6 three
世界で最も憂鬱な三番目の平日ーー水曜日に、僕は教室の机に突っ伏していた。昨日もたっぷり寝たはずなのに、全身に生乾きの泥でも張り付いているように体が重かった。
理由は、考えなくても分かる。糸織とかいう性格の悪い後輩というよりは、後輩指導そのものが原因だろう。
指導の中で想起された過去の記憶ーーそれを見まいとする理性と見たいという本能に板挟みにされて、僕の心はひしゃげそうになっていた。
「きもぢわるい・・」
ストレスで胃のあたりがずきずきと痛む。あんなもの引き受けるんじゃなかった。
「いやぁ、悪いな神谷」
頭上からした声に顔を上げると、菱が僕の机の上に菓子パンを一つ乗せるところだった。どうやら昨日の賠償のつもりらしい。
「別にいいよ」
この胃痛はともかく、そのことについては本当に気にしていなかった。「昨日菱がいたら」と考えないこともないが、菱の多忙っぷりは重々承知している。彼を責めることはできない。
なにより、「生徒会で忙しいから」と断られてしまえば、僕は菱に対してなんの要求も出来なかった。
だから元々、後輩指導にはたまに顔を出してくれれば御の字のつもりだ。菓子パンはありがたく受け取ることにする。
菱は近くの空いている椅子を寄せて、僕の机の前に座った。
「それで、どうだったんだ?」
まるで夕食時の厳格たっぷりな父のように、菱は僕に訊ねた。僕はしばらく小さく呻いた後、体を起こして答える。
「どうもこうも・・天才だよ」
「ほお」
意外なことに、最初に口から出たのは糸織に対する素直な評価だった。僕でなくとも、菱も、先生も、誰もが同じ評価を下すことを確信していた。幸か不幸かはさておいて、糸織に天賦の才があるのは間違いない。
「ぶっつけ本番で仮想体で歩いて、小走りもできたよ」
「・・一年の今くらいは座学だけだったな」
そう、事前準備などできるはずもない。糸織が仮想世界の体――『仮想体』をコントロールするのは、間違いなく昨日が初めてのはずだ。
順当に育てば、糸織は僕を簡単に追い抜いていくだろう。
「まあ、性格は最悪だけどね」
菱はそれだけ聞くと、なぜか少しの間どこかへ視線を逸らした。しかしすぐに居直って、続けて訊いてきた。
「どんな奴なんだ?」
妙な質問だったが、極度の疲労のためそれを問いただす気力がなかった。僕はありのままを答えることにした。
「女で、結構美人系?髪長くて肌白くて・・みたいな」
「ほお。それで?」
「それでって・・・・やばいヒステリックもちみたいでさ。実習室に入った途端、椅子ぶん投げられたよ」
「ああ、今日の朝のはそれだったか」
どうやら生徒会にまで連絡がいっていたらしい。朝から生徒会室に集まった面々が「なんだこれは」と、その報告をまじまじと確認している姿が目に浮かんだ。第一高校の中で優秀揃いの彼らも、まさか一年生が学校用品を破壊したとは思わないだろう。昨日はあの時は厄介な後輩から逃げるのに必死だったが、よく考えてみれば前代未聞の珍事だ。
そう、やったのは糸織である。それなのに、なぜか僕のほうが恥ずかしくなってきた。僕は熱くなってきた顔を隠すように俯いて、それからまくしたてた。
「せ、先輩への敬意ってのが足りないんだよ。別に偉ぶるわけじゃないけど、あの態度は問題だと思うよ?先生の前では猫かぶって、僕と二人きりになった途端「アンタのせいでしょ?」っておかしいと思わない?」
「・・・・なるほど」
菱はたっぷり間をとって、やけに神妙に頷いた。なんだか笑いをこらえているような菱の声に、僕は顔を上げた。
「なんだよ」
「髪が長くて肌が白い美人さん。それに強気ってことだろう?」
「まあ、特徴としてはそれで合ってるよ」
「目元はどうだ?しゅっとして、クールな感じじゃなかったか」
「ヒステリックを起こして、吊り上がってない状態ならね」
「まさに彼女のようにか」
