第12話 空白の五時間
突然のノック音に陸上競技場のアルバイト監視員は椅子から飛び上がった。拒否する隙も与えず管理センターに入ってきたのは中年の男。監視員は男を見て、うだつが上がらないというのはこういう人物を指すのだろうという感想をもった。不躾に男が時刻を訊ねた。監視員は念のため説明しておきますよという口調で外に時計塔があると返答した。
「それは知っている」
男が何を意図しているのかは判断しかねるが、とにかく早く出ていってほしいので監視員は壁に掛かった時計を見上げて答えた。
「午後五時過ぎですね」
男は監視員の返事に頷きながらもまだ納得のいかない様子で部屋を歩き回った。それから立て続けにいくつか質問した。ひょっとすると目の前の男は頭がどうかしているのかもしれない。そう疑って監視員は脇にある電話を横目で確認した。それから男の質問をひとまとめにして返してやった。
「僕、遅番なんです。今さっきこの席についたばかりで。それ以前の人の出入りはちょっと」
ならばと質問を変えた男に今度は「早番は今しがた帰りました」と監視員は落ち着きをはらって答えた。
「落とし物ですか。それとも窃盗か何かの犯罪ですか。警察に通報しましょうか」
男はその必要はないと言い 不躾に入ってきて悪かったと言い残して出ていった。間もなく男が敷地の外へ去っていくのを確認して監視員はほっと胸を撫でおろした。この事を日誌に書いておくべきだろうか。一瞬頭によぎったが余計な事をすると上に嫌われる。僕は空気の読める分別のつく人間なのだ。そう言い聞かせて監視員は今のできごとを心の中にしまっておくことにした。突然の不審者に緊張して喉が渇いた。彼は立ち上がると給湯室まで行って湯飲みに水を注いだ。
手遅れと思いつつ区役所に戻ったのは悪手だった。庁舎の正面口はまだ開いていたが それは建物の中から職員を吐き出すためであって外から人を入れるためのものではなかった。ドア付近でガタイのいい警備員が戸締りのルーチンに勤しんでいる。F氏は警備員に事情を説明し、中に入れてもらえないだろうかと訊ねてみた。警備員は一言も発せず、代わりに不審者を見る目でF氏の爪先から頭頂部へと視線を三往復させた。F氏は警備員の言いたいことを充分に理解して帰宅する人々の流れに合流した。河に捨てられた空缶のようにF氏の姿が流されていく。
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