第6話 F氏の後向きな引越し

 都営住宅の入居者募集に応募したのは経済的理由に他ならない。夫のF氏は仕事が見つかりそうになかったし、妻は入院していた。一見最悪の状況のように見えるがこのような現実を憂慮しているのは夫のほうのみであり、妻のサチエからしてみればこれこそが密かに目論んでいた夫婦のありかたそのものであった。東京に越してからすぐにサチエは散財するようになり、一方で貧困者向けアパートのパンフレットを夫の眼の前にちらつかせた。世間から蔑まれるべき敗者。それこそがサチエが理想とする夫の姿。都営住宅の入居はその烙印を押すための最後の一手だった。夫婦のせめぎあいは十年以上も続き、ついに夫のほうが敗北を認めた。

 応募してから丸一年が経ち、都営住宅ですら拒まれるのか、自分はこのデリカシーのない者達の吹き溜まり、二階や隣の騒音が四六時中響いてくる週貸しのアパートで年老いて死んでいくのかと観念した頃に内覧通知が郵便受けの中でぽとりと音をたてた。


 団地は着飾った都心に突如として現れる古く巨大な城壁だった。鉄の骨にコンクリートの皮膚を纏った巨壁はいったい何と何とを隔てるつもりでいたのだろう。築五〇年を超えた棟の外壁は色褪せ煤けてはいたものの設計者が目指したであろうモダニズムの香りが今でも見る者に新鮮な感動を呼び起こさせた。

 F夫妻に与えられた部屋は六番地一号棟の七階、六一七四号室だった。エレベーターホールから二手に分かれた廊下を左に進んで二部屋めの四号室。そこがふたりの新居となる部屋だった。ドアを開けると工事して間もない埃っぽさに襲われ、次に新しい畳の匂いが漂ってきた。部屋を突っ切って東に面したベランダに出る。複雑な曲線で形作られたうろこ雲と直線で形成された高層ビルとがひとつのモダンアートとして混じり合い枠の中に閉じ込められている。長年アパートの一階で暮らしてきたF氏にとって東京の空を際限なく眺めていられるというのはちょっとした驚きだった。妻の予想に反してF氏はこの古く貧しい団地を気に入った。

「わるくない。これはもうヴィンテージマンションだ」


 引越しは秋にしてはやけに蒸し暑い日に決行された。予算の都合でBVレンタカーという聞き慣れない店を選びF氏はミニバンを一台借りた。積載量は少ないが同じ区内なので何度も往復できる。BVレンタカーの店主は来店したF氏を値踏みするように見てから駐車場の奥にある銀色のミニバンを顎で差した。駐車場兼修理工場はヤニとオイルの匂いでいっぱいだった。契約書にサインをしているあいだ店主は台車も安くしておくとF氏に勧めた。建設用重機から台車までタイヤの付いているものなら何でも借りられるのがこの店の売りだった。F氏は追加料金をまけてもらいオリジナルステッカーが貼られた台車を荷台に積んでもらった。

 見送る際に店主が窓の外から忠告した。「エンジンを切る前に充分アイドリングさせるんですよ。でないと焼き付きを起こす。まちがっても途中で切っちゃいけませんからね」

「ターボなんですか」

 店主が事もなげにという感じで頷いた。いったいどうやったのかミニバンはターボエンジンに改造されていた。F氏が燃費について不満を漏らすと店主がなだめるように諭した。

「大丈夫。燃費はうんと良くしてありますから。下手な軽より経済的です。それとね、時間までに帰って来なければ超過料金を頂きますよ」

「絶対に戻ります」

 F氏の右足がアクセルの具合を確かめるように慎重に踏み込まれた。

 一キロ走ったところでF氏は店主に試されていることを悟った。銀色のミニバンはそのポテンシャルを遺憾なく発揮させようとチューンアップされ、ステアリング、アクセル、ブレーキいずれも最小限まで遊びが抑えられていた。街乗りに適さない急加速は信号が変わるたびに慣性の法則とは何たるかをF氏の後頭部に叩き込んだ。F氏は店主のことを少しだけ好きになった。車道に落とされた並木の影絵がフロントガラス越しに忙しく変化していた。