「――――は?」
菱が指さした方向へ、なんとなく座ったまま振り向いた。
――いた。いてほしくなかったが、いた。糸織は教室の入り口に体を預け、そこに堂々と陣取っていた。相変わらずの不機嫌そうな表情が美貌と相まって、独特な人を寄せ付けない雰囲気を放っている。
また、よく見ると教室のすぐそこの廊下にはそれなりの野次馬が押し寄せていた。どうやら糸織にアプローチをかけようとして躊躇っている男子だけではないようで、男女も学年もバラバラの彼らは興味津々といった様子である。
そして、僕が糸織の存在に気が付いた瞬間、当の本人である糸織と野次馬の視線が一斉にこちらへ襲いかかってきた。
「い、いつから」
「私が色白美人で、ヒステリックもちだとかほざきだしたあたりね」
「結構序盤じゃねえか!!」
僕は椅子も転がる勢いで立ち上がりながら、菱を睨む。与り知らぬ背中のほうで進行していく惨状に、菱が気が付かないはずがない。コイツ勘づいていて、わざと深堀してきやがった。
しかし、菱を糾弾している余裕はなかった。そうこうしているうちにも、糸織はドスドスと昭和アニメの怪獣のような足音を鳴らしながらこちらに近づいてきていたからだ。
彼女はすぐに僕の目前まで来て腕を振り上げた。僕は咄嗟に身を屈める。
「ぼ、暴力反対!」
「別に殴ったりしないわよ!」
そう言った割には力強い糸織の拳が、僕の肩あたりに思い切り叩きつけられた。痛く・・痛くない。
「あれ・・?」
ただ叩いただけにしては不思議な感触と音に、目をそっと開ける。糸織は四つ折りにされたプリントのようなものを僕に押し付けていた。
「これは?」
「先生からよ。私のデータだって」
先生――門前払先生のことだろうか。直接渡せばいいものを、こうして人伝てに任せるところがあの人らしいといえばらしい。
「指導に必要だろうからって」
なるほど。
僕が引き受けるかどうかはさておき、これから彼女を指導するにあたってこのデータは必要不可欠なものになるだろう。そういえば昨日の指導の最後に僕がそんなことを言ったような気がするが、よく覚えていなかった。
僕は少しくしゃくしゃになったプリントを受け取って、広げる。軽く目を通してみると、それはやはり糸織の成績表のようなものだった。
基本情報として、仮想体の強度に濃度、固定化頻度や粘度が強調して記載されている。もちろん、履歴書にある情報――名前や住所も、さらには身長体重スリーサイズまで、入試の際に用いたデータがすべてあった。
ふむ――――え?!
「えぇ?!」
「な、なによ」
糸織から手渡された成績表と糸織本人を交互に見直す。す、スリーサイズ!?こ、これ、僕が見ていいものなのか?計測値ならまだしも、ここには糸織の女性として知られてはいけない大事なデータまで載っているではないか。
僕は「これは一体」と訊ねそうになる自分の口を、空いていたもう一方の手で塞いだ。
「・・何してんのよ」
糸織から変人を見るような視線を向けられるが、そんなことどうでもよかった。
危なかった。正直にすべてを話したら、糸織の鉄拳制裁を受けて医務室送りになるところまで、予知に近いビジョンが脳裏を走っていた。
この公衆の面前でそれが実現してしまえば、僕が受けるのは肉体的苦痛だけでは済まない。事情を知る本人同士とこれを僕へ届けさせた先生ならともかく、教室の外で未だたむろしている野次馬たちには僕はどう映るだろうか。
ーー言えない。口が裂けても言えないが、ここでプリントをしまってもそれはそれで怪しい。
僕は何食わぬ風を装って、もう一度手元の成績表を見た。冷静に見ればなんてことはない。そもそもこれはただの数字の羅列であり、これ自体が形を持って僕を誘惑するわけではないのだ。
どれどれ・・仮想体強度はSで、スリーサイズはーーいや、駄目だ。見てはいけない。濃度もSで、バストはーーーーおい僕!しっかりしろ!
