完結編 波その2

麻衣にはシャム双生児の友人がいる。

切り離されることなく全身がチューブだらけの体で、いつも向かって右側の女の子がぐったりしているそんな14歳の友達がいる。

琥珀と瑠璃。苗字は知らない。出家した信者には彼女たちのようにテレビアニメのような名前がコスモの千神のひとつ柱、名を司るビヒモス様より与えられるのだから。ありがたや。

琥珀はビニール製の白い羽根を背中にしょって天使をきどっている女の子だ。下半身がつながった(用をどうやって足しているのか、どちらにそういった生理の感覚が訪れるような仕組みになっているかは知りたいところだが)妹の瑠璃には同じく黒い悪魔の羽を背負わせている。白と黒の違いで善悪が決まるような単純な世界だったら誰も悩んだりしないのに、と思う。誰も悩まなければ宗教なんて必要ないのに、とも。琥珀は出家信者のなかでも極端な部類の人間にいたが、なぜだか馬が合った。なぜだろう?

ぐったりしている三つ編みの彼女が瑠璃だ。彼女とはあまり面識がない。仰向きに琥珀にもたれかかって口はいつも少しだけ開いており、耳を近づければ彼女が呪詛の言葉をつぶやいていることがわかった。ときどきひどいせきをしていた。その乾燥してひび割れた唇も焦点の定まらない目も、祖父の死体を連想してしまうので、できるだけ見ないようにしている。狭い廊下ですれ違うときなどは目を瞑ってすれ違う。

サティアンの廊下は狭い。空調が行き届いているとはお世辞にも言えないくせに窓もなく暗い。もう何ヶ月も蛍光灯は切れたままだ。蛍光灯のなかで死んでいる虫たちを見ないですむのはうれしいが、廊下を這いずり回る虫や小動物の類を踏むのもいやだった。地下からはぐわんぐわんという振動音が響いてくる。実家の、もう5年以上ひきこもりを続けている兄の部屋から漏れるパンクの重低音よりひどい。なんて名前のバンドだったっけ? バスストップだかバストトップだか、とにかくそんな名前のB級バンドだった。ここに来る前、手錠教師が例のテロ騒ぎで忘れられた頃に同棲していた男の部屋でかかっていたのはクラッシックやオルゴールばかりだったから当初はこの音のせいで不眠症にもなった。

そうだ、ハルシオンだ。同室の琥珀が何錠かわけてくれたんだった。

「眠れないよね? こんなにうるさいんだもん。睡眠薬わけてあげよっか?」

「……ありがとう」

だから琥珀とはすぐ打ち解けられた。麻衣のベッドはシングルだったが、琥珀たちのベッドはセミダブルだった。彼女たちの体を考えれば当然といえば当然なのだが、なんだかおかしかった。麻衣が教団での生活に慣れて、もう同室ではなくなってしまってからは琥珀がだるそうな瑠璃を連れて麻衣の部屋を訪れることはあっても、麻衣が彼女たちの部屋を訪れることはなかった。最近、しばらくお互い顔をあわせることがなかったが、お互い祭事で忙しいものとばかり思っていたが違っていた。

本当にひさしぶりのことだ。緊張はしたがそのせいではなかった。二度三度深呼吸をしてから、麻衣は琥珀と瑠璃の部屋のガラス張りのドアをノックした。

瑠璃と琥珀は互いに離別を考えなければいけないほど病状は悪化しているらしい。

ぴちゃ。

部屋に入ると教団から支給されたスニーカーが水に濡れた。教団指定の靴には底の厚い、爪先がぼこっと膨らんだものがあるが、それは麻衣や琥珀、瑠璃のような巫女が祭事の際に履きはしても普段から履いているわけではなかった。エアマックスやオールスターの履きつぶれたような靴が教団からは支給される。カンボジアの子供たちを救済するという名目で集めるだけでエアマックスが簡単に手に入ってしまうのだから、一時期の少年たちのハンティングはなんだったんだろうと思う。

麻衣の腕ほどもある太い、色とりどりのチューブが床を這っていた。部屋を間違えたかもしれない。部屋は薄暗かったが、発光する空色のチューブがきれいで手を伸ばした。

「チューブのなかをよく見てみな。ぼこぼこいってるだろ? その中の液体、沸騰してるんだ。火傷したくなかったら触らない方がいいぞ」

サマナ服の技師の男がそう言ったのでやめた。あちぃあちぃ、こんな気持ちの悪い女を生き長らえさせるためにこんなばかでかいコンピュータ作らせやがって、ディファレントエンジンはやりすぎだろ、どこにそんな金があるんだ、脱税とかしてんじゃねーだろなぁ、あ、宗教法人は税金払わなくてもよかったんだっけ、空調の設備も悪いし床を水浸しにしても冷めやがらねぇ、長くはもたねぇなぁ、この機械もあの女も。技師の男のサマナ服は汗で黄ばんでいた。

