第6話 ミステリーへの愛

 時刻は午後八時を過ぎ、各々が談話室に集まって、夕食をとることになった。

 もはや、恒例といってもよいが、そこに大向先生の姿はない。野呂さんの表情が徐々にではあるが、曇ってきていることが分かる。モニターの段階でこうも予想外のことが起きてしまえば無理もないことであろう。

 夕食は、コース料理で、とても美味しかったのだが、ほとんど会話がないので、妙に空気が重く、確実に美味しさは半減している。料理を紹介する声が、部屋で反響しているのがなんとも言えない……。できることならば、私も、もう少し気楽な状況で食べたかった……。 

 せめて会話ぐらいは展開すべきか?

 どうして、そんな謎の使命感に襲われたのかよく分からない……。私はこの重い空気のせいで、万力に抑えられているような口をこじ開けて声を出す。

「野呂さんは、どうしてこのミステリーツアーを企画されたのですか?」

 不意を突かれたようで、野呂さんが一瞬呆然とする。

「え? あぁ、私はもともとミステリー小説が好きでして、お恥ずかしながら、昔は自分で小説を書いてもいたのですが、少々続けられない理由が出来まして。それからは、妻との暮らしのために働き、ミステリーというものから離れていきました。昨年、その妻もなくなり、子供もいなかった私はミステリーに対する情熱というか、これまで離れていた分、反動のようにどんどんとのめりこんでいきまして。しかし、私も年をとりました。今さら、小説を書くほどの胆力は残っておりません。ですので、せめて、謎を作り、それをお客様に楽しんでもらえるようなこのミステリーツアーを企画したのです」

 野呂さんの顔は、少年のように生き生きとしていた。私は、編集者になってまだ二年目だけれど、どんなに売れっ子の作家よりもミステリーを愛し、情熱を持っているように思えた。

「そうだったんですね。微力ながら、私もお力になれるように頑張らせてもらいます」

「ええ、よろしくお願いします」 

 野呂さんは顔をほころばせた。これで、少しは空気が緩んだだろうし、誰かが会話を始めてくれるるだろう……と思ったが、私としてもこれ以上話題にあげられることもなく、先生方も何も話そうとしないので、結局静寂に満ちた夕食をとることとなったのだった。

 その後、野呂さんから、明日、午前九時に談話室に集まるように、伝えられ、解散ということになった。

 夕食後、軽くシャワーを浴びて、部屋に戻った私は、ベッドに倒れこむように寝転がった。柔らかな布団とマットレスが私の体を優しく包み込む。いろんな意味での疲労が解けていくようだ……。ゆっくりと寝返りを打ちながら、今日の出来事を反芻する。朝から先生に呼ばれて、金沢まで来て、先生の行動にハラハラさせられて……。これがこれから二日間も続くと思うと憂鬱だ……。

心労と疲労で目の前がぼんやりと曇っていき一気に睡魔に負けていった。

 部屋の電気を消し忘れたからか、夜中に目が覚めてしまった。部屋にかかっている時計を見ると時刻は午前二時を指している。電気を消してベッドに戻ろうかとも思ったけれど、その前に一杯水を飲もうと部屋を出た。誰にも迷惑をかけないようにゆっくりと階段を降りて談話室に入ろうとすると、談話室のドアの隙間から、うっすらと光が漏れていることに気が付いた。音が鳴らないように静かにドアを開けると、外をぼんやりと眺めながら、ワイングラスを手にした野呂さんが部屋の奥で座っていた。

「おや、来弥さん。どうなされたのですか?」

 優しげな笑顔を浮かべている。

「いや、ちょっと目が覚めちゃって、水を一杯頂こうかと」

「そうですか。お水でしたら、ミネラルウォーターが冷蔵庫に入っておりますので、ご自由にお飲み下さい」

「ありがとうございます」

 私は、キッチンに入り、冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを取り出し、一口口に含む。乾いた喉に冷え切った水が流れ込んで、体が驚いてしまう。

 キッチンから出ると、野呂さんがさっきと同じように外を眺めている。

「お隣、よろしいですか?」

 野呂さんは、一瞬こちらを見て目を丸くして、それからまた目を細めた。

「ええ、どうぞ」

「失礼します。野呂さんも目が覚めたんですか?」

「……まぁ、そのようなところでしょうか。長年考えていた、このミステリーツアーがようやく実現しそうで年甲斐にもなく興奮してしまっているのかもしれませんな」

 野呂さんは喜びの中に悲哀を混ぜ込んだような表情を浮かべて居る。ワイングラスを手元でくるくると遊ばせている。

「野呂さんは、本当にミステリーがお好きなんですね」

「ええ。初めて読んだのは、コナン・ドイルのシャーロックホームズシリーズでした。精巧に組み上げられた伏線とストーリー。個性豊かなキャラクター達。そして、それらをさらに魅力的に映し出す文章力。月並みな表現ではありますが、感動で胸が打ち震えました。私もこんな作品が書きたい。そのような気持ちから始まった、私のミステリー人生は結局小説という形で実を結ぶことはありませんでしたが、今は、このような形でも十分に満足しております」

 野呂さんは、立ち上がり、私に対して深く一礼をした。

「どうぞ、明日からのミステリーツアーもお楽しみください。そして、私どもとともに、最高のツアーの完成に向けてそのお知恵をお貸し下さい」

 私も引っ張られるように、立ち上がり同じように一礼する。

「こ、こちらこそ、よろしくお願いします」

 この落ち着きの差が、人生経験の差なのかなと思う。顔を上げると、野呂さんは、穏やかそうな笑顔を向けてきた。それこそ、どこか達観したような、満足げな笑顔を……。

 私は、野呂さんの、その笑顔に、本当のミステリー愛を感じた気がした。しかし、それ以上、話す言葉もなく、「そろそろ部屋に戻ります」と言って部屋を後にした。

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