鏡写しドッペルゲンガー
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ドッペルゲンガー。
めっちゃよく聞く……ほどじゃないにしても、中々有名な話だろう。もう一人の自分が世界のどこかにいて、会うと死んでしまうとか、人生乗っ取られるとかなんとか。後半は適当だけど、どっかで聞いた気がする。
もう一人の自分なんて到底ありえない。双子とか三つ子とかで顔も趣味嗜好も似ることはある、でも全く同じにはならない。自分は自分、一人しかいないんだから。
……でも、それは今いるこの世界に限れば、の話。
確実に自分の複製たる人間が存在する世界がある。そこを一つの世界と認めていいかはあやしいけど、話の引き合いに出す分には問題ない。
『それ』は各家庭に――いや、間違いなく世界中に存在している。誰でも必ず『それ』と向き合い、自分自身を見つめることになる。
まどろっこしいな。本題を切り出そう。
――鏡の中なら、ほら、もう一人の自分がいるじゃないか。
もし、鏡に映る理想の自分と入れ替われたら?
もし、鏡に映る理想の世界に行けたなら?
そんな妄想が、現実になるとは思わなかった。
今回はそういう……私こと、三波真希が中学時代に体感したお話だ。どうか聞いてほしい。
【一過性怪異奇譚 鏡写しドッペルゲンガー】
「おいおいおーいミユちゃんよー」
「……ん? えっと、なに?」
「いやいや、ぼーっとしすぎでしょ」
二限目の授業が終わったあとの準備時間。ぼけーっと外を眺める友達に絡みに行く。
心ここにあらずな、友達のミユ。最近はずっとこんな調子で、見てるだけでこっちが不安になる。私が一声掛けなかったら永遠にそのままだったかもしれない。
「どったの、アンニュイに外なんか見て」
「別にー。てかアンニュイの意味わかってんの?」
「えっ!? そりゃあ、えっと、退屈?」
「……正解。マキちゃんそんな頭良かったっけ」
「お前っ……! そこまで頭終わってねぇよ! い、いやまぁテキトーに言ったんだけどさ」
「フッ……やっぱおバカじゃん」
軽口言える程度には頭働いているようだが、私と話しているにも関わらず、遠い目でぼやーっとしている。本当に大丈夫なのか? 五徹したあとみたいに不安定だ。
次の授業は理科室で、つまり移動教室だ。ミユにそれを伝え準備をうながしてようやく動き出した。……けど。
「――ぁっ」
「っとと。セーフ」
授業道具一式を持って立ち上がった瞬間、ミユはふらっと倒れそうになる。
すぐに気付いて右腕で受け止められたが、妙なことに、彼女の身体はとても軽かった。抱き止めたのに全く重く感じない。
「ちょっ、ミユやばいって。保健室行く? つうか行くぞ」
「ごめん、そうして。悪いね」
まだ片付けの最中の先生に一言伝えてから、体調不良らしいミユを保健室に連行することに。歩けないほどではなさそうなので、腕を組みながら廊下を歩く。
「無理してまで学校来るなし。大人しく休めって」
「いやでも、霧ちゃんが学校行けってうるさくて。図書館はいいからって……」
「霧ちゃん? 図書館? どういうこと?」
「あー……えっと、最近手伝いしてて。もうどれくらいなんだろう……十年は経ったかな」
「十年!? ちっちぇーころから手伝い!? 初めて聞いたわ、偉すぎじゃんリスペクトしなきゃ」
「いや、十年つっても……まあいいや、うん」
そう言って苦笑いするミユ。しっかし図書館の手伝いかー、どんなことするんだろう。やっぱり本の整理とか、貸し出しの受付とかかな。受付するミユとか……似合わねぇな。
