第10話 シュレーディンガーの犬

 団地はペット可だっけ。

 エレベーターがあがってくるのを待っていたF氏の背後に何者かが近づき手の甲を舐めた。舐められるにまかせた状態でF氏は疑問の表情を浮かべた。視線を上げると疑問に対する答えが得られた。ゴールデンかラブラドールかは分からないが金色の大型犬のハーネスの先には老紳士が立っていた。細身の身体にまるで自身の皮膚であるかのようなぴったりとしたグレーのスリーピースを着ている。老紳士はF氏が「押しましたよ」と言い終わらぬうちに慣れた手つきでエレベーターのボタンを押し、F氏に指摘されたことを恥じるように「ああ、ありがとうございます。おはようございます」とF氏の立つ場所とは微妙に違う方向に会釈をした。「いいえ」と返すと同時に到着したエレベーターが扉を開けた。

「犬が悪戯をしませんでしたか」

「いえ。まったく」少しだけ居心地の悪さを覚える。

「そうですか。悪戯好きなもので」そう言って老紳士は犬の背中を撫でた。「いい子にしているんだよ。シュレーディンガー」

F氏は一階に降りるまでのあいだに昨日引越してきた者だと挨拶をした。老紳士は同じ階に住むトモナガだと名乗った。犬の名はシュレーディンガー。扉が開くとシュレーディンガーは主人を誘導して正面口から出ていった。老紳士が出て行くのを見計らってF氏はポケットからスマホを取り出す。レンズを向けた先には朝の陽ざしがタイルの床に鋭角に突き刺さっていた。

「借景。ではなく建築美術の参考資料か」

 都営住宅の一階エントランスホールは住居というよりも歴史ある銀行や官公庁といった趣があった。エレベーターは二基。どちらの開閉扉にも上方に錆びたフロアインジケーターが付いていた。天使が六枚の羽根を広げたような抽象的な彫刻だ。現在は動くことはなく代わりにホールボダンの脇にある液晶パネルが階数を表示していた。あらためてホールを見渡す。実に良い。古くてもそこに建築設計士の思い入れが感じられる。これで野暮な防犯カメラが無ければ完璧なのだが。カメラのレンズを睨み返して果たしてあれは機能しているのだろうか、それともダミーなのかと疑ってみる。正面口に向き直り世帯の数だけ並んだ銀色のアルミ製の郵便受けをなぞって歩いていく。この数えきれないほどの郵便受けのせいであるいは銀行というよりも廃校の生徒玄関といった印象にも思えてくる。六一七四番の前に立って中を覗いた。中には宅配ピザと不用品回収のチラシが捻じ込まれていた。『どんな物でも片付けます。見積り無料』

 オレにまとわりついて離れない諸々の問題はいったいいくらで引き取ってもらえる。


 サチエの言ったとおり自転車は裏口を出たゴミ庫の横にあった。彼女が乗るにしては小さめで色も女性向けではないアシスト自転車。その高額そうな自転車はなぜか駐輪スペースには並ばずに少し離れた街灯の柱に括りつけてあった。どうしてあんな場所に。あれではゴミを回収するときの妨げになってしまうし、なにより悪目立ちして不届き者の格好の標的になってしまう。まるで悪戯してくださいと主張しているみたいだ。これもまたサチエしぐさと呼ぶべきか。どこか既視感をかんじる。そばに寄り、街灯と自転車を繋げたチェーンを引っ張ってみる。

「さて。チェーンの鍵はどこにある」

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