第11話 本籍変更

「たぶんこっちにある」

 サチエの話からいくと どうやら自転車の鍵は病院にあるらしい。F氏は気持ちを無理矢理にでも切り替えて区役所に行くことにした。転籍届を出すのだ。区役所までそこそこの距離があるが徒歩で行く。金が無い分暇だけはあるのだ。

 区役所は前のアパートと新居を結ぶ直線上に位置していた。新居となる団地からスタートすると商店街、国立大学、大学病院、繁華街、そして区役所という順だ。その先に陸上競技場があってさらにその先の広い公園を抜けると週貸しのアパートに到着する。


 目的のフロアは出産、就職、転居、結婚、親族の死亡と様々な背景の者達が交差する小宇宙だった。前回ここを訪れたのは離婚届の用紙をもらいに来た時だ。その時もらった書類は夫の項目のみ記入されたまま抽斗の中で今も寝息をたてている。順番待ちの番号券を発券する機械が舌を出すように紙を出した。そいつをつまみ取りどのくらい待たされるのだろうと数字を睨む。受付番号は六一七四番。偶然だが新居の部屋番号と同じだ。これを吉報ととらえるべきかそれとも警鐘ととらえるべきか。

 F氏は何かの列に並ぶ時、決まって順番抜かしをされる。スーパーのレジでは必ず三人前で割り込みされて注意するのもままならない。病院に行くと不思議とF氏の存在が忘れられていつまでも声が掛からない。ハローワークも同じだ。今さっき呼び出されたのは六一七〇番だからあと四組だが果たして順番通りに回ってくるだろうか。空いているベンチソファを探して腰を下ろす。正面にはF氏の部屋には絶対に入らない巨大なモニタがニュースを流していた。音はなく代わりにキャプションがアナウンサーの代わりをしていた。

『東証一部平均株価は三日連続続伸。GDPは三期連続で続落。失業率は計算方法によって改善だったり最悪だったり。これを受けて経済諮問会議のメンバーがインタビューに答えた。全体と全員とは違う。全体が良ければそれで良し。全員の懐を暖めろという野党の主張はナンセンス』

 F氏のあとから入ってきた太った男が順番待ちの紙を取り出して周囲を見渡し、なぜかわざわざF氏の隣を選んで座った。男の体重に合わせてソファが深く沈み、ふんばっていなければそちらの方に滑って引きずられてしまいそうになる。これが重力か。男の体臭が鼻につく。

 ニュースが続いている。『汚職を噂される高級官僚がインタビューに応え、あらためて疑惑を否定した』

 機械的な音声が六一七五番を呼び出した。隣の太った男がゆっくりとした動きで紙を確認して「早かったな」と呟いて立ち上がった。引っ張られていた隣の重力が失われる。男は体臭を残して転居届の窓口へと向かった。

『日、米、欧共同開発の次世代型量子コンピュータが完成したものの試運転直後から暴走を続けている。この問題について初めて文部科学大臣が記者の前で発言した』

『今年のノーベル賞に果たして日本人は選ばれるか。期待される面々は――』

 日本人といっても優秀な学者は閉鎖的な環境や無意味なヒエラルキーを嫌って国外に脱出してしまうだろうに。『――生理学・医学賞は前回に引き続きこちらの三人。続いて物理学賞はこちらの――』

 突然大きな塊がF氏の視界を遮った。見上げると背が低くて肩幅がおそらしく広い白人男性が背中を向けてF氏の正面に立っていた。隣には妻と思しき日本人女性。ふたりはF氏に気付かないのか、それとも知ったうえであえてその位置を選んだのか とにかく彼の前に立ちはだかって会話を弾ませた。F氏は不快感を覚えながらもいつもの事と気を取り直してポケットからスマホを取り出した。その時スピーカーが受付番号六一七四番と六一七六番を続けて呼んだ。


 窓口に立つ区職員はピンクのシャツを着た癖毛を気にする若い男だった。髪に触れる度にF氏の鼻先に整髪料の匂いが漂う。F氏はこの職員をどこかで見たような気がした。だがどこでなのか思い出せない。職員は終始F氏を軽んずるような態度をとっていた。だがこれもまたいつもの事とF氏は平常心を保つよう努めた。転居届に関してはあらかじめ記入したものを提出して難なく受理されたが、続いて本籍変更の話になると途端に職員が難色を示した。

