第9話 雪の降る静けさのような
「じゃあ五年経ったら治るんですね」
余命五年を言い渡された時、サチエは無邪気な子供のように医者の言葉を履き違えた。隣に座るF氏は彼自身もそうであったように妻はショックで現実と向き合えないのだろうと解釈した。受け入れるのに時間が必要なのだと。だがそれは間違っていた。サチエはいつまでも病気と、そして死と真剣に向き合おうとはしなかった。都合の悪いものには蓋をする。決めつけや記憶の改ざんは彼女の得意とするところ。それが裏目に出た。サチエは落ち込むどころか看護師や見舞客から ちやほやされるのが嬉しくて入院生活に浮かれた。そうして一年が過ぎた。
「自転車は正面玄関の方? それともゴミ捨て場の方?」電話口の刺すような口調が鼓膜を振るわせてF氏を現実へと引き戻した。恐怖の団地物語はいつの間にか幕を閉じ、アシスト自転車の話題へと移ることになったらしい。急な話で頭が混乱した。彼女らしい言葉足らず話し方が脳にタールを流し込まれたような感覚を引き起こさせる。懸命に妻の言葉を噛み砕き、補完し、整理してゆく。どうやらサチエは自転車の置き場所を気にしているらしい。一号棟の住民は自転車の駐輪場所を二か所から選択することができた。正面玄関の横に棟専用のものがひとつと裏口を出たゴミ庫のそばに団地共有のものがひとつ。各々のライフスタイルに合わせてどちらか選ぶというのが団地内での暗黙のルールと事前に聞かされていた。
「どっちだろう。特に気を付けて見ていなかったけど」
電話の向こうで芝居じみた舌打ちが響いた。続く籠りがちな独り言からF氏は妻の決めつけによって創られた彼女特有の心の世界を垣間見た。彼女のなかでは夫は自転車の置き場所を監督する役目を担っており、あらかじめそれを快諾していた。にもかかわらず夫はわざと意地悪でそれを怠っているのだ。妻の話を聞いてF氏は思った。なんてサチエの旦那は無責任で意地悪なのだろう。今度会ったら懲らしめてやらねば。
「タマキさんがね」サチエの話が続く。F氏にとってタマキというのは初めて聞く名前だった。サチエはよくF氏の知らない人物を共通の知人という前提で話題にした。F氏は話の流れからタマキなる人物が引越業者の誰かであると推測した。
「自転車の置き場所を間違えたかもしれないって」
妻の話を要約するとこうなる。引越業者はあるどうしても回避できない事情で一号棟専用のほうではなく裏口のほうに自転車を駐輪した。ただ業者はそれをはっきり断言できずにいる。慣れない場所でよく分からなかったせいだ。サチエとしてはあらかじめF夫妻に与えられていた正面玄関横の正式な白線の中に自転車を駐輪したい。そこで誰かが確認しに行き必要なら移動させなければならない。以上の話をサチエは酷く婉曲させたうえで説明した。そうすることで夫の口から自分がやると言いだすのを待っていたのだ。
「それは業者が責任もってすべきことだ。少なくともタマキなる人物がオレに依頼するというのなら頼み方というものがあると思うが」
今度は正真正銘の意地悪だ。自転車を見に行くくらいやぶさかではない。だが相手に忖度させようとする妻の狡猾さに嫌気がさしたし、なにより日中の引越業者の態度がまだ彼のなかで消化できずにいる。許せないのだ。サチエはF氏が言い終わらぬうちに矢継ぎ早に彼女の主張を並べた。業者が置き場所に迷ったのは意地悪な住人と作業の邪魔ばかりしたF氏のせいだ。なによりタマキさんは忙しい。明日は他県に行かねばならない。そんなタマキさんを煩わせるとは。だいたいその程度の子供の使いさえできないのか。肝心なのはタマキさんにきちんとした仕事があるということだ。誰かさんとは違う。痛い所を突かれて地面から一〇センチ浮揚したような気分を味わう。