幽子ゆらぎ・後
園崎さんと出会ってから、稲井の日々は大きく変わりました。
冷たく、つまらないだけの学校生活でしたが、園崎さんといるだけで楽しい気分になれるのです。
「稲井、一つ聞きたいんだけど」
「は、はい。なんでございましょう」
「なんでいつも床から出てくるの? モグラみたいでちょっと嫌なんだけど……冷えない? 大丈夫なの?」
「大丈夫です、心配はいりませんよ。むしろひんやりとした感じがよかったり」
「そ、そう。ならいいか……本当に大丈夫かな……」
時々ぐさりと来ることを言いますが、稲井を攻撃するための言葉ではありませんし、すぐフォローの一言を入れてくれます。口が悪くなることはあれど、とても優しい人です。
お話している時でも結構気遣ってくれて……稲井が近くにいていいか不安になる時があります。
ということを先日園崎さんに直接ご相談したのですが。
『全然いいけど。むしろダメな理由が分からない』
と言っていただけて、そのうえ。
『稲井は稲井でしょ。何も気にすることないじゃない。とっ、友達、でしょ』
とまで言っていただけまして。恐縮ですが、光栄です。
そして決めました、稲井は……私は、園崎さんに恩返しをすると。
園崎さんにこれを伝えても何もしていないと言うでしょう。だから、彼女が本当に困っている時に手を貸してあげたいのです。そう考えるのは、少々傲慢でしょうか。
「稲井、どうしたの、ぼーっとして」
「……へっ? え、いや、その」
「まあ仕方ないか。半日以上みっちり勉強してれば疲れるもん。こんなとこでよかったら、いつでも休憩所に使っていいから。どうせ私ら以外来ないし」
「お、お気遣いありがとうございます。いつもいつも勝手に使っててすいません」
「いいの。稲井は大人しいし、同じ空間に居て安心するし。……ごめん、今のなし。とにかく、気にすんなってこと。はい、この話終わり」
園崎さんはばーっと言葉を並べたのち、手元にあった本に目を落としせわしなくノートにペンを走らせます。あまり好ましい行為ではないのですが、彼女に気付かれないように顔を覗いてみると、真っ赤になりながら口を一文字に閉じていました。
何と言いましょう。園崎さんは不器用なのでしょうか。本音を言うのに一拍置いてるような。相手の出方を窺っているような感じがあります。
――先日園崎さんは幼馴染がいると話してくれたことがありました。幼稚園の頃からご一緒だとか。このような話し方は幼馴染さんの影響なんでしょうか。うーむ、稲井には分かりません。いや、考えても仕方ないことですね。
「それでは、園崎さんのお話を聞かせてください。もっと知りたいです、園崎さんのこと」
「……稲井さ、しれっと恥ずかしいこと言ってる自覚ある?」
「はぁ、全くありませんが。えっと、何か言いました?」
「いやいい、自覚無しかたちの悪い……まあいいけど。それじゃあ――」
――この日は彼女の身の回りで起きる不思議な話の数々を聞きました。なんでも奇妙な儀式遊びが流行ったり、行方不明者が二人ほど出たりとかで……世の中怖いことで溢れてますね。
気付けば夕暮れで、窓から差す陽がとても目にしみます。じんわりとした刺激でまぶたが開かなくなるんですよね、率直に言って痛いです。
「もうこんな時間か……帰らないとね」
「そうですね、チャイムも鳴ってますし」
同時に立ち上がり、ぐぐっとのびをしてあくびをもらす。座りっぱなしだと背中が固まるような感覚になりますね、思わずうーんとのびをしてしまいます。
しかし、私はまだ、帰るつもりはありません。
「園崎さん、お先にどうぞ。稲井は、その……少々やることが残っているので」
「そう? 分かった、部室の鍵は任せるね。あまり遅くならないうちに帰るんだよ」
「分かりました。心配していただき、ありがとうございます」
