幽子ゆらぎ・前

『お前なんていてもいなくても一緒だっての』


 そんなことを言われるのはいつものことで、それでも学校に通い続けて、日々心をすり減らして。


 わたくし稲井には友達がいません。なのでどれだけ酷いことを言われ、酷い仕打ちに遭っても誰も味方してくれませんでした。

 結果ついた呼び名が「どこにもいない稲井」「霞ほども存在感ないヤツ」――あ、下の名前が香澄なので、そんな呼び方もされました。自分の性格だけじゃなく、名前まで嫌いになりました。


『早く消えろよ。目障りなんだよね』

『学校来てんじゃねぇよ。邪魔』


 ……こんなことを言われるのが日常となっていて、既に限界でした。


 そんなある日、思い出したくもないほど嫌なことを言われ思わず逃げ出し、屋上に避難していた時。

 学校の屋上は開いていたり閉まっていたり。たばこのにおいがするので、先生の誰かがこっそりと利用しているんでしょう。このことを知っているのは、多分稲井だけです。


 今日は入れてよかったです。ここ以外に稲井が居ていい場所はないから。


「辛い……なんで稲井ばっかり……」


 ――苦しさが目からこぼれないよう空を見上げた。

 ――澄んだ蒼が広がっていて、どこまでも続いているように思える。


 たとえ空が綺麗でも、稲井の心は負で染まって真っ黒です。辛い、苦しい。消えていなくなりたい……そして……。


「憎い……でも稲井はなんにもできないから、仕返しなんてとてもできない」


 フェンスに寄りかかりながら、黒いものを振り払うために楽しい記憶を思い出す。といっても、とてもおぼろげで、本当に楽しかったかすら分からなくなってしまいましたが。


 ついに涙がぽろぽろと零れ、何度も何度も拭う。それでも止まってくれなくて、だんだん何も考えられなくなって――……




 気が付いたら私は、空き教室で寝ていました。




【一過性怪異奇譚 幽子ゆらぎ】




 最初に感じたのは冷たい感触。ただのっぺりとした、床の冷たさ。触れていて気持ち悪くなる。


「ん……うぅ、ここは……?」


 身体を起こし周りを見渡す。どこかの教室にいるみたいで、棚には綺麗に本が整えて並べられていて、机や椅子もきちんと整頓されている。

 利用されている痕跡はあるみたいですが、ところどころに誇りが目立ち、それほど頻繁に使われているようではないみたい。部室、ではなくて、空き教室を小会議室のようにして使っているのでしょう。


 そこで稲井は思いました。ここを新しい避難所にしようと。


 さっきまで屋上にいた気がするのですが、何かがあって別の場所に無我夢中で逃げてきたのでしょう。稲井はとても臆病なことを自覚しています、おそらく下の階から聞こえてくる悪口から逃げたい一心だったのでしょう。……自分で言ってて悲しくなりますね。


 それはさておき、そんな状態でも入れたのですから、ここは鍵がかかっていないということなります。避難場所にはもってこいです。しかも屋上よりはリスクが低い。


「稲井だけの秘密基地です。時々使わせていただきましょう」


 正直何が起きたかほとんど理解できていないのですが、現実なんて見たいものだけ見ればいいんです。稲井は独りで落ち着ける場所が欲しかったのですから、これでいいんです。他には何も、考えたくはない。



 ――かくして、稲井はこっそりとこの空き教室(?)を利用することになりました。



 以降も気が付いたら教室に居て、その度に床に寝転んでいました。おまけに記憶が飛び飛びです、よっぽど嫌なことがあったんでしょう、自分で自分に同情しそうです。


 何度も調べるうちに、ここがどういう教室か分かりました。

 どうやら『読書研究部』なる部室らしいのです。だから本がたくさんあるのですね。ライトノベルの文庫本から参考書まで幅広く、付箋が貼られているあたり部員の私物のようです。棚を軽く一つ埋めるほどの量……とても本が好きなのでしょうね。

 しかしほこりをかぶっている本もそこそこ。部員といえどそこまで来ていないのでしょう、実質的な帰宅部と見ていいでしょう。


 というわけで、本がかわいそうなので部室にいる間は勝手にお借りして読むこともしばしば。最近は変わった名前の作家さんがいるのですね、興味深いです。


 いまやこの空間の虜で、時間を忘れて読みふけってしまいます。放課後を知らせるチャイムに気付かないことも時々あり、外の夕焼けが目に染みて初めて教室を飛び出ることが増えてきました。


