第16話 モビング

 区役所を出ると彼の足は団地ではなくまた病院でもなく、あるいは職業安定所の方でもない方角に向かって歩きはじめた。彼のつま先は昨日も訪れた場所、競技場に向けられていた。鉄格子に囲まれた競技場の内側でカラフルなユニフォームが反時計回りにぐるぐると円を描くように走っていた。タブレットを抱えたコーチが通り過ぎる選手一人ひとりに声を掛けている様子が見える。今日は一般に開放されていない日だ。中には入れない。競技場に不審な点は見当たらなかった。少なくても外から眺める限りでは。天使のオブジェクトも昨日のまま上品な六枚羽根を広げて彼を見下ろしている。ふいに気配を感じて視線を動かした。やれやれ。どこからか現れた輩が木陰に隠れて腐食した鉄格子を力任せに曲げていた。なんてばかげた真似を。中に入ったところで体力自慢の選手に捕まるのがオチではないか。F氏は輩を見なかったことにして今度は公園へと足を向けた。


 公園の上空で寝ぼけたフクロウがカラスの集団に追い回されていた。モビングだ。弱い動物が集団で強い動物を襲い縄張りから追い出そうとする行為。転じて職場内ハラスメントにもこの言葉が用いられることがある。右も左もふさがれて堪らず追われるフクロウは暗い森の奥へと飛び去っていった。これで広場はカラスどもの天下に決まった。星が瞬く夜までのあいだは。F氏は行水するカラスども横目でを睨みつけ公園の真ん中を突っ切って歩いた。広大な公園を通って前のアパートに行くのなら公園の真ん中に位置する芝生の広場をショートカットすればいい。それが一番の近道だ。芝生の広場が終わると間もなく雑木林へと風景が変わり幹の隙間から舗装された自転車ロードが見え始めた。もうすぐ都会に横たわる巨大な公園からコンクリートとアスファルトの世界へと戻される。住宅街が見え始めた。あそこに見える信号を渡ってしまえば。坂が見えてきた。あれを昇れば。あと少し。電話が鳴った。


 大学病院のエレベーターは混雑が常態化していた。患者、付添人、見舞客、医者、看護師、出入業者。溢れかえった人々がピペットで吸われるみたいに少量ずつ箱に吸われていく。一〇分待って乗ることができれば御の字。特にF氏みたいな運の悪い男にとっては大学病院のエレベーターに収まることは不可能にさえ思える。まるで機嫌の悪い局員に眼をつけられた入国審査みたいだ。埒が明かないと諦めて誰にも気付かれることのない非常階段を駆け上がる。妻の病室は九階。四階の踊り場で茶髪の医師と赤い口紅の看護師が談笑する脇を擦り抜けた。ふたりは走ってゆく見舞客を邪魔者として睨みつけた。病院で医者と称する者のほとんどは実は学生の身分だった。そしてその多くは医療よりも遊ぶことに長けていた。しばしばF氏はなぜ妻がこんな病院を選んだのか理解に苦しんだが結果的に僅かに存在する真面目な学生と優れた教授陣とによって最先端の医療を受けることができたのでいつしかこれでよかったと納得するようになっていた。サチエは神憑り的に運が良い。本人は行き当たりばったりなのに必ず最後は成功する。


 サチエのベッドは六人部屋の窓際にあった。サチエを除く患者は皆バンダナやニット帽で頭を覆っていた。そんななかサチエだけは長い黒髪を維持していた。サチエは本当に運が良い。緊急で呼び出した割に彼女は元気だった。そして今日も彼女は美しい。こんなにも仲が悪いのに思わず自分の妻を見てうっとりす。肩で息をしながら元気そうな美人を見てF氏はひとまず安心した。そんな夫の気持ちなど想像する余地もなく妻は芝居じみた態度で言った。

「さあ食堂に行きましょう。みんなが待ってるわ」


 病院各階に設けられた食堂は患者と見舞客が自由に会話できる唯一の場所だった。電話もそこでなら利用可能だ。夜に眠れない患者はこっそりベッドを抜け出してここで家族に電話をしたり患者仲間でお喋りをしたりして過ごした。サチエに促されて食堂に入るとすぐに用件が何なのかF氏にも理解ができた。陰口だけでは気が済まなくなったのだろう。サチエの友人達が輪を作って席に座っていた。どの眼も冷たく威嚇的。言われるがまま中央の椅子に座った。モビング。カラスがフクロウを襲う。席に着くや否や一方的かつ不条理な裁判が始まった。初めての経験じゃない。かつて職場でモビングを受けた時にもこれと同じ吊し上げを喰らった。表向きの議題はF氏の見舞いに来る頻度が少ない件についてだった。しかし実態は誹謗中傷なんでもありで、決めつけ、批判、挑発、圧力、加害者と被害者のすり替え、論点ずらし、マウンティングとやりたい放題。F氏を囲む面々は圧倒的に女性が多かったがなかには男性も混じっていた。終始笑顔を絶やさないのがかえって不気味だ。F氏はQ氏をそれとなく観察した。サチエのベビーシッターのお得意様。ニューヨーク五番街のビルディングを手掛けたこともある高名な建築デザイナー。そう妻からは聞かされている。実際には彼の師匠が下請けで貰ってきた仕事を一部手伝ったまでなのだが。そのことをF氏は知っていた。妻には言わずにいた。まあいいじゃないか。自分を大きく見せようとするのは誰だってやっていること。気にしない、気にしない。またこのQ氏はかつてサチエさんの旦那であるF氏に仕事を紹介した人物でもあった。恩義というか後ろめたさというかそういった感情を抱かない訳にはいかない一方、その職場でF氏は二度目のモビングを受けていたことも忘れていない。思えば電話で会話してばかりでこうして直接Q氏の顔を見るのは初めてだった。Q氏は食堂の誰が喋っていても終始頼もしい笑顔を絶やさずにうなずいていた。彼の存在そのものがF氏を非難する面々の精神的支えとなっているようだ。