 こうしてF氏の私物と夫婦共有の荷物が彼の手により新居へ運ばれようとしていくなか妻の私物だけが引越業者の担当として荷造りされていった。サチエは夫に相談もなく知らぬ間に引越業者と契約していた。その事実を知ったのはF氏がすっかり段取りを済ませた後、突然アパートに見積り人がやって来た時点であった。業者はF氏の存在が気に障ったらしく終始睨みつけるような態度をとり、荷物を確認し終わると侮辱するような鼻息を残して去っていった。妻の理解できない行動には慣れていたが突然の来客というのは新しい戦術でありそれなりにダメージを与えた。なるほどサチエ本人は入院して動けない。他の誰かが自分を挑発しに来るというのは理にかなったやり方なのかもしれない。

 見積人が帰った夜、サチエから電話が掛かってきた。サチエは業者の取り分が減ったことに気分を害しており、そうした夫の非礼を一旦水に流して「一緒に荷物を運んであげてもいいけど」と懐の深いところを見せつけた。無論そのあいだも一方的な主張に終始していたのだが。合理的に判断すればサチエの話に乗るのも悪くない。離婚したならまだしも夫婦で同じ部屋に引越すのに別々に運ぶなんて聞いたことがない。どちらかが折れれば済む話なのだ。意地を張るほどのことでもない。しかし結局F氏は自分の意思を曲げることがなかった。一度サチエにイニシアティブを握られてしまうと不条理かつ不可避なトラブルが押し寄せてくる。そして最後には必ずF氏が尻拭いをさせられる。耐えがたいのはそうやってトラブルを解決したあとに彼を待っているものは感謝の言葉ではなくF氏こそが問題の発端というデマなのだ。巻き込まれ、苦労して解決してやり、そして悪者か愚者にされる。


 引越し当日にやって来た業者はF氏への対抗心を隠すこともしなかった。部屋の主によって玄関に並べられた不揃いの段ボールをわざわざ部屋の最奥へと放り、キャラクターがプリントされた揃いの段ボールをこちらが先といわんばかりに蓋を閉めたそばから玄関に積んでいった。業者が受け持つ荷物はサチエの私物だけなので大型トラックではいささか大袈裟に見えた。荷台の隅で段ボールとアシスト自転車が申し訳なさそうに肩を寄せ合っていた。

 F氏の第一便が週貸しのアパートから新居へと向かい、再び戻ってくると業者はミニバンが二度とアパートの前に駐車できないようトラックで封鎖していた。除けて欲しいと頼むと業者は仲間同士でニヤニヤ笑いあって煙草を吹かし始めた。そのくせ他の車がやって来ると爽やかな笑顔で一礼してすぐに道を開けるのだ。埒が明かないのでF氏は近所のコインパーキングにミニバンを止めて台車で荷物を運ぶ戦略にでた。なんとか積み終えて駐車場の支払いを済ませると、それに合わせるようにして大型トラックもエンジンを唸らせた。

 レース序盤で大型トラックは幾度となく前を走るミニバンを煽った。距離を詰めるフロントグリルをバックミラー越しに見やりながら、ふとF氏は急ブレーキをかけてやりたい衝動に駆られた。この状況で追突されたら一〇〇パーセント相手の過失。こちらは身構えているのでたいした怪我にはならない。仮に衝突を避けることができたとしても、これ以上嘗めた真似はするなよという警告にはなる。あるいはこの銀色のミニバンならば荷物を満載していたって充分に加速できるから前方車両を擦り抜けてトラックを撒くほうが早いし気分が良いかもしれない。その代わり迷惑なのは後続のトラックではなくミニバンということにはなるのだが。前を走る車にはリアウィンドウに『赤ちゃんが乗っています』のステッカーが。隣の車線に眼を移すとそちらも同じ文言のステッカー。結局F氏はBVレンタカーの店主の顔を思い浮かべることで危険な発想を抑えることに成功した。小者に一泡吹かせるよりもレンタカー屋の主人に見込み違いだったと落胆されるほうが癪だ。トラックを先に行かせようとコンビニの手前でウィンカーをあげる。ミニバンが減速を始めるとトラックは窓から触れられるほどに幅寄せしてF氏を追い抜いた。逃げ場を失ったひ弱な軽自動車は危うくガードレールに車体を擦りそうになる。ミニバンの前に出てしまうと引越業者のトラックは意気揚々と空吹かしをして先へと進んでいった。F氏は黒い排気ガスを苦々しく噛みしめるしかなかった。


