第17話 季節感の無い中庭
引越前の部屋に行く代わりにF氏は洗濯物が詰まった袋を抱えて警察署に寄った。こう毎日新居と前のアパートとの間を行ったり来たりするのであればサチエの助言通り自転車を借りるのも一考かもしれない。無論鍵があればの話だが。あるいはチェーンだけでも断ち切ってしまおうか。あんな安物防犯にならない。
警察署の受付では泣きぼくろのある婦警から入館理由の書類を三度書き直しさせられ、時間をかけて袋の中身を説明し、その間に合計一七人の来客が自転車盗難撲滅キャンペーンポスターの前を通って先へ行くのを横目で見やり、そうしてなんとか自分もポスターの前を通って運転免許証の住所変更の部署に辿り着いた。結局そこまでしても裏面に新住所がプリントされただけで免許証からQハイツの名前は消されなかった。
新居に帰ると廊下の照明が切れかかっていてモールス信号みたいに点滅を繰り返していた。相変わらずお隣は不在。心なしドアが今朝よりも汚れているように見える。そっと鼻を近づけてみる。今のところ異臭無し。部屋に入ると簡単な夕食を済ませてすぐに建築設計の勉強を始める。勉強の一環としてその日のうちにサイトをひとつ立ち上げた。これまで描いてきた設計図や間取図の習作と都営住宅のリフォームの紹介、加えて方々で撮りためた画像を借景の例として掲載していくつもりだ。大枠を作ってしまうと自己紹介をどうしようか迷った末に主夫と記載した。
どうせどの仕事を選んでも長くは続かない。なら思い切って好きな事をやってしまおう。それが建築設計の勉強を始めたきっかけだった。たとえまたどこかの事務所か顧客にハラスメントを受けたとしても興味のある仕事なら続けていける。きっと親から充分に承認を受けてきた者ならあたりまえの帰結であってF氏の思考はいささか遠回りをし過ぎているが、彼のようなアダルトチルドレンにとってはそこに行きつくまでの距離が途方もなく長い。
AC。心理学では認められていないものの生きづらさを感じている者の多くが自覚する傾向。機能不全の家庭で育った為に生きづらさを感じる人のことをいう。ACには興味のある分野からあえて離れる傾向がある。F氏も人生落ちるところまで落ちた末にやっと進みたい道を選んだ。もっともコネが無ければチャンスを掴むことさえ叶わないのだが。それがこの日本のルール。
勉強に一段落つけると、ビジネスメールが届いていないか確認して当然何も来ていなくて溜息をつき、ついでにネットで一番近くにある図書館がどこなのか探した。F氏の住む区では点在する図書館をすべてがインターネットで一括管理されていて利用者はすべての図書館の蔵書をパソコンやスマートフォンから検索、予約することができた。受け取る場所も利用者の都合でどの図書館にするか決められる。こうしてF氏は金の代わりに知恵を使って蔵書五千を超える書庫の入口を手に入れていた。半年以上待ち続けていてまだ借りられない書籍の受け取り場所を前のアパートの近くから都営住宅の近くへと変更する。予約待ちしている本はアメリカに移民した日本人について書かれたものだった。なぜだかその書籍は予約数一名であるにも関わらず半年の間まったく動きを見せなかった。
新居から最も近い受け取り場所はどうやら大学の敷地内にあるらしい。せっかくなので区役所で見たニュースで気になった分野の本をもう一冊予約する。理論物理学についての読み物だ。
気付けば深夜になっていた。今夜は眠れそうな気がする。転居したばかりなのに安心感を覚える。向こうの自分はどうだろう。あっちは今夜も眠れない。隣室の騒音に耳を塞ぎ、妻への愛情と懺悔と憎しみに悶え、過去に受けたモビングに胸を掻きむしっている。道路に面した窓から無駄にエンジンを吹かす音が聞こえる。あまりのリアルさに耳を塞ぐ。今の生活に慣れたら自然と消えていくものだろうか。ふとパソコンの電源を落としかけた指を止め、その指で賃貸アパートの情報サイトを探す。空で言える住所を検索してみた。住み慣れた一〇一号室が一昔前の写真と簡素な間取り図で紹介されていた。日当たり良好。通りに面した窓が大き過ぎてまるで監視されているみたいだ。部屋は現在入居中。新しい入居者が決まったとも考えられるがここはデータが更新されていないと解釈したほうが自然だろう。それともまさか。いや現実的ではない。たとえ精神をヤスリで削られていくような毎日であっても冷静さを失ってはいけない。妄想と現実とは分けなければ。そうだ。明日こそ絶対に公園の森を超えてやる。頭にこびりつくもうひとりの自分という妄想を払拭してしまえ。