 F氏には奇妙なジンクスがある。Qという名字の人物と出会うと決まって人生が狂ってしまう。珍しい名前であるにも関わらず彼の人生にはしばしばQという人物が登場している。しかも出会ってきたQはそれぞれが互いに親戚でもなければ面識すらない赤の他人だった。F氏はQという苗字の人物に出会う度に霧に呑まれて視界を奪われた。そうして行くべき人生の道を見誤ってきた。加えていうなら先日まで住んでいたアパート名もまたQハイツだった。

 夫への中傷が続くあいだサチエは声を発することがなかった。一歩下がった席で吊し上げられている姿を傍観していた。その表情には勝ち誇った感情が表出していた。被告人以外気づいている者はいなかったが魔女裁判は堂々巡りを始めていた。しかしそんなことはカラスどもにはどうでもよいことだった。もとより集まった人々からすればストレスの捌け口に利用しているまでのこと。出口など最初から必要とされていない。F氏は暗い森を探した。そしてちょうどよいタイミングで沈黙がおとずれた。

「話は終わりましたか」F氏がつとめて冷静に訊ねた。

 思いのほかダメージを受けていない男に陪審員達は狼狽えと更なる怒りを覚え食堂の空気を切り刻み始めた。ポロシャツを着た気の強そうな女性が突発的に奇声をあげた。ワンピースの女性の握られた拳がテーブルの上で震えていた。火に油を注ぐのはF氏の悪い癖。収拾のつかなくなった食堂でここぞとばかりにQ氏が手を挙げた。カラスが鳴きやんだ。

「口で言っても解らないんだよ。この人は。埒が明かないとはこのことだね。皆さん、あとはふたりにさせて、本人同士で話させましょう」

 体のいい撤退宣言。思ったよりも手強い。サチエさんの話からもっと弱いに人間と思っていたがよく見れば背も高いし体力ではかなわない。そして以外に精神面も強いし莫迦じゃない。焦りを感じ始めていた彼女達はQ氏の助け舟にゴリゴリと音を立てて椅子から立った。三人の取り巻きを率いていた女性は顔をひきつらせつつ勝利宣言を発した。別の女性は「ヒモ体質」とすれ違いざまに消えるような声でF氏を罵った。また別のある者は「仕事すれよ」とやはり小声で罵った。最後に食堂を出た女性はまるで自分が被害者であるかのようにハンカチで眼を押さえつつ「私はサチエさんが可哀そうなだけなの」と誰に言うともなく訴えた。

 食堂にF氏とサチエが取り残されるとF氏は立ち上がり乱れた椅子やテーブルを直して回った。

「さて」サチエの夫は妻に向かって微笑する。「自転車の鍵がないか探してみようか」


 結局サチエの元に鍵は無かった。サチエはタマキ氏の所から持って来るのが早いと言って主張を曲げなかった。調べてみると電車で一時間掛かる他県が所在地となっていた。しかも最寄り駅からさらに歩いて一時間。東京からニューヨークに行くのと比べたらまだ近所のほうか。

「思うのだけれど」F氏がベッドに横たわる妻に言った。「それって部屋に自転車の鍵を置いて帰れば済む話だったんじゃないかな。話の内容からいってタマキという人は間違って鍵を持ち帰ってしまったように思えるんだが」

 サチエは言い訳にもならない言い訳をしてタマキ氏を弁護した。それからきちんと責任を持って問題に取り組めという趣旨の言葉を極めて曖昧に放った。サチエの中ではもうこの件は自転車のオーナーであるサチエでも原因となった業者でもないF氏の問題となっているらしかった。サチエの夫はそれ以上の罵倒には取り合わず洗濯物が詰まった袋を抱えて病室を去ることにした。

 夫婦が会話しているあいだ周りの患者達は怪訝そうな顔でサチエさんのご主人を観察していた。朗らかで優しいサチエさんと口論を繰り返してばかりいる夫は患者達から非常識で反社会的な人物と目されていた。今日だって彼を咎めにたくさんのご友人が見舞いに来ていたのだ。ただ隣のベッドのキクスイ夫人だけは何が正しいのか己の観察眼に自信を失いかけていた。そんな患者達の視線に気づかない振りをしてF氏はつとめて冷静に病室をあとにした。