「同じ区内で本籍を変える必要なんてありませんよ。それにやるとしたら奥さんの印鑑も必要ですし」

 本籍というシステムが形骸化していることはF氏だって承知していた。なんなら好きな場所に本籍を置くことだってできる時代だ。いちいち引越しの度に変える必要もないし、いたずらに本籍を変更して職員を煩わせるのも良くない。しかし彼にも彼なりの理由というものがあった。この機会に何としてでも本籍から前のアパート名を抹消したいのだ。F氏は反論代わりにもう一枚、今度は記入済みの転籍変更願いをカバンから出して職員の前に突きつけた。もちろん妻の分も捺印済みだ。しばしの押し問答の末、職員は折れて書類を受け取った。そして少し時間が掛かると告げて奥へと消えた。取り残されたF氏の横の窓口で職員と会話を弾ませていた夫婦がいた。先程視界を妨げていたふたりだ。新婚だろうか。担当する職員もふたりにつられて笑っていた。いつまで待っても癖毛の職員が戻ってきそうにないのでF氏は一旦窓口を離れてまた先程のベンチに座ることにした。

『新たながん治療法が治験の段階に入りました』

 ニュースで紹介されている大学をF氏はよく知っている。サチエが入院している大学病院だ。ぜひとも妻にその治療法を試してもらえないだろうか。

『関東甲信越のニュース。ここ数年専業主夫が増加しているということですが、妻が外で働き夫が家事をするというのはアリなのか。取材班が実態を追った』

『○○区内において自転車盗難が多発。警視庁では悪戯か転売目的と見て住民に警戒を呼びかけています。特に駅前や集合住宅で物陰に隠れやすい――』

 名前が呼ばれた。癖毛の職員の声だ。彼は本籍変更願いが受理されたことを告げ、それからやや棒読み口調で実際に本籍が変更されるのもそれがデータに反映されるのもあとしばらく掛かると付け足した。

「具体的にはどのくらいですか」

「えーと、一時間」

 嘘をついていることは明白。だがいずれにせよすぐに終わるものではないということも確からしかった。

「もうお昼ですから食事でもしてきたらどうですか」

 いい加減昼休みにしたいのはそちらのほうではないか。そう皮肉のひとつでも言いたくなるのをこらえて職員の言葉に従う。何か喜ばしいことがあったらしい。国際結婚の夫婦の窓口から歓声があがった。

 フロアを離れた途端まるで待ち構えていたかのように電話が鳴った。妻からだ。

「本籍変更の手続きに手間取っているんだ。わかった、午後の検査前には必ず間に合わせるから」

 通路を歩きながら会話をし、なんとか話を切りあげて顔をあげるとF氏は知らない通路に立っていた。区役所は不慣れな者にとっては迷宮だ。特に妻の中傷に心を乱されているような男にとっては。建物の外に出ようと見分けのつかないそっくりなフロアを出たり入ったりする。四苦八苦しているうちに伏し目がちな人々が並ぶ部屋へと放たれた。そこは生活保護の受付フロアだった。苛立つ男を女性職員がなだめている。「正直者が莫迦を見るようではいけませんから」

 団地と同じだ。F氏は思った。落ちる所まで落ちて初めて人の優しさに触れる。手の空いた職員をつかまえて道を訊ねると職員は優しい口調で丁寧に道順を教えてくれた。

「分かりづらいですものね」

 礼を言って明日は我が身と背中を丸め列の脇を擦り抜ける。


 せっかくだから昨日まで住んでいたあのアパートまで足を延ばしてみようか。つい二十四時間前までは帰ると表現していたあの壁の薄い部屋。いや、やめておこう。良い思い出なんか無かったじゃないか。サチエから催促の電話があったばかりだし。それとも。一瞬すぐ近くにあるハローワークに行くという計画が浮かぶが、行けば気分が滅入るようでそちらも無かったことにする。

「さてどうやって暇を潰すか。あそこかな」

 F氏の足が陸上競技場へと向かった。


 いつもは走って門をくぐっていたのでこれまで気付くことがなかった。門の上方に装飾があることを彼はその日 初めて知った。六枚羽根の天使の彫刻だ。どことなく団地のインジケーターと似ていた。もしかしたら同じ作者のものだろうか。ゆっくりと歩きながら門をくぐると走り慣れた風景が広がった。

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