そのあともミユの気を紛らわせる目的で駄弁りを続ける。苦しそうだった顔も、ちょっとだけだけどマシになってきた。
……だけど、今度は私の顔色が陰ることになる。ミユと歩いている最中、ひそひそ話が聞こえてしまった。
――三波さ、また一葉さんといるよ。他に友達いないのかよ。
――腕なんか組んでさ、何かのアピール? ぼっちじゃないってか。
――やめなよ、かわいそうじゃん……実際そうなんだし。
「ッ……あいつら……」
多分同じクラスのやつだ、声に聞き覚えがある。いじめグループは大分前に解体したんじゃなかったのかよ。離れてるのをいいことに好き放題言いやがる。しかも移動教室なのにまだたむろってるあたり、わざとか。……クソッ。
「――い、おーいマキー」
「……はっ」
私を呼ぶミユの声で我に返れた。危なかった、暗黒面に落ちるところだった。
はー、いかんいかん、今はミユを送るのに集中しよう。あんな陰口しか言えねー連中は放っておけばいいんだから。
「ごめん、ちとボーっとしてた。で、何話してたっけ」
「別に何も――ねぇ真希ちゃん」
「お、おうなにさ。つかマキちゃん呼びびっくりしたじゃん」
「……あいつらの言うこと、気にする必要ないから」
「っ……!?」
ミユの言葉に思わずぎょっとする。聞かれてたこともそうだけど、考えてたことを見透かされたようで驚いてしまった。多分顔にかなり出てるから、図星と思われてもごかましようがない。
「いやっ、べ、別に聞こえてねーし」
「それ、聞こえてる人間の反応じゃん。大丈夫なん?」
「大丈、夫……じゃない。ムカツク」
「私も。友達のこと悪く言われたしね。今度釘刺しておくから」
「いやいい。もっとひどくなるかもだし……それにっ、ぜんっぜん気にしてないし」
ここは虚勢を張って乗り切ろう。まあ、間違いなくバレてるけど、これ以上心配されたくない。具合の悪い人間に気をつかわれるのは……なんか違うだろ。
「――マキがそう言うなら、もうなんも言わない。本当に嫌になったら相談して」
「おう。そんな時は来ないと思うけど、覚えとく」
「その気概で頑張れ……ふぁ、ぁ……ごめん、ちょっと、眠……」
最後にキザに微笑んで、ミユはがくりとうなだれる。倒れないように肩を組んで様子をうかがうと、気絶したわけではなく、すーすーと寝息を立てていた。これで徹夜明けで寝てないのが確定した。
「ったく、急に寝やがって。限界まで頑張るんじゃねーし。……ありがとね、深優」
「すぅ……すぅ……」
「ふふっ、かわええ寝顔してんなこいつ。さてと、ベッドまで運んでやるかー」
タクシーする対価として寝顔を堪能しながら、眠り姫を保健室のベッドへと送り届ける。
この後陰口クソ野郎共と授業をしなきゃと思うと嫌気しかないけど、ミユに頑張れって言われた以上頑張るしかない。私はあんな奴らには屈しないってところ、ミユには証明したい。
「私、負けねーから。元気なったらまた遊びに行こうな」
気持ちよさそうに眠るミユに別れを告げ、私は決戦の場へと赴く。
――なおこの後、先生の伝達ミスのせいで理科教師に怒られる羽目になり、またアホ共にぐちぐち言われることになるのだが、それは別の話だ。
……それにしても、今日は妙だな。
「霧が濃いな……帰るのに不便しなきゃいいけど」
◇
「あぁ~だるかったぁ~……もぅダメぇ……」