いくら自分を窘めても、本能的にそこへ視線が寄ってしまう。まるで眼球そのものを操作されている気分だった。抗えないというのか・・・・。
僕は少しばかりの葛藤の末、遂に糸織の身体数値を舐めるように見つめることにした。身長は169で、体重は・・54.3?!軽すぎないかと心配が勝り、糸織を身体をじっくりと凝視してしまう。
「な、なによ!」
改めて見ると、こんなデータなどなくとも糸織がやせ型なのは一目瞭然だった。全体的にすらっとしていて、肌が雪のように白いのも相まって手首なんかは簡単に折れてしまいそうだ。
また、成績表に目を戻す。
スリーサイズはさすがにーーいや、もう遅かった。既に僕の眼球はくっきりと糸織のスリーサイズの数値を凝視していた。自分に呆れつつも、脳内でその数値を反芻する。
ふむ、77に60、81か。いまいちピンとこないので、懐からリーナを取り出して検索機能を立ち上げた。検索ワードはもちろん『バスト77 カップ』だ。
リーナ越しに、糸織の胸部へ目が行く。控えめと表現できるが、それはそれでいい。強気な女性がそういうコンプレックスに恥じらいを見せるシチュエーションはもはや定番だし、定番が嫌いな男なんていない。
「ん・・?」
だが結局のところ、糸織の正確なバストはよく分からなかった、トップとかアンダーとか、見慣れない意味不明な単語が新たに出て来たからだ。一番早い方法は本人に聞くことなのだろうが、それをしたら僕の命の保証はない。
「かくなる上は菱に・・いや」
「アンタほんとなんなの?」
僕が今日一番の頭の回転を見せている時、糸織はリーナを覗き込むようにして身を乗り出した。制服の胸元にある隙間から柔肌が覗き、手に持っている数値のせいで妙にそこを意識してしまう。僕は体ごと目を逸らして平静を保ったが、その不審な行動にはさすがの糸織も何かを感づいてしまった。
――やや鋭い緊張が僕たちの間を駆け抜けていく。
「・・正直に話せば、許してあげるわよ?」
絶対嘘だ。言ったら半殺しにされるのが目に見えている。僕はまた取り繕った笑顔を顔に張り付けて、リーナとプリントを自分の体を後ろに隠した。
「なんでもないよ。凄い数値だったから、驚いただけだよ」
「へぇ・・・・」
「・・」
怖い間だった。いたたまれなくて視線を菱へ泳がせると、愉快なコメディでも見るような顔つきで僕たちのやりとりを見ていた。もしかしたら、このスリーサイズ付きの成績表のことを気が付いているのかもしれない。
糸織はしばらく無言のまま僕を睨んでいたが、これ以上ここで派手な行動をするつもりはないらしい。苛立ちを見せながらも、すんなりと引き下がってくれた。
「じゃあ、今日もよろしくお願いします」
糸織は事務的にそう締めて、教室を去っていった。昨日と比べたらそれなりに大人しかったが、こうして大人しくされると逆に不気味な感じがする。一体放課後に何をされるか分かったものではない。
僕は手元の成績表を丁寧に折りたたんで、制服の胸ポケットへ厳重にしまいこんだ。ついでにリーナも電源を落として、懐に戻しておく。
「はぁ」
ため息をついて、崩れ落ちるように椅子に戻った。菱はそよ風ほども気にしてないらしく、弁当を黙々とつついていた。
「大変みたいだな」
菱はまるで他人事のように、そう言った。
「一応お前も一緒にアイツの指導だろ。何言ってんだ」
「聞いていないのか?」
そう何気なく返すと、菱の手が止まった。それから、菱は同情するような目つきで僕を見つめてきた。
「な、なんだよ」
「・・先生から朝言われてな。俺はお役御免だそうだ。お前一人にやらせるらしい」
僕は座りながら、気絶しかけた。
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