5 再来させる才覚


意識が返ってきてようやく、僕は一度手放していたことに気が付いた。そして、もちろんそれに取り乱すようなことはなかった。この感覚は昨日もあったし、その前もあった。もはや日常的な感覚といってもいいのかもしれない。

悪夢祓いを志す第一高校の生徒なら慣れたものだ。

頬に春先のそよ風を感じる。僕はゆっくりと目を開けて、辺りを確認する。

「よし・・」

仮想世界への潜航ダイブは無事成功したようだ。用意した空間は昨日と同様の、気持ちのいい雨上がりの草原地帯である。

とはいえ、まったく同じというわけではない。あくまでここは、既存の空間に僕のイメージを加えて構成した訓練用のものだ。数キロも歩けば果てが見えてしまうだろう。

「まあ、こんなもんでいいだろ」

マラソンをするわけではないのだから、わざわざ広大な面積の空間を構成する必要はない。今日できることは、仮想世界での体の動かし方を覚えてもらうきっかけくらいがせいぜいだろう。

ほどなくすると、少し離れたところにポリゴン状の塊が現れた。それは可視の白粒子を噴き出しながら変形を始め、やがて厄介な後輩の姿を形作った。

「それで?」

開口一番な彼女に、僕はたった今思いついたことを返した。

「そういえば名前言ってなかったね。僕は神谷(かみや)鷹之仁(たかのじん)ね」

「・・糸織(いおり)よ」

「糸織さんね」

割と普通の名前をしていた。まあ、うちの担任の門前払(もんぜんばらい)桜子(ようこ)に勝るインパクトは期待していなかったが。

「案外普通だね」

「でしょ?」

糸織はどこか自嘲気味に、僕の率直な感想を鼻で笑った。そして、人を顎で使うような仕草で僕に先を急がせる。一瞬だけイラっと来るが、そんな苛立ちはすぐに波が引くように消えていった。

そもそも、僕も他人に指摘できるほど礼儀が出来た後輩ではなかったと思う。昔の自分の不躾な態度は先輩から見ればこうだったのかと考えると、むしろあそこまでできる糸織の態度は清々しく感じる。

――言い表しようのない感傷がじんわりと胸に響いて、僕は糸織へ叱るどころか優しく笑いかけることが出来た。そして、糸織はまたも僕のそんな態度に驚いているようだった。

「じゃあとりあえず、歩いてみようか」

まだ何も知らない糸織に教えるべきことはたくさんある。僕はその中でまず『体の動かし方』を教えることにした。

仮想世界の肉体の動かし方は、現実のそれとはかなり異なる。普段している動作のすべてを、意識的に行う必要があるのだ。例えば「卵を持ち上げる」という当たり前の動作一つとっても、初めは手を開くことさえ困難だろう。よくて卵を握りつぶすか、取り落とすかだ。

そして「歩く」という動作は、仮想世界においてかなり難易度が高い。バランスをとって重心を整えながら、四肢をばらばらの方向に動かさなければいけないからだ。

だからこそ、目を疑った。

「え・・」

糸織はつい先週入学したばかりの一年生だ。どんなに優秀でもせいぜい這って進む程度だろうと高を括っていた。こと例外においては、僕は真っ先に思いつかなければならなかったのにーー何も考えていなかった。

糸織は、僕の目の前でさも平然と歩いてみせた。

「こ、こんな感じ・・っ?」

いや、違う。簡単にやっているわけではないことは、糸織の歪んだ表情からすぐに分かった。よく観察すれば指先が不自然にピンと立っていたり、ところどころギクシャクとしている部分がある。

――――だが、それでも驚愕は拭えなかった。

「ちょ、ちょっとどうなのよ!」

「あ、ああ。ごめんごめん」

通常歩くまで一か月、走るのにそれの倍はかかると言われている。糸織のように本番一発目で歩ける人間はそうはいない。

『才能』という一言では片づけられないほどの、圧倒的鬼才。彼女の前では天才ともてはやされた凡人など霞んで見えた。

僕がそう心中を整理している間に、糸織は歩行を完全に習得したらしい。先程までのおっかなびっくりした感じはすっかり解消され、自由に草原を歩き回っていた。少し嬉しそうな顔をしながら僕を見て、次の指示を促してくる。

「じゃあ、次は軽く走ってみようか」

僕は一年前に自分が指導された手順を必死に思い返しながら、そう指示した。糸織はやや苦戦しながら、なんとか小走りくらいの速さで草原を駆け回り始めた。

僕の頭に、去年のーーいつだったかの記憶がよぎる。それに気を取られてしまったことをきっかけに、当時の光景が匂いさえ感じるほど鮮明に再現されていく。

そこは地下室のように薄暗くて、僕が立っているところも硬いコンクリート床の上だった。そんな陰鬱な場所でも、いつものように刀を振る練習をしていると、すぐに京先輩が来てくれる。ふわふわ揺れる栗毛に、僕は犬が尻尾を振るように喜んだ。

僕が刀を振るう。その度に、先輩が褒めてくれる。だがよく見れば、その口元はやや引きつっていた。

なぜだーーなんで僕はこの時に気が付けなかったんだ。無限に湧き出てくる後悔が胸を渦巻き、強く締め付けてくる。どれだけ息を吸っても肺をすり抜けていくようで、尋常でない息苦しさに襲われた。

苦し気に喘ぐ。胸を抑えて、今にも倒れこみそうになる。


――全部、お前の、せいーーーー


「ちょっと!聞いてるの!?」

その苛立った糸織の声で、僕はようやく意識を戻した。すると、先程までの息苦しさは、残響のような眩暈だけを残して消えていた。息を吸い込むと、その眩暈も嘘のように引いていく。

「――あ、ごめん」

「しっかりしなさいよ。それで、次はどうすんのよ」

そんなことを訊ねられても、僕の頭の中は真っ白だった。それに。何かを考えだしてしまえば、また過去の記憶に苛まれることは確実だ。

僕は空っぽの笑顔を顔に張り付けて、なんとか言葉を喉から捻りだした。

「うん・・今日はこのくらいで終わりにしよう。糸織さんのポテンシャルは今日の指導と入学した時の計測値で分かるはずだから・・次回から本格的にってことで」

早口でそう言って、僕は仮想世界から現実へ戻った。糸織の不満そうな表情が一瞬見えたが、その時には仮想世界から僕の体は消え失せていた。

それからすぐに職員室にいる門前払先生に報告を済ませて、学食に寄らずに寮へ戻った。目は冴えているのに布団をかぶって、眠くなるのをじっと待った。


その日は珍しく夢を見た。起きたころにはなにも覚えていなかったが、鼻先がなぜか痒かった。懐かしい夢だったのかもしれない。

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