 そうしてまた教室に戻り、また読みふけって……の繰り返し。

 稲井以外誰も干渉しない、稲井だけのとっておきの場所。


 ……でした。あの人が訪ねてくるまでは。


 ――それはまさに、運命の出会いでした。




 定番になってきた、床での目覚め。今日は少し頭が痛みます、頭を叩かれんでしょうか、何も覚えてないので分かりません。この日も床が冷たいなぁとしか感じません。


 ですが、目覚めた時の状況がいつもと違いました。

 稲井以外の声が聞こえてきたのです。


「――ホンットに無理ぃ~……一人って楽……でもやっぱり――」


 なにやら悩んでおられるご様子。稲井が床に寝ているのにも気づかなかったあたり、相当なもののようです。


 しかし困りました。稲井はどのタイミングで顔を出せばよいのでしょうか。

 お忙しいところ恐縮ですがと言うべきか、それとも普通にこんにちはするべきか。


 ……悩んでいるのであれば助けになりたい気持ちも、なくはなくなく……でも考え事してる最中にお声がけするというのはどうにも……うーん……。


 よし。


「あ、あのー」

「ちょっと待ってください、今考え事してて」

「アッ、ハイ、分かりましたおとなしく待ってます」


 やっぱり駄目でした。稲井はバカですね、ここは黙っているべきだったようです。


 ひとまず言われた通り待つことにしようと再び床に寝ようとした時、「待って今の誰?」と声がしました。これは……おそらく呼んでますね、反応しないと叩かれるやつです、多分。


 お相手を刺激しないようにそーっと机の下から顔を出しました。

 椅子には髪が長い女の子が姿勢正しく座り、鋭い眼光でこちらを睨んでいます。そりゃそうですよね、怒ってますよね。えっと、あ、謝らないと。


「ご、ごめんなさい。空き教室だからいいかなって、ね、寝てました」

「床で? あなたアホなの? っていうか本当に誰?」


 圧が、圧がすごいです。かなり不機嫌なようですね、どう考えても稲井のせいです。


 これは腹を着る覚悟で名乗ったほうがいいですね、経験上そんな感じがします。


「えっと……い、一年、の、稲井香澄です。よ、よろしく……えへへ」


 あっ、間違って愛想笑いをしてしまった。死んだかもしれません。


 かなり死んだと思ったのですが、お相手さんは腕を振り上げることはせずに。


「はぁ……あっ、私は園崎瑠璃。一年生同士、よろしく」


 と名乗り返してくれた上に、すらっとした手を差し出してきました。手の形的に、握手を求めているような……?


「ねぇ、稲井って呼んでもいい?」


 園崎さんはさきほどの雰囲気とは違う、様子を窺うような柔らかい感じに変わっていました。

 こんなことは初めてです。稲井に手を差し伸べてくれて、稲井に歩み寄ろうとしてくれたことは。


 稲井にはこの申し出を断る理由はありません。でもちょっと現実が受け止められなくて、若干卑屈になりながら握手を交わします。


「いやもうお好きなように……稲井は別になんだっていいです、園崎さん」


 ――握手した瞬間、とても暖かくて安心できる人だなぁ、と感じました。

 安心した途端顔が緩んでしまい、変に思われないよう笑ってごまかす。すると園崎さんもクールに笑って対応してくれました。なんてお優しい人なんでしょう。死んだとか思ってしまいすいませんでした。


 でも顔はちょっと怖いです。終始むすっとした感じはいただけない……。


「で、稲井」


 すいませんまたあなたを貶めるようなことを言ってしまい申し訳ありませんもうしないので許して――

 と謝ろうとしたのですが、頭が真っ白だったので反射的に返事してしまいます。


「はいっ、なんでしょう」

「なんで話しかけてきたの?」

「そ、それは……」

「それは?」


 ……ええと。これは、なんて返しましょうか。

 手助けしたかった、というのはあります。ですが多分、それ以上に思うこともあったのかも。でなければ不肖稲井、自分から声を上げるなどしないのです。自他共に認める臆病ものなので、ええ。


 とすると、考えれることは一つです。きっと、答えはこれです。稲井は思ったままを園崎さんに伝えます。


「ぇぇっと……な、なにか悩んでる様子でしたので、手助けできたらと。あと、ずっと独りで寂しかったので、ぉ、お友達になりたく……」

「ハァ?」

「い、いやなんでもねーですよ……えへへ……」


 ハァ? ですって。脈無しです、稲井は死にました。笑ってごまかす定番技でお茶を濁してその場を凌ぎます。


 ――これが稲井と園崎さんの出会いの思い出です。あまりいい印象は持ってもらえなかったかもしれませんが、意外なことに、ここからぐっとお近付きになれるのです。


 この辺りのお話は、またおいおい。ただ一つ言えることとしては。


 園崎さんは今まで出会った人の中で、一番やさしいひとでありました。この稲井が、すぐに心を開いたくらいなので、間違いないです。たとえ誰が何と言おうと、園崎さんは、やさしいひと、なのです。


 寂しいだけの教室に、柔らかな色が追加された日でございました。

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