「べ、別にそんなんじゃ……なんかあったら私に責任あるから言ってるだけだし。もう帰る、じゃあね」
顔を隠すようにうつむきながら園崎さんは教室を出て行きました。私はその背中を見送るだけで教室に留まります。
――帰るつもりはない。というのもそうですが、私はここから『出られない』のです。
ここ数日で分かったことです。私はこの教室で目覚め園崎さんと会うわけですが、どういうわけか教室に来るまでのことを思い出せないんです。がっちりと鍵をかけられているかのような感じで。
その上ここを出るとフッと意識が飛んで、また教室の床で目覚める。ちゃっかり日は跨いでいて、記憶は例の如く飛んでいる。
「出たが最後、またここに戻ってくる。それまでに探っておかないとですね」
園崎さんのことを言えないくらい、今不思議な状況に直面している。ならばやれることをやらないとです。
教室内は以前見たので、さっと見る程度に。たくさんの本と、ちょっとほこりのかぶった棚たち。床にはそれらとは別の棚の跡や擦れた傷があり、元々物置のように使われていたことがうかがえます。この辺はいいとして、問題は『外』です。
「私、この先の光景見たことないんですよね」
ドアの前に立ち、小さな窓から廊下を眺める。
学校の廊下なんて似たようなものばかりですが、必ずどこか違うというもの。私の学校のは壁一面に新聞やら成績順位などが張り出されている、お世辞にも綺麗とは言えないもの。
ですが、今私が見ている廊下は、非常に整っています。壁のボードには最低限のお知らせのみでごちゃついておらず、床のみならず窓のふちまで磨かれています。
間取りこそ同じなのですが、明らかに知っている光景とは違いすぎて頭が混乱しています。続けて窓から校庭を見下ろし、若干違うのが分かって首をかしげることしかできません。
「私、一体どこの学校にいるんでしょうか。そして今日は何月何日なんでしょう」
しばらくはここから出ていないせいで、何日なのかすらも分かりません。
疑問を抱いたまま教室を出ても、次の瞬間にはきっとまた床で寝てるに違いありません。
「結局何も分からないまま……い、稲井はちゃんと帰れるのでしょうか」
……隔絶されたこの空間から抜け出せないとしても、稲井のやるべきことは決まっています。稲井はそれをやらねばならない。
だったら。
「……っ。い、行きましょう。明日が、『明日』が待っているんですから」
意を決し、私はドアを開け、廊下に一歩踏み出し――
――また、床で目が覚めるのです。
この冷たい感触は何度目か。そして。
「おはよう、稲井。今日の寝心地は?」
園崎さんの声で意識を取り戻します。
「お、おかえりなさい、園崎さん。きっ、今日は何を話しましょうか」
すぐに身体を起こし、入り口に立って私を見降ろす園崎さんを迎えます。この光景、やり取りになれてきたのか「ふふっ」と可笑しそうに笑ってくれます。
「さあ、何にしましょう。稲井は何を聞きたい?」
「えぇ!? えっと、えっと……じゃあ――」
こういう穏やかな時間こそが、私が望んでいたもの。いつまでも続けばいいのにと思いながら……変化を受け入れてしまうのです。
――園崎さんの笑顔の話、私たちの年齢の話(稲井は小学生に見られていたようです)など、会話が二転三転し、一瞬時間が空いた時。
(園崎さんの様子を見る限り、心に引っ掛かっていることがあるようですね。人の様子を窺う癖がちょっとは役に立ちそうです……今が、手をお貸しする時です)
思い切って私は「あの」と声を上げました。私からお声掛けすることはあまりないので、園崎さんは驚いているようでした。その様子には触れず言葉を続けます。
「園崎さん、覚えていますか? 稲井と、初めて会った、時の」
「……え? ああ、うん。急に机の下から出てきたのよね。寝てた、って言って」