「随分な言い方だね。琥珀も瑠璃もあたしの友達なのに」

技師ははっとして振り返り、首にかけていたけろけろけろっぴのタオルで汗を拭うと、あ、あのすみません、失言でした、技師の者と勘違いしてました、すみません、麻衣さん、そう言って気をつけをした。十数秒前までの発言を上に報告すればこの技師はガス室送りだ。笑い死ねばいいと思う。「お見舞いですか? 琥珀さんと瑠璃さんならこの奥です。無菌室になっておりますので。あちらの医療チームの指示に従ってください」

外の世界にいたころはずっと弱者だった。だから今、技師の畏怖の対象になっているということがすごく不思議で気持ちいい。あたしがあんたと何も変わらない、ただの人間なんだよって教えてあげたらこの技師は一体どんな顔をするんだろう。眼帯で隠した右目がつぶれてなどいないということを知ったら、どんなリアクションをとるんだろう。

身体の一部に欠損を持って生まれること、あるいは人より多くのものをもって生まれてくること、人とは違った生まれ方をすること。それが誰より何より神に近い、選ばれ導かれし使徒なのだ、と経典には書かれている。つぶれた左目にめやにをためている教祖である養父も戦場カメラマンだった両親がベトナムで枯葉剤を浴びシャム双生児として生まれた琥珀も瑠璃も、6本指のDNAをもつ女の子たちも、母親の産道を通らず帝王切開によって生み落とされた男の子たちも皆、千のコスモの会では使徒だ。

麻衣が右目に眼帯をしているのはそういった理由だ。誘拐された過去があるというだけで、それはおまえが神に選ばれ導かれた存在だからだよと養父は言ったが、経験上の資格は身体的な資格とは違い見ただけではわからない。眼帯という小道具も必要だと思った。それに薬局で買えるような眼帯だったけれど、気に入っていたから。

プリントされた千のコスモの会のシンボルマーク。

麻衣は雨の日の学校帰りのように水浸しの床を跳ね上げながら部屋の奥へ歩いた。

チューブが増えたなと思った。まるであやつり人形みたいだ。

はい、このチューブを引くと琥珀ちゃんの右腕が上がります。このチューブでは瑠璃ちゃんの左腕、ではこのチューブではどうかなぁ? おおっと見えますか見えますか? 瑠璃ちゃんの顔がひきつってるのが見えますか見えますか? 見えませんか? だったらほらもっとそばによってよく見ていてくださいよぉ~、え? なになに? 最初から瑠璃ちゃんの顔はひきつってたって? こりゃまた失礼しましたぁ。

「何笑ってるの? 友達が生きるか死ぬかってときに」

ベッドに横たわった琥珀が頬を膨らませている。麻衣は笑っていたらしかった。

彼女たちの部屋の奥に麻衣の知らない部屋ができていた。それがこの病室だ。ライトグリーンの壁や天井と十分すぎる広さ、緊急のオペなどが行えるように作られた集中治療室といったところだろう。しばらく使用されていなかった個室をいくつか、壁を破ってつなげた部屋なのだと琥珀が教えてくれた。

「白衣似合うじゃん。黒縁めがねなんかも似合うかもね」

医師たちに白衣を着せられた後で、鏡に映してみたが自分でもイケてると思った。医療チームの医師たちは白衣ではなくライトグリーンを着る。手術室の壁や医者の白衣の色が変わったのは大学病院だけではない。用済みになった白衣は洗濯され殺菌され、麻衣のような面会人が着るようになっていた。

「白衣に黒縁なら、誘拐されてネットアイドルしてたときに1回やったよ」

「え? なにそれ? コスプレサイトだったわけ?」

笑って首を振った。違うよ、フツーフツー。

「せっかく誘拐されてるんだから誘拐されてる間日記でもつけてろって、棗さんが。写真もいっぱい撮ってくれたけど。あ、棗さんっていうのはね、あたしを誘拐した人」

知ってる、と琥珀は短く答えて、隣の瑠璃の顔を見る。眠っていた。まつげに涙をためている。どんな夢をみているんだろう。ふたりはすごく仲がいいからシーツのなかで手をつないでいるかもしれない。麻衣は手をつないで寝てくれる友達も恋人も兄弟もここにはいないということに気づいた。「テレビで観たから、ニュース。パパと瑠璃とるみ男くんとるみ子ちゃんの5人で」

麻衣を誘拐し、監禁した棗弘幸という中学校教師はまだ逮捕されていない。彼とは北海道の枝幸で別れた。彼は逮捕される気はないと言った。それからいつかかならず迎えに行くからと言って、名刺を麻衣に渡した。さくら色の赤紙のような名刺だった。