受け取り図書館を変更した途端、半年動きのなかった予約が取り置き状態となった。しかも予約取り消しまでわずか一日とタイトだ。初めて行く図書館はサイトの説明通り大学図書館の中にあって区がその一部を間借りする形で運営されていた。入口は別だがサチエの入院する大学病院も同じ敷地内ということになる。図書館は大学占有と一般利用者向けとを壁で隔てていて間違って一般利用者がキャンパスに入ってこれないよう工夫がされていた。内装も変えてあり一般向け図書館は吹き抜けになっていて温もりのある木材が多用されていた。一方大学側はガラスの壁で隔離された書庫内で白衣の司書が資料運搬ロボットを操作していた。スチール棚の狭間に張り巡らされたレールを論文を搭載したロボットが右へ左へと移動している。このふたつの異なる図書館の境界線には中庭が設けられていて冬でも枯れないヨーロッパ産の芝生の中心にやはり季節を無視して実をぶらさげる橙の木が植えられていた。その橙を見上げるようにアンティーク調のベンチが一脚置かれている。F氏は司書に断って緑と黄色のコントラストを窓のこちら側から撮影した。
「借景」
ガラスが日光を反射してうまく撮影できない。できれば中庭に入って撮影したいものだが司書からは断られた。残念。
カウンターには先客がひとり。その人物は図書館でとても目立っていた。誰もが見ない振りをしながら横目で彼等を意識した。なんせその人物は大型犬を連れて図書館に入っていたのだから。シュレーディンガーを連れて歩く老紳士は司書に優しく諫められていた。盲目の紳士は叱られた少年のような顔をして言い訳をした。
「こっちの方が近いんだ。それに何度言っても犬がこちらに誘導してしまう。きっと君のことが好きなんだろう」
司書は仕様がないなという顔をして紳士に書類を手渡した。老紳士と擦れ違った瞬間、喉につっかえていたものが氷解した。老紳士が受け取ったのは点字の書類だった。なるほど見回すと点字の本や論文も借りられますと案内が出ていた。老紳士のあとに続いてカウンターに立ち半年待った書籍を合わせて二冊受け取る。やっと借りることのできた本の表紙には紅茶でできたような染みが付いていた。
「貴方、先日エレベーターでお会いしましたね」
てっきり外に出て行ったものと思っていた盲目の老紳士が背後から声を掛けてきた。大型犬が隙をついてまたF氏の手を舐めた。
ベンチは体温が伝わるにつれて徐々に冷たさが気にならなくなっていった。老紳士とF氏に挟まれて横たわるゴールデンなのかラブラドールなのかわからないレトリーバーはF氏の脛に哺乳類独特の温もりを与えていた。頑なに中庭の侵入を拒んでいた司書はなぜか老紳士の願いにはふたつ返事で鍵を開けた。F氏はあらためて緑色と黄色のコントラストに見惚れ、それからすぐに不謹慎な自分に嫌悪した。紳士が気にしなくていいんですよと言ったような気がした。空耳かもしれないし聞き間違いだったかもしれない。なぜF氏のことがわかったのか訊ねると老紳士は声と匂いだと答えた。
「それに」と老紳士はどこかもったいぶった所作で付け足した。「貴方と此処で会うことはあらかじめ決められた運命だったのです」
「えっ」
老紳士が笑った。「冗談ですよ。ただの勘とそれにちょっとした確率論です」
この人はやっぱり座頭市かな。F氏は心で呟いた。
「何を借りられたのですか」と今度は老紳士のほうが訊ねた。
「ええと理論物理についての読み物と――」
「ほう。専攻は理論物理ですか」言い終わる前に老紳士が口を挟んだ。
「いえとんでもない。初心者向けの本です。私にはろくな学歴もありません。ただなんとなく読んでみたくなっただけです」
「そうですか。良い傾向ですね。その一冊だけですか」
「いいえ。それと昔アメリカに移民した日本人についての本をもう一冊」
「アメリカにご親戚でも」
「いえ。海外旅行の経験さえありません。ただ、どういう訳かアメリカに惹かれるのです」
沈黙が続いたことでF氏は先を続けるよう促されているのだと解釈した。
「他の人が言うような音楽とか映画とかに憧れるというのとは違うのです。うまく説明できないけど意識というか考え方というか価値観というか、そういったものが自分は日本よりもむしろアメリカに向いているのではないかと思うことがしばしばあるのです。本当はアメリカで生活していたはずが人生のどこかで間違ってしまったのではないかとさえ思うこともある。まあ負け犬の現実逃避ですけどね」
相手の反応を待つが何も返ってこない。唐突に盲導犬が立ち上がり、それに合わせて老紳士も立ちあがった。