「う、それは忘れて……ではなく、その……”お悩み”は解決したのですか?」
私は憶えています。彼女が何かについて強く思い悩んでいたことを。切り札的にこれを話題として切り出してみたのですが……結論から言うと思っていた以上に深刻なものだったようです。
しばしの問答ののち園崎さんが。
「その、ね。とっ、友達の話……なんだけど――」
と、悩んでいたことを私に話してくれました。友達、と前置きしてますが、おおよそ園崎さん自身のことでしょう。ですが私はそこまで野暮ではないので、触れることはしません。
内容は、以前教えてくれた幼馴染さんと喧嘩したこと、以来ずっとお話できず仲直りできないとのこと。他に何かを隠しているようですが、本人が口にしない以上触れるべきことではありません。
そこで始めて、強く完璧に思えた園崎さんも、私と同じ弱いところがあると知りました。私と違う点は、自分のダメなところを自覚し、なお問題に立ち向かおうとしていること。その真摯な思いに、私は心を打たれました。
「――ってな具合。どうにもならなくて、困ってる」
「……大変だったのですね。おひとりで、辛かったでしょうね」
――そこからはよく覚えていません。ただ思ったことを園崎さんに伝え、ほんの少しでも彼女のためになるようにと無我夢中で。どれくらい必死だったかというと、園崎さんの手を取ったことに気付かないくらいには頭が真っ白でした。
ですが私は、正面切って頑張れとは言えませんでした。頑張る、という言葉は人によっては重く鋭く突き刺さるもので、そうやすやすとは言ってはいけないものです。
でも、その一言で救われる場合もあるわけで……そう考えると、一言も言えない稲井はヘタレですね。友達の応援すらまともにできないなんて……。
自責の念が嵐のように吹きすさんでいたのですが、園崎さんは。
「ありがとう、稲井。聞いてくれて。すごい楽になった」
そう言ってくれたのです。ほとんどお役に立てていない私に、ありがとうと。
「いいえ、稲井はただ聞いていただけですので。答えを出したのは園崎さん自身ですよ」
「でも、きっかけは稲井だから。本当にありがとうね」
「そ、そうでございます? えへへ……でしたら、どういたしまして」
……感謝されて、悪い気分にはなるわけありません。自分ではダメと思っても相手がそう言ってくれるなら、素直に”どういたしまして”と返しましょう。
色々ありましたが、園崎さんは来た時以上に晴れやかなお顔をしていました。
――夕暮れが教室内を照らす。それは私たちのお別れの合図。
しばしの静寂が流れたのち、ふと手が暖かくなっていることに気付く。見ると、園崎さんが私の手を優しく握ってくれていました。あまりに突然のことで身体が跳ねてしまいましたが、きっと彼女なりの想いの伝え方なのでしょう、そうしてくれただけでも、稲井はとても嬉しいのです。握り返して、私からも感謝を伝えます。伝わっていると、いいなぁ。
ですが、とにかく時間が時間ですので、長い間堪能することはできないわけで。
「それじゃあ、私は帰るね。今日も残るの?」
お互い学生ゆえ、放課後は長くいられない。
「は――」
いつも通りお断りするつもり……でしたが、この時の私は強気になっていました。
園崎さんと一緒なら、この教室を抜けられるかもしれない。漠然とですがそう感じていたのです。なので。
「……いえ、今日は園崎さんと一緒に行きます。よ、よろしいでしょうか」
「全然いいよ。行こっか」
「はい……!」
提案、というほどのことでもなかったのですが、園崎さんは快く快諾してくれました。彼女にとっては普通のことかもしれませんね、誰かと一緒に変えるということは。
非常に惜しいのですが繋いだ手を一旦離し、教室のドアを開けて一歩――
――廊下へと踏み出すことができた。
(で、出られた……!? 稲井はやっと外に出られたのですね!)