帰宅すると同時に部屋に駆け込みベッドにダイブ! 制服がシワになると言われようと、これをやらないと帰ってきた気がしないから絶対やる。少しだけどストレスも飛ぶし。
結局先生からの謝罪はないわ、ミユはそのまま早退するわ、陰口は止まないわで散々だった。仮病を使おうとも考えたけど、逃げるみたいなのは嫌だったからどうにか我慢してきた。ただし部活はサボった、文化部はヒマだからね。いてもしょうがない。
「だぁー! あいつらマジで気分悪い! 自分ら言われたらどーせすねるのに人のことはバチクソ言いやがって! 人間じゃねぇよマジ!」
枕でカバンをしばきながら我慢してた言葉をひらすら吐き出す。
普段は悪口は決して言わないよう気をつけている。自分がされたら嫌なことは……ってね。ミユに聞いてもらうことも考えたけど、それじゃミユの気分が悪くなるだろうし、陰口言ってるあいつらと一緒だ。一緒とかマジで吐きそうになる。
だからこうして一人でいる時に吐き出すしかない。一度ため込みすぎて胃が大変なことになったこともあり、ここ数年はこうして対処している。
「クッソ……私も人気者になりてぇ……そうすりゃストレス生活から抜け出せるだろうなぁ」
……なんて、つまらない願望も合わせて呟いてみたり。
私のクラスには人気者が多い。いつも取り巻きがいるカナとか、最近は女子モテのケがある篠っちとか、幅広く友達がいる歌子とか……戦国時代かってくらい派閥ができるくらいカリスマが集まってる。大親友のミユも、なんだかんだ女子人気が高い。勉強ができて顔がいいからな。
対して私は、せいぜい親友ポジにとどまってるだけのモブ。勉強は努力はしてるけど平均程度、運動はできるがうまいやつには敵わない。中途半端で、いつもミユについて回ってるだけど、ただのモブキャラ……。
「自分でも分かってるっつの……ぼっちだって、一人じゃなんもできないって」
私は恵まれなかった、人生のキーカードに。そして勝ち得るほどの力を持てなかった。
しょせん負け組なんだ、私は。努力は報われるって名言があるが、それにも限度がある。ダメな時は、ダメなんだ。
「どうすりゃいいんだろうな。転生できるなら今すぐ道路に飛び出すってーの」
ふてくされて天井を見つめていると「真希姉ー、お風呂沸いたー」と呼び出しが下の階から聞こえてきた。内容は聞いたまんま入浴の催促だ。
それでも動かずにいると、ダダダダッと猛烈な足音が響きバンッ! と唐突に部屋のドアが開けられた。
「ちょっと真希姉! なんで来ないの!」
「だるくって。もう心が疲れててさー、ナツナー癒してー」
「疲れて癒されたいなら風呂入れ! 一番風呂じゃないとダメって言うから待ってるのに。あとナツナじゃなくてカナだよバカ姉、いい加減にして!」
愛妹ナツナは言いたいことを言ってドンッ! と乱暴にドアを閉め、ドタドタならしながら自分の部屋に戻っていった。なんと乱暴で凶暴な……なお妹は私とは真逆で、一年では徐々に注目を集めているらしい。おかしいだろ、ちょっとは人気をよこせコラ。
……さて、あいつはほっといて風呂行こうか――とした時、再び足音が廊下から響き、ドアがまた開けられ。
――ヒュンッ!
「うおっ! なんだいきなり!」
開いた隙間から小瓶が飛んできた。反射的に左手でキャッチできたからいいものの、当たったらどうするつもりだったんだ。
「借りてたヘアオイル返す。合わなかったから」
「だからって投げるな!」
「直撃してないしいいでしょ。じゃあね」
――バタン!
これまた乱暴にドアが閉められる。お前は蝶番壊すつもりなのか?