 帰りがけに担当医のもとに顔を出した。サチエを担当する医者の卵は他の多くの学生と同じく白衣を着て診察室に座るよりもサーフボードを抱えて砂浜を歩いているほうが似合いそうな風貌だった。そして彼もまたサチエのフィルターを通して見ていたのでF氏に対してのみ尊大な態度をしていた。医者の無礼はさておきF氏はニュースで見た新しいがんの治療法を妻に試してもらえないかと相談してみた。健康的に日焼けした若者が返事をどうすべきか考えあぐねているとカーテンの裏で耳をそばだてていた指導教授が現れて教え子に取って代わった。教授は言葉を選びながら、頼みに来るのはF氏だけではないこと、治療を受ける順番には暗黙のルールがあることを説明した。要するにお偉いさんが先で順番抜かしをしたいのならそれなりのコネなり裏金なりを用意しろということだ。指導教授は困ったような、なだめすかすようなその表情に、現場の医師でも超えられない政治的な問題なのでどうか理解して欲しいという意図を込めた。大きな袋を膝の上に置いて聴いていたF氏はふとQ氏の口添えなら医者も考え直してくれるだろうかとその瞬間を想像してみた。


 一年前の話だ。サチエはその夜、甲斐性の無い夫からあらたまった表情で話があると告げられた。また理屈っぽい話か。稼ぎも無いくせに難しいことばかり語ろうとする。彼女は夫が口を開くよりも先にもっと重大な用件を切り出すことで相手を黙らせることにみごと成功した。ざまあみろ。サチエはその日の午後、駆け込んだ病院でがんと診断されたのだ。

 それから三日後、運良くベッドが空いてサチエは大学病院に入院した。彼女がその病院を選んだのは出血が隠せなくなって飛び込んだ先がたまたまそこだったというだけの理由からだった。サチエの病名は子宮頸がんといった。夫のF氏は子宮頸がんについて調べ己の罪深さに震えた。子宮頸がん。がんでありながらウィルスによる感染で発症する病気。感染のもととなるのは主に性交渉であり、感染してから三年以上の潜伏期間を経て発病する。だが実際には日本国民の多くがこのウィルスを保持しておりそのすべてが発病する訳ではない。二次的要因としてストレスや生活習慣などがあげられ、感染者のうちの数パーセントがこれら要因により発病する。入院初日、担当医と称する学生は飄々と余命五年であることを夫婦に告げた。他人事のように笑顔を絶やさない妻の横でF氏はすすり泣いた。責任は自分にある。無論確率としては一〇〇パーセントではない。疑えば思い当たる節はいくつもあった。しかしそんな些末な事はもうどうでもよい。言い逃れしようとも彼にその一因があることに変わりはないのだから。


 病室からの帰りは階段を利用せずにエレベーターを待つことにした。いろいろあり過ぎて情報過多だ。一旦時間を止めてリラックスしたかった。今日はもう前のアパートは諦めよう。口惜しいがしかたない。代わりに目を瞑り向こうの様子を想像してみる。少し間があいてリアルな光景が浮かんできた。薄い壁の部屋で黙々と腕立て伏せをしている己の背中。間違いなくあそこにはもうひとりの自分がいる。それにしても客観的に眺めるとたしかに自分の背中は弱々しい。全体的に軽んじても許されそうな雰囲気を醸し出しているのは否定しようがない。これでは嘗めらてもしかたないのではないか。どちらが悪いのだ。羞恥心でたまらず目を開けた。ちょうど来たエレベーターはすでに人でいっぱいだ。


 案の定というべきかF氏はブザーの鳴るエレベーターから何度も追し返されては次へと回された。最初は気長に待つだけと腹をくくっていたがさすがに三十分待たされるとこのままエレベーター難民として暮らすようになるのではと不安になってきた。溜息をひとつ。どっかとベンチソファに身体を沈める。次の瞬間廊下のほうから赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。間もなく産まれて間もない子を抱いた母とそれを囲む家族がホールに現れた。偶然そのように配置されたのか、それとも意図して設計されたのか、九階はちょうど半分に分断されていて右が女性のがん患者専用、左が出産を控えた妊婦専用になっていた。病室は完全に分かれていたがエレベーターだけは共通なのだ。食堂にいても共有の配膳室を通してたまに泣き声が聞こえる。赤ん坊の姿を見たり声を聴いたりするだけでも元気を貰える。設計としてはわるくない。そういえばサチエも幼い子ばかり選んでベビーシッターをしていた。あるいはサチエの希望通り経済的安定より子供を作ることを優先させていれば。エレベーターがやって来た。またも満員だ。だが少しずつ詰めてもらえばあと五人くらいは乗れそうだった。F氏は喜んで家族に先を譲った。



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