第302話 悲しみ

「……前野」


 俺はただ間抜けにそういうことしかできなかった。前野は少しずつこちらに近付いてくる。


 その目つきは……明らかに俺を責めているそれだった。俺がそう感じてしまっているだけなのかもしれないが……どう見てもそう見えてしまうのだった。


「……遅かったね」


 冷たい口調で、前野はそう言う。


「……悪かった」


「謝ることないよ。後田君は悪くないと思うし」


 少し間を置いてから、俺は意を決することにした。


 ……いつから、外川との話を聞いていたのか、だ。明らかにあの会話、聞く方はどう考えても勘違いする。


 というより、外川のそんな罠に簡単にハマってしまったのがなんとも情けない。


 前野は黙ったままで俺に視線を合わせてくれない。俺は……耐えられなかった。


「……あのさ、前野」


 妙に大きな声になってしまった。前野は俺の方を見る。そして、悲しそうな視線をする。


「……名前」


「……え?」


「名前で……呼んでくれなくなっちゃったね」


「……あ、いや、それは……」


「外川さんは……後田君のこと、名前で呼んでたよね?」


 前野が鋭い目つきで俺のことを見る。俺はなんとか冷静さを取り戻そうとしていた。


「……違う! アイツが勝手に……!」


「でも、許しちゃったんだ。後田君は。私以外が、アナタのことを名前で呼ぶことを」


 いつも通りの無表情だったが、ようやく俺にもわかった。


 前野は……めちゃくちゃ怒っているのだ、と。そして、俺と外川の会話を大体聞いていたのだ、と。


「……ごめん」


「……いいよ。別に。私が悲しいだけだから」


 そう言って前野は俺に背を向ける。あまりにも強烈な最後の言葉に俺は何も言えなくなってしまった。


「……前野」


 そのまま行ってしまう前野の背中に声をかける。しかし……前野は振り返ってくれなかった。


 ようやく、自分があまりにも愚かだったことに気付くのだった。

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