第7話 都営住宅の魔女
引越業者の嫌がらせと台車の活躍とが相殺されてF氏の引越しは予定時間内に終了した。
「どうでした。車は」ミニバンの荷台から台車を降ろしながら店主が訊ねた。
「良かったですよ。でもそのコは貸す人を選んだほうがいい」
「選んだつもりですよ」
F氏は買いかぶりだという表情をした。
「近いうちにきっとまたお客さんは来ますよ。この店に。私には分かる」そう言うと店主は背筋を伸ばして付け加えた。「当店は建設用重機から車椅子までタイヤの付いたものなら何でも取り揃えております。次はぜひスポーツカーを」
「ええ、きっと。余裕がある時に」
言い淀みそうになったのをこらえたのは彼なりの見栄だった。できるものならそうしたい。札幌で暮らしていた頃はよくサチエを助手席に乗せてマイカーでドライブしたものだ。いつだったか彼女が興味を示したので雑誌に掲載されたラベンダー畑を見つけに北海道を縦断したこともあった。当時はナビを引き受けた彼女が目的地と反対方向を指差したり、清涼飲料水の蓋を開けた途端はじけて顔を濡らしたのは売店まで買いに行ってくれたサチエがおっちょこちょいで落としたからだと誤解していた。今思えばあの頃から既にからかわれていたのだ。お人好しの自分がみっともない。
片付かないままの新居に戻ってくるやいなやF氏はチョコレート菓子の紙バッグを五つ掴んで再び部屋を出た。黄昏とちょうど点灯したばかりの蛍光灯とに照らされて箔押しがきらきらと光った。
「奮発し過ぎかな」
部屋の真上の六一八四号室も下の六一六四号室も顔を出したご婦人は容姿がそっくりだった。いずれも背が低く小太りの初老の女性だ。唯一の違いといえば白髪染めの色くらいなもので、ひとりは金髪、ひとりは紫だった。F氏は騒音とかあったら遠慮なく言ってくださいと頭をさげた。どちらの婦人も気を使わないでと礼儀良過ぎるF氏に困惑した表情を浮かべた。挨拶回りの途中で車椅子の女性とヘルパーにかち合いF氏はエレベーターを譲り階段を使った。団地は経済的に苦しい人だけでなくハンディキャップを背負った人とその家族にも提供されていた。エレベーターホールで出会ったふたりも先程とよく似た背格好で髪色は車椅子に座っているほうが青で介護しているほうが緑だった。隣の六一七五号室は赤だ。この時点でF氏はどこに誰が住んでいるのかまったくわからなくなっていた。婦人の背後で大型テレビが相撲中継を大音量で流している。その音量に負けないくらい大きな声で婦人が奥の部屋にいるであろう主人に向かって叫んだ。
「お隣に引越して来たFさんですって」
F氏には声が聞こえなかったが、他者には分からない夫婦間のコミュニケーションが図られたらしく婦人は満足そうな表情をした。ひょっとすると団地というのは建前で本当はこの地はよく似た姿の宇宙人か妖精が暮らすコミュニティなのかもしれない。自分は間違ってそうした領域に紛れ込んでしまったのでは。そうF氏は自分の境遇を疑った。たぶん頭髪は個を判別するために許された唯一の個性なのだ。
フロア役員をしているだけあって一号室のドアだけはきちんと表札が掛かっていた。アサナガという名字らしい。団地はそれひとつで大きな町内会になっていた。そして各棟の各階にはひとりずつ取りまとめ役としてフロア役員が選出されていた。ドアを開けたアサナガ夫人は他の部屋の住人とは違い背が高くて瘦せ型だった。髪色はナチュラルなロマンスグレー。背筋を伸ばした姿勢の良さが凛とした印象を人に与える。夫人は紙バッグを受け取ると早速今週から掃除当番が回ってくると告げた。
「交代でエレベーターホールの清掃をするの。毎日じゃなくていいのよ」夫人は説明も兼ねて初日だけは付き合うと約束してくれた。「本当は清掃委員が立ち合いをするのだけれど三号さんは最近居るのか居ないのか」
去り際F氏は引越業者のトラックを移動させたのは貴女かと訊ねた。婦人はどこで見ていたのかと眼を丸くした。
今のところ前のアパートのようなマナーの悪い住人は見当たらない。それどころかこの団地には互いのプライバシーには立ち入らないという暗黙のルールがあることをF氏は挨拶回りをするあいだに察した。近づきすぎない。離れすぎない。ちょうど良い距離感を彼らは長い試行錯誤の末に会得したのだろう。どこかの部屋の前で味噌汁の匂いがした。またどこか別の階からはカレーライスの匂いがした。別の棟からは無邪気な子供の叫び声が響いている。子供の声に反応して鳩が一斉に飛び立った。わからないものだ。傷ついたプライドをさらにどん底へと突き落とす覚悟で引越ししたというのに。
こうして一世帯を除きF氏の挨拶回りが終了した。六一七三号室だけは不在でそこだけは会うことができなかった。錆びついたドアの郵便受けには数日分の新聞が捻じ込まれていた。それとなくといった所作で廊下に面した窓を覗いてみると闇の中で一瞬ナイフのような鋭い光が煌いたのが見えた。もう一度ノックして耳をそばだててみるも変化は無かった。持ち帰った紙バッグはまた次の機会のためにキッチンの上あるあ吊戸棚に押し込まれた。
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