「申し訳ありません。もっと話を聞いていたいのですが職場に行く時間です。遅刻すると示しがつかないもので。あ、貴方の価値観は間違っていませんよ。きっと貴方は自立心がおありなのでしょう。自分の頭で考えて自分の意思に従って選択する。とても良いことです。理論物理の本をしっかり読んでください。それでは」
老紳士の背中を見送ってF氏は羞恥心に溺れた。目の不自由な老人でさえ仕事を持っているというのに俺は。橙の枝葉が風に揺れて木漏れ日がかく乱された。
サチエのベッド横には先客が座っていた。昨日の食堂裁判にも出席していた建築デザイナーQ氏だ。彼は普段からそうしているように笑顔でF氏に挨拶した。まるで彼とF氏の間には何も起こっていなかったかのように。それから先もサチエとQ氏はF氏が存在しないかのように会話をやめなかった。むしろ待たせているのをふたりで楽しんでいるようにさえ思える。仲睦まじいサチエとQ氏を見ているとF氏はどちらが夫なのかと首を傾げたい気持ちになってきた。病室の窓から見える風景は団地のベランダに負けず劣らず良い眺めだ。雨が近づいているらしい。遠くのビルの高層階が霧に煙っていた。
サチエにどうしても働きたいのなら好きな事を仕事にすべきと勧めたのは夫のF氏だった。サチエは二度やりたいことを変更したのち保育士の試験を受けた。試験には落ちたもののそこで知り合った友人の紹介で彼女はフリーのベビーシッターを始めた。事業立ち上げに関わる事務処理はF氏がすべて引き受けた。周囲のもつ印象とは真逆に彼は必要なノウハウを短期間で修得してしまい事もなげに彼女のバックアップをやってしまった。最初の客はF氏が作ったHPを見た夫妻だった。その客から別の夫婦を紹介されてまたその客から別の客が紹介された。美人で愛想が良かったサチエの手帳はあっという間に上客の予約でいっぱいになった。彼女は成功した。夫のF氏はそのことに満足した。そして今度は自分の番とばかりに妻の応援を期待した。だが待てど暮らせどその気配は訪れることがない。彼女は記憶を改ざんして己の努力と友人の支援とでここまで来たという新たな物語を捏造してしまっていた。サチエのサクセスストーリーに夫の出番はない。そして仕事が軌道にのってきてさらなる欲が出てきた頃に彼女は特別な上顧客Q氏を獲得した。Q氏は羽振りが良かった。彼は離婚した妻との間にできた子をサチエに委ね、領収書さえ持っていけばいくらだって支払ってくれた。Q氏がサチエに目を掛けたのは美人というのももちろんことだが都合の良い、もっとストレートに表現すれば支配しやすい人間だったからに他ならない。サチエは夫以外の相手には従順だ。一方でQ氏はサチエさんのフィルターを通して彼女の夫を見るようになっていき、会ったことも会話したこともないF氏をいつしか見下すようになっていた。しかし仮にサチエが夫のことを良く言ったとしても遅かれ彼はF氏を見下しただろう。Q氏とF氏の価値観は磁石のN極とS極。そしてQ氏は自分とは異なる価値観を持った人物を単純に莫迦にする傾向にあった。それはサチエも同じだ。コイツよりマシ。ある意味においてF氏は妻にとってもQ氏にとっても居てもらわなくてはならない大切な保険である。こうした歪な共存関係によりF氏は間接的にQ氏に養われることとなった。
窓の景色がすっかり霧で隠れてもQ氏とサチエの会話は続いていた。F氏はふたりに立ち入らず辛抱強く話が終わるのを待った。ひとつだけ収穫があるとすればふたりの会話からアシスト自転車とQ氏の間には何か繋がりがあることがわかったことだ。しかし彼はまだQ氏がサイズを間違えてネット購入したものを無理矢理言い包めてサチエに売りつけたということまでは知らなかった。雨粒が窓ガラスを叩き始めた頃にサチエが夫のほうに振り向いた。
「居たの。何か用だっけ」
F氏は洗濯した衣類と汚れ物とを交換しに来たと簡潔に述べた。それから自転車の鍵について進展がないか確認した。彼女は不機嫌になりこれ以上甘えるなと夫を突き放した。もやもやした気分を殺して身支度を始めるとサチエはまたすぐにQ氏との会話を弾ませた。Q氏は見下す視線でF氏の表情を盗み見したがF氏はそれに気付かない振りをして病室をあとにした。病院から出ると本降りになっていた。
結局その日もQハイツに行きそびれてしまった。都営住宅に戻ってくるとサチエの自転車に今度は警告文が貼られ早くも雨に滲んでいた。貼り紙は団地の風紀委員によるものだ。
『ここは自転車置き場ではありません。直ちに別の場所に移動してください。みんな困っています』
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