「宗教法人千のコスモの会 教祖且つ代表 今田勇」

この人が麻衣の面倒を見てくれるから。ぼくが帰ってくるまでちゃんとここで待ってるんだよ。

まるでこどもに話すような口調だった。誘拐はされたけど、ずっと恋人のつもりだったから少し泣いた。

北海道警で取り調べを受けたあと、一度実家に帰ったが結局すぐにここに来てしまった。ここで棗弘幸の帰りを待とうというのではなかった。ただ単に退屈で平凡な日常に耐えられなくなってしまっただけの話。それにきっと彼も彼女が待ってくれているとは思っていない。

「会いたい? 棗さんに」

「別に。琥珀がいるから。瑠璃ちゃんもいるしさびしくないよ」

「……瑠璃と仲良くしてあげてね」

琥珀は瑠璃の髪を指ですきながらそう言った。さびしそうに。

この子、いつも具合悪そうにしていたでしょ? 全部ね、あたしのせいなの。麻衣ちゃんはおでこと、目と、鼻と、口と……チャクラを12個持ってて、それをひとりで使ってるでしょ? だけどあたしたちは違う。上半身のチャクラはあたしも瑠璃も同じ数ずつ持ってる。でも下半身のチャクラは一人分しかないの。おへそも両脚もそれに女の子の大事なところも……ふたりでひとつのチャクラを共有してるんだ。あたしの方がうまくチャクラを使えるみたいだから、この子、だからいつも具合悪そうにしてたの。先生たちはヴァジュラヤーナの教えに従ってあたしたちを切り離そうとはしないんだ。あたしたちを切り離すことは意図的に使徒を作り出すという悪行にあたるから。たとえあたしたちがもう使徒だったとしても。あたしたちの神格を上げてしまうようなことは絶対にしない。でもあたしは切り離されようと思ってるんだ。教えにそむくことになるのかもしれないけど、でもいい。

琥珀は神棚に祭られたマリヤ観音のような聖母の微笑みを浮かべている。煮沸消毒されたドライフラワーのひまわりが花瓶にさしてあるだけの色さえも失ったただ白いだけのこの世界で、琥珀だけに色がついている。何色かはわからない。太陽の光と同じ色かもしれないし、違うかもしれない。虹色なのかもしれない。サーモグラフィーの暖かい緑色かもしれない。あたしの知るどんな色とも違うかもしれないとも麻衣は思った。

だけど違うと思う。それは間違っていると思う。

「死ぬの?」

せっかくお友達になれたのに。このままじゃ琥珀も瑠璃ちゃんが死んじゃうのはわかるよ。見ればわかるよ。そんなにいっぱい体にチューブがささってるもん。だから体を瑠璃ちゃんにあげたいっていう琥珀の気持ちはわかる。でも義足だってあるじゃない。車椅子で暮らすこともできるじゃない。ココもヒロフミもトモヤも友達はみんな死んじゃって、お兄ちゃんはもう麻衣には心を開いてくれない。また部屋に閉じこもって出てきてくれない。電話したって出てくれない。ナツメさんもどこにいるのかわからない。やっとできた友達だったんだよ? 琥珀以外の人はみんなあたしを恐れてる。あたしは、神に選ばれた導かれるべきこどもなんだって、みんな信じて疑わない。誘拐されたことがあるっていうだけ、右目だってつぶれたりなんかしてない。あたしの体はどこも欠けたりしてないの。でもみんなあたしをこわがって琥珀みたいにいっしょに笑ってくれたりしないんだ。麻衣は教団のシンボルマークがプリントされた右目の眼帯をめくってみせる。

「知ってたよ、麻衣が本当は右目が見えること。だってうまれたときから片目しか見えてなかったら、片目だけでも距離感つかめるもの。麻衣ちゃん今は平気だけど、ここに来たばかりのときはすぐそこの花瓶だってうまくつかめなかったもんね。麻衣ちゃんの気持ちはうれしいよ。でも瑠璃と離れてまで生きたいとはどうしても思えないんだ。あたしたちはふたりでひとりだから。でも瑠璃には生きていてほしい。友達になってあげてね」

琥珀は壁にかけてあったビニールの天使の羽根に手を伸ばした。

「あげる」

先生、あたしを瑠璃から切り離してください。


第13サティアンは吹き抜けの作りになっている。人柱合唱団という名前がつけられた支柱が吹き抜けに建てられている。苦行の際中や難病で死んだ出家信者の血抜きした死体をセメントで柱に塗り固めて奉っている。

人柱になった信者たちにはそれぞれもう一度ビヒモス神から2階級上位の神格の法名を授かることができるから信者たちは喜んで人柱になろうとする。

琥珀と瑠璃もまた人柱に塗り固められた。麻衣が白衣を着て面会した日の翌朝、ふたりは死んだ。

医師たちは結局、琥珀の意思を尊重せずふたりを切り離すことをしなかった。

――瑠琥璃珀二神柱、此処に一度眠り、再び神の国にて真の生を得る。

「るこりはく? 難しくて読めないや、ふたりの名前」

麻衣の背中に白い羽が生えていた。

ビニール製の。

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