第5話 競技場での相対性理論

 それは引越しの翌日、区役所で本籍変更をするのに手間取ったことから始まった。この日を境にF氏の頭に奇妙な妄想が憑りついて離れなくなってしまった。そして彼は今それを鬱陶しく思っている。


 癖毛をいじる区職員から本籍変更の事務処理には時間が掛かると言われて、F氏はいったん区役所の外に出て近くの陸上競技場に向かった。そこで時間をつぶすのはなかなか良い思いつきだった。F氏にとってそこは馴染みあるジョギングコースだったからだ。もしかしたら二度と走ることのないコースかもしれない。そう思うと余計に恋しくもなる。

 競技場を中心に見ると区役所の反対方向に広大な公園がひろがっている。その公園を歩いて、もしくは走って超えていくと道路を一本挟んだ地に瀟洒な住宅が並んでいる。その住宅街をうねるようにのぼる坂道の頂上にたどり着くと場違いな週貸しのアパートが唐突に現れる。そこがF夫妻が長年過ごしてきた住まいだ。決して居心地が良かったので住み続けてきた訳という訳ではない。むしろ一日でも早くそこから出たがっていた。振り返ればその週貸しのアパートを選んだのも妻のサチエだし、出たくても出られない状況にもっていったのもやはりサチエだった。


 観客席から見上げた空にチョークで線を引くみたいにして飛行機雲が伸びた。遅れてもう一本。F氏は時刻の確認がてら白い平行線をスマホで撮影し、それから昨日までの自宅の方角にむかってもう一枚撮影した。