 団地の駐車スペースに到着すると案の定トラックは他の車が入ってこられないよう斜めに止まっていた。溜息が掠れる。辛抱もここまで。まさか新生活初日で他の住人から白い眼で見られるような行為をしなければいけなくなるとは。ここも安住の地ではないということか。F氏のどこかにあるスイッチが入った。緊張感のない顔が精悍な顔付きへと変容する。ドアノブに指を掛けた瞬間動きが止まった。団地の住人と思しき年配の女性がアパートのエントランスホールから姿を現したのだ。黒いワンピースを着て年齢を感じさせない背筋の伸ばし方ですたすたとトラックに向かって歩いていく。陽光がロマンスグレーの髪をきらきらと瞬かせていた。掃除の合間だったらしく引き摺られた箒の先から土埃があがる。まるでお伽話の魔女みたいだなとF氏は思った。建物の古さからいって魔法使いのひとりやふたり住みついていると囁かれても信用してしまう。魔女は運転席で待機していたドライバーに窓を開けさせると何かを告げた。その身振りから「他の車の邪魔になるから隅に寄ってちょうだい」と言っていることは間違いなかった。運転手はただちにエンジンを掛けて魔女の誘導に従いスペースを空けた。箒を引き摺った魔女はミニバンの車内でF氏が拍手しているのも知らず颯爽と建物の影に隠れて消えた。


 どうやら狭い洗濯機置場に洗濯機を置くとトイレか浴室どちらかの扉が干渉するらしい。きっとすべての世帯がこれまでもぎりぎり収まる微妙な位置の追求をし続けてきたに違いない。洗濯機の設置に悪戦苦闘するF氏を尻目に引越業者のリーダーは自分の部屋にいるみたいにどっかと床に座り、煙草をふかしながらサチエに電話をした。「うん。自転車は言われた所」取ってつけたような敬語で最後の言葉を締めくくるとシンクに吸殻を擦りつけて作業員を呼び集めた。少しの間おぞましい沈黙と視線に襲われたがF氏は無視して洗濯機との格闘を続けた。作業員達が出ていき鉄のドアが大きな音をたてると壁の向こうから精一杯の嘲笑が聞こえてきた。

 洗濯機を軽く叩いてF氏が言った。「分かった。オレの負けだ。君を置くのにベストな位置は無い。身体を横にしてトイレに入ればいい」煙草の残り香が設置したばかりの小さな換気扇に吸い取られた。

 どんな相手でも心を掴んで親しくなる。それがサチエの特技だ。あえて隙を見せ、異性からはその美貌で魅了し、同性からは『貴方が上! 私が下!』という見えないプラカードを掲げて懸命に媚びる。なかでも最も効果的な処世術が『最低なヒモ体質の夫から虐げられつつも笑顔を絶やさない健気なサチエさん』を演じることだった。おかげで多くの人が憐みを持って彼女に接した。そしてサチエのフィルターを通してF氏を見る者達からすれば彼は外道だった。ある者は探りを入れようとF氏に質問を繰り返した。またある者は露骨に彼を見下した。そしてまたある者は正義を振りかざして彼に挑んだ。夫の悪い噂が広まれば広まるほど仲間たちとの連帯感は強まる。今回の引越業者もいつものパターンだ。悲しいが慣れている。しかしこの手法はサチエにとってうまくいくいっぽうで反面たいへんなストレスをもたらしていた。八方美人は疲れるのだ。ささくれだった気分を横流しできるスケープゴートが彼女には必要だった。その相手もまた夫のF氏だ。まるで潰れたゴミ箱みたいな扱いだ。ごく稀にではあるがそんなサチエの本性を見抜く者もこれまでの人生にはいた。だがそうした人は決まってサチエから距離を置くので脅威にはならなかった。唯一裏の顔を察しながらも離れなかった人物がいたにはいたが、その男はしばらくすると彼女と結婚して夫と名乗るようになった。つまりF氏だ。


 引越業者が帰ってやっとひとりになれた我が家。疲労した上腕二頭筋を冷やそうとベランダに出てみる。眼下にはレトロフューチャーを想わせる都市。その向こうにはビル群に隠されて見ることは叶わないが東京湾が広がっているはず。東京湾は太平洋に繋がり、太平洋を東へと進めばアメリカ大陸に到達する。西海岸から車かバイクそれともグレイハウンドでさらに東に向かえば行き着く先はニューヨーク。一度も行ったことがないのになぜか宿し続ける渇望。環境が違えばあるいは。そうすればこの人生だってまた。

「借景」

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