はやる気持ちをぐっとこらえ、園崎さんの方に向き直ります。
「かえりましょう。お互いに」
「そうね。気をつけてね」
「園崎さんも――では」
そのまま足並み揃えて校門を抜け、左右に別れて歩き出す。
少し歩いてから私は立ち止まり、振り返りました。
道の向こうには園崎さんがゆっくりと歩いています。心なしか足取りが軽いように見えます、肩の荷も下りて楽になれたのでしょう。お役に立てて、稲井は光栄です。
そして、今まで私を縛り付けていた学校を見る。
外観は私の通っていた学校そのもの。中が多少違っていたのは、おそらく……。
――その時、私の頭に『何か』が大量に流れ込んできました。透明な風が通り抜けて、すり抜ける瞬間に『それ』を置いていくかのような。
一瞬だけ強烈な痛みがあって、思考がクリアになった私。そこで、全てを理解しました。
「稲井には、やるべきことがありましたね。こんなところに居る場合ではありませんでした」
やっと、やっと目覚める時がきたようです。
稲井の時間は、『あの瞬間』からずっと止まっている。あの瞬間に起きたことから、ずっと逃げて……だからあの教室に逃げ込んで。
でも、もう終わりです。今なら一人でも大丈夫です。園崎さんから思い出をもらいましたから。
「さようなら、園崎さん。いつの日か、どこかで会いましょう」
小さくなる彼女の背中に挨拶を送り、深く、深く目を閉じて――……。
――もしかしたら一生目を開けられないのでは。なんて恐怖を抱きつつ、おそるおそる目を開けてみると……。
――息苦しさと、ひんやりとした柔らかい感触に包まれて。
目に飛び込んできたのは、真っ白い天井と、私を覆い隠すカーテン。それと。
「――……み……すみ! 目が覚めたの!? 先生、先生来てください! 香澄が!」
「…………お、ねえ、ちゃ……わ、わたし……」
「どんだけ待たせたと思ってんの……よかった、本当に……!
私は訳が分からないままなすがままにし、検査をたくさん受けました。
落ち着いた頃にお姉ちゃんに事情を聞いたのですが、私はどうやら学校の屋上から落ちて重症を負ったらしく、今の今まで眠っていたとのことです。
どうして落ちたのかは、全く覚えていません。多分私を疎ましく思っていた人たちが何かしたのか、それか単に事故で落ちたのか……まあ、起きてしまったことはもういいです。気にするだけ時間の無駄です。
一番びっくりしたのは、私が三年ほど眠っていたことです。三年、私の中学校生活は丸々終わってしまいました。
――であるなら、私がいたあの教室や、園崎さんとの交流は一体、何だったのでしょうか。
一人考え事にふけって窓の外を見ていると、お姉ちゃんが「そういえばね」と話してくれました。
「この間、香澄と同じ学校の子がお見舞いに来てたよ。同級生ってよりは、後輩って感じ? 小学校の頃の友達なの?」
「後輩? いな……私にはと、友達なんて全然いませんでしたが」
言ってて悲しくなりますね。でも事実ですし、うぅ……。
しかし、お見舞い、ですか。来てくれる人に心当たりは全くありません。後輩ともなれば余計に。三年前となるとまだ一年生だったので、後輩そのものがいるわけないんですよね。
「えっと、お名前は何というのですか? お姉ちゃんのことですから、ちゃんと聞いてるかと」
「おう、ばっちり聞いといた。確か――」
――コンコン。
お姉ちゃんが話そうとした時、病室内に小さくノック音が響きました。すぐさまお姉ちゃんが「出てくるね」と向かっていき、まもなく控えめな笑い声が聞こえてきました。
「言ってたら来たよ。直接話すといいよ、お姉ちゃんは外出てるから――あとはよろしくね」
なんだか含みのある言い方でしたが……誰でしょう。
気になって振り返ってみる――と、そこにいたのは、とても意外な人でした。
「あ、あなたは……!」
驚きのあまり、思わず涙がこぼれてしまいました。だってその人は。
「やっとちゃんと顔合わせられた。初めまして……それとも、久しぶり、かな」
「どちらでもいいです……会いたかったです――園崎さん!」
三年振り――私の感覚では数日程度ですが――の再会。
私にできた、大事な友人。どうやって私を見つけたのかなんて、今は些細なことです。
この瞬間は……ただ、再会を祝うだけです。まさに奇跡の再会です。
涙をぬぐって、とびっきりの笑顔を見せて。
「さあ園崎さん、今日は何をお話しましょうか……!」
新しい思い出を作りましょう。三年の空白をものともしない、一生ものの思い出を。
「じゃあとりあえず、幼馴染と仲直りした話でも」
「あ、気になっていたんですよ。どうなったんですか?」
「それなんだけど、せっかくだからと思って連れてきたよ――入ってきて」
「――あ、っと。初めまして、稲井さん。あなたのことは瑠璃ちゃんから聞いてました」
「いな……私のことですか。大して面白くないお話ですけどね。して、あなたは?」
「はい。私は蘭――浦波蘭です。よろしくお願いします」
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