているんじゃないかな。注意力に欠けた弱々しい小動物と見られているかもしれない。出来損ないと思っている奴もあるいは。嘗められることも少なくないはず。いいですか。バイクは貸せません。その代わりにね」店主が灰皿に煙草を擦りつけた。「今から私が、他人に嘗められない方法を伝授しましょう」
店主から教わった方法。その方法を知らなかった訳ではない。むしろ知っていたからこそそんな真似はしないようにと心掛けてきた。彼はその手法を利用している人間を嫌悪してきた。なぜならそれは嘗められないだけでなく心の弱い人間にカリスマ性を感じさせ信者にさせてしまうからだ。それほど強力で悪しきもの。ASPDいわゆるサイコパスが好んで使う手法。そしてF氏が出会ってきた歴代のQもそれを多用していた。迷う必要はない。せっかくだが店主には礼を言っておいて彼はそれを封印することにした。
ベランダの向こうは夜の雨だった。読みかけの本に栞代わりの建売一戸建てのチラシを挟み、F氏はシュレーディンガーの飼い主のことを思い浮かべた。あの人は座頭市というよりラプラスの悪魔という印象だな。何号室なのだろう。一号室ではないし五号室でもない。もっと先の部屋かな。まさか三号室ということはあるまい。時計の針は深夜を指していた。
ラプラスの悪魔。物理学者ラプラスによって提唱された概念である。宇宙に存在する素粒子の位置と速度を一瞬でかまわないのですべて把握することさえできれば、ビリヤードのゲームを逆再生するみたいにして現在から過去へと遡り宇宙誕生までの歴史を把握することができる。驚くべきは過去だけでなく未来をも予測できるということ。ちょうどビリヤードでゲームの行方を予測するのと同じで、人間の動作にはブレがあるから必ずしもビリヤードは予想通りにゲームが進むとは限らないが、物理法則ならきっちり未来を予言することが可能だ。こうした未来を予知できる存在を称してラプラスの箱とかラプラスの悪魔と呼んだ。ところで人間も素粒子によって構成されている。したがって人の未来もラプラスの悪魔によって予言できるということになる。つまり人の運命は決まっているのだ。ただし現在では不確定性原理という定理によってラプラスの悪魔は否定されている。神もキューを持つ手がブレるのだ。
読み進めていくうちにシュレーディンガーという名前も本の中に出てきてF氏は感嘆の息を漏らした。まさに不確定性原理を真っ向から否定し有名な思考実験によって運命は決められていると主張したのがシュレーディンガーだった。きっと老紳士はわかって犬に名を付けたのだろう。たしかにあの時老紳士は物理という言葉に反応した。不思議な人だ。俺の話を聴いてくれるなんて。親にさえまともに話を聴いてもらった経験が無いというのに。また会えるだろうか。ただひとつ。シュレーディンガーの思考実験に登場したのは犬ではなく猫だった。あの犬はその件について了解しているのだろうか。ゴールデンなのかラブラドールなのかわからない犬。いずれにしても魔女とか悪魔とかいよいよこの団地も怪しくなってきた。あるいはあの大型犬だって夜になるとゴールデンとラブラドールと柴あたりのみっつの首を持ったケルベロスになるのかもしれない。冷めたマグカップの残りを飲み干して雨上がりの東京に視線を移した。霧にかすむモダニズムに朝日の暖色が混ざり始めていた。
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