第14話 魔女と七階にまつわる三つの言い伝え
「最近は回覧板にサインも無いのよ。一家心中でもしてなきゃいいけど」そう言って箒片手のアサナガ夫人が笑った。三号室の話だ。早朝のエレベーターホールに魔女の笑い声が反響した。F氏も雑巾掛けの手を止めて夫人にあわせるように愛想笑いを浮かべた。そして努めてさりげなく三号室が事件に巻き込まれる可能性があるかどうかその有無を探ってみた。夫人は素気なく分からないとだけ答えた。他の家に干渉しない。それがこの団地のルール。
「それにしても貴方手際がいいのね。初めてとは思えない」
「いえ。そんなこと」とだけF氏は答えた。
「このエレベーターは最近入れ替えたのですか。一階に昔の名残りがありますね」
「あらよく気付いたわね。昔はね、こんな立派なエレベーターじゃなかったの。蛇腹の引き戸が付いていてね、動いたり止まったりする度にガチャガチャ揺れたのよ。まあエレベーターが変わったくらいなら大歓迎だけどね」
都議会では毎年団地を取り壊す議案が持ち出されていることを夫人は内緒話をするみたいに明かした。大手建設会社が再開発を目論み、夜な夜なこの付近で政治家を接待しているのだそうだ。
「そういえば」と夫人が話題を変えた。「貴方、七階にまつわる三つの言い伝えについてはもうお聞きになった」
「いいえ」とF氏は答えきつく雑巾を絞った。
「そう。じゃあ教えといてあげる。このフロアには三つの言い伝えがあるの」夫人の人差し指がぴんと立つ。「一、この団地には天使が降りる。東京にはいくつか天使が降りてくるポイントがあって、そのうちのひとつが此処。二、一号棟つまりこの建物のエレベーターは夜に天国と繋がる。午前二時のタイミングで左が降りているとしたら、右のほうは昇っているときあの世へと繋がる。だから間違っても深夜に乗ってはいけない。三〇年前にご高齢で亡くなられた女性もやっぱり入院する直前に乗ったと聞いたわ」
「天国までということは高い階数まで上がるということですか」
「そう。たしか六千百七十四階だったと思う」
「中途半端な数ですね。由来でもあるのですか」
「知らない。たしか誰かがそんなことを言ってたもの」
「なんだか根拠に乏しいですね」
「あら貴方、うちの主人みたいな言い方するのね」
「六千階なら外からでも目視できそうですけど」もし本当なら宇宙エレベーターみたいでむしろ乗ってみたい。
「そう言われればそうね。いったい誰が見たのかしら。貴方、今度乗ってごらんなさいよ」
「遠慮しておきますよ」
「天使はね、左のエレベーターで地上に降りてきて右のエレベーターで戻っていくの。さあ、このへんで終わりにしましょう。ご苦労様でした」
後片付けは任せてほしいと伝えてF氏は箒を受け取った。夫人が帰ったのを見計らってエレベーターの窓を覗いてみる。見えたのは暗い穴と微かに光る金属の骨格のみ。そういえば三つめは何だったんだ。
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