第13話 もうひとりの自分

 隣人は相変わらず不在だった。郵便受けに一日分夕刊が増えていた。玄関に入った途端待ち構えていたかのように電話が鳴った。ごもっとも。弁解の余地はない。F氏は病院に行けなかったことを素直に妻に謝罪した。先程競技場で体験した不思議な出来事については黙っていた。それから妻の長い嫌味を受け流したあと努めて穏やかに自転車の鍵は見つかったかと質問した。

「アタシ持ってないわよ」ヒステリックな声が返ってきた。

 はて。たしか朝には病院にあると言ったはずだが。

「サチは鍵を持っていないんだね。もしかしたら部屋を探せば見つかるということはあるかな」

「タマキさんが持ってる」

 またタマキとかいう奴か。F氏はタマキなる人物の名前に腹立たしさを感じ始めていた。Qという苗字と同じくらいに。

「で、タマキ氏にはどうやったら会えるのかな」

「知らない。引越屋さんに電話してみたら」

「つまりこういう事かな。オレが業者に電話をしてタマキ氏と連絡を取り、鍵を引き取る」

「もしかしたら近いうちに様子を見に来るかもって」

「それは団地にということ。それとも君の様子を見に行くということかな」

 無言。

「仮にタマキ氏が都営住宅の様子を見に来るとしたらオレの役目は終わるね。彼が自転車を移動させれば良いから」

 無言。

 やれやれ始まった。ゴールが見えない。

「分かったよ。その人が鍵を返してくれるか、君が自分の持っている分を見つけるかしたら――」

 ぴしゃりと言い返される。「持ってないって」

「分かった。じゃあ鍵を返してもらうか、タマキさんが自分で場所移動したら解決ということでいいね」

 サチエはまだ何か言いたそうな声を発したがF氏は適当な理由をつけて電話を切った。鍵なんかどうだっていい。君と話したいのは残りの人生をどう生きるかとか、どうやって支えてやれば君は喜ぶのかとか、希望を捨てずに何かいい治療法を一緒に探そうとか、そういう話なのに。苛立ちを抑えて遅い夕飯の支度に取り掛かる。前のアパートは左にシンクがあって右にガス台。引越し後は左にガス台で右にシンク。左右逆になっていた。そのためかF氏はフライパンに火を掛けようとしてシンクに向き、皿を洗おうとしてガス台の方に向いた。苦笑し、競技場で見た奇妙な白日夢を思い返す。向こうのアパートにも自分が暮らしている。自分とは別の自分。妄想が頭を駆け巡る。明日、区役所で本籍変更の残りを済ませたら、その足で前の部屋に行こう。以前の生活に未練など無いが客観的にアパートを眺めて誰も住んでいないことを確かめてみる。そうすれば前の部屋にもうひとりの自分がいるなどという不思議な感覚はなくなるだろう。


 独りのはずの食堂でこちらを見る視線を感じてサチエは振り向いた。しまった。隣のベッドのキクスイさんが眼を丸くしてこちらを見ている。優しいサチエさんにまたお喋り相手になってもらおうと後をつけてきたのだ。

「サチエさん。普段旦那さんにあんな喋り方しているの」

 キクスイ婦人は人生の先輩としてあまりに酷過ぎる、そして普段のサチエさんとはギャップのあり過ぎる口調に注意すべきではと感じていた。だが彼女の笑顔を見ているうちに信じてあげたいという気持ちのほうが強くなった。きっとアタシの聞き間違いね。

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