頭は重たいタールで足元は不安定にふらついた。言い返したくなるのをぐっと堪えて喉元で反芻した。そんなことよりいったいどうやって業者を焚きつけたんだ。そもそもこちらが目を瞑っていただけで引越業者に関しては疑問が多過ぎるぞ。いかにして病室から業者へコンタクトしたのか。仲介者でも存在するのか。代金はいったいどこから捻出された。なぜオレにすべて任せなかった。だがここでひとこと言い返そうものなら相手のペースに乗ってしまい嘘と言い訳の循環に振り回されてしまう。論理性が欠落した者は利己心を貫こうとするあまり果てしなく真実を遠ざける。脳のタールが満タンを差してからゆっくりと床に落ちはじめ、ふらつく足元を余計滑りやすくさせた。
妻の舌鋒が一層鋭くなった。「分かったわ。じゃあアタシが見に行けばいいんでしょ。薬の副作用で具合が悪いし、明日は大切な検査があるけど先生に言ってキャンセルしてもらうから」
スマホのマイクを指で押さえてから押し殺したような溜息をつく。「わかった。もういいよ。オレが見てくる。業者が言うのだから裏口にあるのだろう。今日はもう遅いから明日の朝に確認する」
「洗濯物が溜まってるの」唐突に話が変わった。
「明日まとめて持って帰る。洗濯機もきちんと設置したし」
「別にいいのよ。コインランドリーくらいあるんだから」
ならなぜその話を持ち出す。「どのみち明日は区役所に行くつもりだから、その帰りにでも寄る」
相手の気持ちを逆なでする溜息を返事に代えてサチエは電話を切った。
いったい何が不満だというのだ。
一度は妻に愛想をつかし離婚を決意したF氏だった。切り出すより先に病気が発覚した。もし彼女ががんにならなければ今頃ふたりは他人だったはず。そんなサチエとの距離感をF氏は定められずにいた。近くなったり遠くなったり。パソコンから流れるジャズを止めて音の無い部屋を見渡す。傘のへこんだ箇所が目立つ中古のペンダントライト、イミテーションの煉瓦の壁。薄青色のブラインド。オイルステインを塗ったパソコン机、並べられたワインの木箱、再生しつつある観葉植物、床のクッションフロアが裸足に温かい。
「タマキさんには仕事があるか」
ボディブロー。今夜も眠れない。キッチンに行くとチョコレート菓子を脇にどかして吊戸棚からコーヒーミルと安価な豆を降ろした。サチエのほうが正しい。貯金はこのままでいけば一年持たない。様々な要因が重なったとはいえ突き詰めれば己の責任。妻ががんだと知らされた時、F氏はそれから三日後にはアルバイトを見つけて働き始めた。高級マンションの清掃員だ。しかし元請けの不正に加担するのが我慢できず半年で辞めてしまった。タフじゃない。心が折れてしまったあの日以来余計に。マグカップに濃い目のコーヒーを半分。残り半分に同じ量の牛乳を入れる。砂糖は無し。カップ片手にベランダに立った。風が意外に冷たい。不規則に並んだ高層ビルの影が獣の鼓動のように赤色灯を点滅させていた。夜が深くなっても眼下の道路は賑やかだ。人が眠りについた頃に転がり始めるトラック。酔っぱらいを押し込んだタクシー。何も起きないことを祈りながら巡回するパトカー。一匹狼であることを忘れぬようアクセルを捻り続けるモーターサイクル。眼を瞑りタイヤとアスファルトの摩擦で生じるノイズに耳を傾ける。F氏はその雑音が好きだった。それは夏の雨だれのように、降雪の無音のようにF氏を包みこんでゆく。長年住み続けた週貸しのアパートよりも引越し当日の団地のほうが落ち着くことに彼はささやかな驚きと妙な納得という相反する感情を抱かずにいられなかった。
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