「借景」

 競技場からはかつて暮らしていた瀟洒な住宅街は見えない。公園の木々に隠されているからだ。そのかわりさらに遠くに位置した高層ビル群が空に伸びている。まるで別の惑星の大木のような姿の細長い建物。その勇姿をコーナーを曲がりながら仰ぎ見るのがジョギング中の些細な励みだった。借景を終えてスマホをポケットにねじ込もうとした手がふと止まる。「それもアタシが買ってやったヤツだよね」かつて妻が言い放った言葉がフラッシュバックした。胸に突き刺さるような痛み。おっしゃるとおり。反論の余地なし。スマホだけじゃない。ここ数年購入した物で彼の稼ぎで手に入れた物などひとつも無かった。まともに仕事をしていないのだから当然だ。妻の知人からヒモ体質の夫と呼ばれていることをF氏は知っていた。籍を入れた当時は専業主婦になって欲しいと懇願していたのに今では自分のほうが専業主夫だ。情けない。やはり競技場ではなくハローワークに行くべきだったか。誰に見られている訳でもないのに恥ずかしさから周囲を窺った。正午をまわったせいか利用者はまばらだ。トラックを走るのは僅かにひとり。白いウェアをまとって無駄のない美しいフォームで走っている女性。観覧席のほうはというとF氏の席から離れた端のほうにこちらも銀行員の制服を着た女性がひとり。膝に置いた弁当を箸で突いている。すぐに眼をそらして利口な人だなとF氏は感心した。ここなら人目を気にせずゆっくりと空を仰いでいられる。管理センターに詰める監視員を合わせても一周四〇〇メートルの競技場にたったの四人。東京都心としては奇跡的な人口密度だ。だがもしかすると、とF氏は思い返す。もしかすると彼女は利口過ぎて同僚から疎まれているのかもしれない。心の中で同情の言葉を口にする。そうこうするうちに眼前を白いウェアが通り過ぎた。つい眼で追ってしまう。そういえばいつか読んだ本で若くいつづけるために陸上競技場をぐるぐる走り続けた女の話があったな。相対性理論を聞きかじったのがきっかけで近くの競技場を闇雲に走り、それから東京-大阪間の新幹線を何度も往復し、遂には東京とニューヨークを結ぶ飛行機でマイルを貯めまくった。最後はたしか木星行きのロケットに忍び込んだのだっけ。一周した白ウェアがまた目の前を通り過ぎる。その時になってF氏は妙な疎外感に包まれていることに気が付いた。決して目の前の女性のような美しいフォームではない。すべてのランナーから追い抜かされるほどのろまでみっともない走りだった。それでもオレだってこのトラックを走るジョガーのひとりだったのだ。眼をつぶれば足の裏の感触がすぐにでも蘇る。ゴムを多めに配合することで弾力性をもたせたアスファルト。蹴った瞬間に押し戻される心地よい感触。コーナーを曲がるときに見上げた遠い星に生息する木々の群れ。それなのに。引越しを終えた途端、競技場がやけによそよそしく振舞っている。まるで知らない場所に来たときのよう。なんだろう。この座りの悪さは。白ウェアがあのコーナーを曲がる。次の瞬間F氏は眼を見開き今起きた出来事に戸惑った。いや彼は己の眼を疑った。白いランニングウェアの女が突然闇に包まれたのだ。それからすぐに彼女の姿はあるはずのない街灯の明かりの下に現れ、そしてまたすぐ闇に消え、またすぐにさらにその先の街灯の下に現れて、そうやって現れては消え、現れては消えを繰り返して見知らぬ街へと小さくなっていった。彼女の背景には無数の窓の明かり。その一つひとつは決して明るくない。もしかすると日本ではないのかもしれない。幻覚と片付けられないリアルさに眼をしばたたかせる。疲れているのかも。昨日は一日費やして荷物を運んだ。昨日のことを思い返して余計なことまで思い出してしまう。あの引越し屋ときたら。それに不眠は続いている。どんなに体力を消耗しても夜になると眠れない、まあ心身ともに疲労するのも当たり前か。少し休まなければ。深呼吸しようとして身体を反ると今度は眩暈に襲われた。船上で荒波に踊らされるような、銀河全体が横滑りするような、あるいは妻との口論の際に見舞われる浮遊感のような。嘘と言い訳に振りまわされた挙句、前提そのものを覆されるあの虚脱感。いけない。怒りに引きずられては。引越屋でさえこの脱力感なのにさらに深みにはまってしまう。肩で息をして額の汗を拭う。しかし冷静になろうとも続けて浮かんだ映像が増々彼を困惑のスパイラルへと飲み込んでいく。もう目の前に弾力性のあるトラックは無い。そこは昨日まで住んでいた部屋。自分がいた。F氏は自分を客観的に見ていた。だが厳密には彼自身ではない。自分とは違うもうひとりの自分。もうひとりの自分はいつものように簡単な食事を終え、パソコンの前で建築設計の勉強をしている。記憶ではない。今この瞬間に起きている出来事。行ってみたい。行って確かめてみたい。そんな渇望が湧きあがる。何を莫迦な事を。そう彼の理性が諭しつつ押し返す。デリカシーのない連中の吹き溜まり、あの狂気のアパートを覗きにいくだって。正気か。やっと離れることができたんだ。冷静になれ。理性が幻覚と現実との境界線を見極めようと周囲を見渡すように促した。いつの間に席を立ったのか。利口な銀行員の姿が見えない。白ウェアもコーナーで消えたまま。空を見上げた。飛行機雲の並行線も消えていた。ただ西から東へとオレンジ、サーモンピンク、赤紫、青紫、そして星屑を散りばめた紺色へと移り変わるグラデーションが美しい。

「ん?」

 一度捻じ込んだスマホを再びポケットから取り出して画面を凝視した。同時に運動場特有の眩しい照明が点灯してF氏の横顔を照らした。気を失っていたのか。それともうたた寝でもしていたか。相対性理論どころではない。一瞬と思われた合間に五時間が進んでいた。いや五時間失われたというべきか。戸惑いのままスマホを睨んでいると画面が新たなメッセージがあると伝えた。妻からだ。


〇 来てくれるって約束してくれたよね 五時過ぎてんだけど 洗濯物が溜まってるんですが わたしはいつまで待ってたらいいんですか


 夕焼け空を背にF氏が立ち上がった。やれやれ。区役所に戻るつもりがすっかり予定が狂ってしまったではないか。

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