第8話 計画実行
コンクリートに白いペンキを塗っただけの殺風景な壁。まずはその白い壁にジャズのベースを染み込ませる。イヤホンをせずに音楽を聞くのはいつぶりだろう。挨拶回りが終わるとF氏は手持ちの曲から適当に選んで うんとボリュームをさげて部屋に流してみた。それから玄関の外に出て耳を澄ませた。やはり音は漏れていない。古くとも建物自体が鉄とコンクリートでしっかり固められているので滅多なことでは音漏れしないのだ。自信はあった。隣室のテレビの音がまったく聞こえてこないからだ。引越前の部屋の壁がベニヤ板でできているのではと疑うほどの薄さだったのとは大違いだ。
よし。いける。
F氏は部屋と外の通路を行ったり来たりしながら少しずつボリュームをあげていきちょうど良いボリュームを定めた。それから山積みになった荷物を一旦押入れに押し込んでベランダがあるほうの部屋のリフォームに取り掛かった。リフォームといっても賃貸なので許される範囲は限られている。無論予算は最低限。ふすまに長押し、畳の床といった典型的な和室をブルックリンあたりにありそうな男前インテリアに変えてゆく。畳の上にダニ除けのシートを噛ませてダークフローリング調のフロアカーペットを敷く。ふすま全体にカッティングシートを貼ってレンガ柄の壁に見立てる。鴨居や長押にも壁と同じ白や床と同じ濃い色の木目のテープを貼って印象を変える。カーテンの代わりに薄青色のブラインドをはめ、中古のペンダントライトを天井から吊るした。それから安物の小ぶりなパソコン机をベランダに運んでオイルステインを塗っていった。酒屋から貰ってきたワインの木箱をパソコン設置予定の場所の隣に積んで本を並べる。ベランダのほうは安物のすのこにやはりオイルステインを塗って床に敷きウッドデッキに見立てた。そこに鉢を一個置きF氏は季節外れとわかっていながら試しに種を植えてみた。見知らぬ場所、余所よそしかった部屋が少しずつ彼の色に染まっていく。サチエの部屋と決めた隣の部屋は腫れ物に触れるかのように一切手をつけず引越し業者のしたままにした。
部屋を分けたいと言ってきたのはサチエのほうだった。
「アタシの部屋はどっち」新居内覧の日、ベランダに立つ夫の背中に彼女はそう言った。
そうか。部屋を別々にしたいのか。言われてみればそのほうが自然なのかもしれない。唐突な妻の宣告に最初は驚かされたものの顔には出さないよう気をつけてF氏は話を合わせた。「こっちの部屋だと洗濯物をベランダに干すのにオレが部屋を出入りすることになるけど」
サチエは侮辱の意図で首を振り「でしょうね」と呟いた。
なるほどわかった。君は初めから自分の部屋を決めていた。残すはこちらが忖度して貴女はそちらに私はこちらにとお願いするだけなのだ。選ぶのはそちら。リスクを取るのはこちら。話がつくと夫は外の景色に向き直り肺の端まで吸い込んだ空気を一気に吐き出した。
「これはもうヴィンテージマンションだ」
夫が思いのほか部屋を気に入っていると見るとサチエは突如前言を撤回してこの部屋はナシだと主張し始めた。
「ここやめよう。よく見たら古くて気持ち悪い。おばけが出そう。あ、ごめん怖がらせちゃったかな」
サチエはこの日以来都営住宅に関心を示さなくなった。もとはといえばサチエの念願であり、それを成就させるために十年以上にも渡って工作し続けてきたというのに。
電話が掛かってきたのは観葉植物を部屋のどの場所に置くか迷っていた時だった。F氏の記憶が正しければ病院の消灯時間はとっくに過ぎている。声からいくと妻は元気そうだった。それはそれで何より。彼女はいつものように夫に対してのみ使う棘のあるイントネーションで話し始めた。
「引越しは終わった?」
「ああ」
「え、終わるの」とサチエがジャブを放ちF氏は受け流した。
「部屋はどう」
「別に良くはない」
「へー」
本音を言えばスマホの前で小躍りしたい気持ちだった。上の階の自称ミュージシャンが重低音のリズムに合わせて下手な裏声を発することもない。外に干した洗濯物に吸殻が擦りつけられる心配もしなくていい。同じく外の洗濯機用コンセントから電気を盗まれる不安も解消された。おまけに家賃は半分以下。失ったものといえばプライドくらいのものだ。だがそんな事を話しても腰を折られるだけなのでF氏は引き続き淡々と妻の会話に付き合っていった。
「ソファは部屋に入った」
「ああ」
「植物は捨ててくれた」
「うん」
嘘をついた。ソファは前の部屋にいる時点でぎりぎりのタイミングで粗大ゴミに出したし、サチエの言う観葉植物は今まさにどこに置くべきか持って歩いていたところだ。ソファも観葉植物も元は前のアパートの向かいにある一軒家で暮らしていた銀行員一家の物だった。サチエはその家族と親しくしており、時々仕事の依頼も引き受ける仲だった。支店長に出世して地方に転勤が決まった際、向かいの夫妻は言いくるめてサチエに処分に困った荷物を押し付けた。F氏は狭いワンルームを占有する五番アイアンとパターの欠けたゴルフバッグや天板にひびの入ったガラスのテーブル、レの音が出ないキーボードなどをひとつひとつ時間を置いて処分していった。いっぺんに処分しなかったのはサチエを刺激しないためである。ガラクタをほとんど処分してしまうとなぜかF氏は枯れかかった観葉植物だけは捨てずに水をやって育てるようになった。一方サチエは最後に残された染みの付いたソファを断固死守した。しかたないのでF氏はソファを引越当日まで部屋に置き、BVレンタカーの車で直接処分場まで運んだ。処分場の職員はF氏がひとりで運んできだことはもちろん、よくもこんな汚い家具を使っていたなと呆れた。
妻への嘘は続く。「ソファについては詳しいことはわからないな。引越業者の担当のはずだしサチエの部屋には手を付けていないんだ。勝手に触れると悪いんでね」
「あんな邪魔な物アタシの部屋に入れないでよ」
「そうか。すまなかった。あとで確認してみるよ」
夫に一勝したという手応えを掴んだのでサチエは話を次に進めた。彼女はどこで仕入れてきたのか団地にまつわる怪談やら事件やらを次々と披露してみせた。例えば隣室のドアポストに新聞が溜まっていると思っていたら監禁殺人事件の現場になっていたとか。古い団地には区別のつかない同じ顔をした妖怪が住んでいるとか。夫を口撃するサチエはいつものように活き活きとした。話を受け流しながらF氏は未だ病気から目をそらしている妻に呆れ、心の沼のほとりで膝をついて嘆いた。夫を脅かして喜んでいる暇など無いはずだ。こちらがいつも病気のことで考え込んで、向こうが能天気とあってはもうあべこべじゃないか。君はもっと真剣に病気と向き合うべきなんだ。他に治療法がないか最後まで諦めるべきではないし、諦めるにしても残された時間をもっと有意義に使うべき。諭したい衝動に駆られても立て板に水と分かっているのでただ口をつぐむばかり。どこまでも平行線の関係がもどかしい。
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