それにしても台風みたいに騒がしい態度だったな。ストレスか? 同級生か彼氏にフラれでもしたか。なんだぁ、姉様への当てつけか? こっちにぶつけてくるんじゃねぇし。
……ああクソ。これ以上ストレス抱えたくねぇってのに。
「はぁ~、もういいや、考えるのやめやめ。風呂入るか。流すに限る」
そこから動くのは早かった。さっさと制服を脱ぎ、下着の替えとパジャマ代わりのでっかいパーカーを持って一階に降り、流れるようにお風呂に入る。……まさか自室ですら安息の地にならんとは思わなんだ。
髪は手早く洗い、全身泡まみれにしてかけ湯で流し、首まで湯船につかる。じーんと体の芯までぬくもりが伝わってくる。この瞬間こそ一日の最大の楽しみ。ゆっくりつかって、嫌なことを全部流していくのだ。
「あびゃぁ……快適快適……やっぱ風呂は最高っすわ」
浴室内の鑑を拭いて、自分を見ながら顔を洗う。思うんだけど、風呂の中に鏡入れてどうすんだろうね、すぐ曇るじゃん。
「まあ曇って困る顔してないけど。私はふっつーだもんなぁ……はぁ」
自分のことを考えるたびため息が出る。
どこで失敗したんだろうな。やりようはあったはずなのに、チャンスをつかみ損ねてしまったんだ。早いうちから勉強をもっと頑張るとか、運動一筋でやってみるとか、他にも色々……。
「やり直してぇ……それか転生してぇ……」
行き詰まってくるとついバカなことを本気で言ってしまう。あるわけないのにね、死んだら死んだままだと思うけどね。あと正直転生した先でも同じこと起きそうだからやっぱりいいです。
『本当に? 本当にいいの?』
おお、あまりに悩みすぎて天の声が聞こえてきた。今日は早めに寝ることにしよう、疲れてんだな。
『うそつけー。心の底から思ってるくせに』
「なにをー」
『別の世界、行ってみたくなぁい?』
「いや別に……ん? ちょっと待て普通に会話してんじゃん、どっから聞こえてんねん」
最初は心の声がだだ洩れになっているだけかと思ったがそうじゃない。明らかに私の口以外から聞こえてきている。
不審に思って浴室内を見渡すも、当然だが私以外いない。いたら問題だわ。窓は高い位置に小さいのがあるだけで、そこから声を届かせるのは無理がある。
「おいおいおい、お前は誰だ。どっから話してるん」
『すぐ近く。察し悪いね、漫画読んでる?』
「そんな煽り初めてだわ、読んでる読んでる……いやーありえないけど、ここ、か?」
……うん、間違いない。私は疲労のあまり幻覚を見つつある。というか見てるな。
ただ、たまにはこういうので遊ぶのも悪くない。自分の幻覚で遊ぶとか相当イカレてきたな。
声のする方向に顔を向けると、あるのは半分曇った鏡のみ。変わらず私が映り続けているだけで特に変わったところもない。
――と思っていたのだが、奇妙なことが起きた。
鏡の私が不敵な笑みを浮かべて私を見てきた。現実の私は「うおっ」と驚きのあまり浴槽内で尻もちをついている。
『やっと気付いた。どんな気分? 鏡の自分と向き合うのは』
「いや、お前……ああ私か? いやいや、なんだっていいけどビビってるわ」
『でしょうね。まあ楽にしなよ、ちょっと話したいし』
若干警戒心を残しながらも付き合うことに。のぼせないように上半身だけ乗り上げて鏡と向き合う。すると鏡の私も同じように浴槽に乗り上げる。文字通りの鏡写しでちょっと感心する。
「で、なにさ。あんたはなにしてくれんの?」
『あんたはないでしょ。同じ私なのに』
「そっちまで『私』呼びだとこんがらがるじゃん。それよか用件言えっての」
『せっかちすぎん? まあ知ってたけど――お互いウィンウィンな話よ、ちゃーんと聞いてな』
鏡の私は頬杖をつき、にやりと余裕たっぷりに笑った。
『私たち、入れ替わってみない?』
「入れ替わる……? 意味が分からんのだけど」
『そのまんまの意味なんだけどっ。つまり、お互いが今いる世界を交換すんの』
しれっと言ってるそれが分かんねーって言ってんだけどなぁ。ああ、私だからそういう物言いしかできないのか、納得……って、納得したら自分のバカさ加減認めることになるな。はぁ……今のなしなし。
でも目的は察した。鏡写しの世界ってことは多分……。
「オッケー、大体分かった。こっちとそっちじゃ都合違うってわけね」
『んー、まあ大体そう。私、結構注目集めるタイプみたいでさ』
「……はぁ?」
『最後まで聞いて。で、本当は仲いい友達一人二人とのんびりしたいの。目立つの好きじゃないし』
「分かる。でも人気ゼロよりいいでしょ。私はちょっとは目立ちたい」
『そう! そういうこと!』
やっと分かったか、と言わんばかりにこちらを指さす私(アナザー)。その反応で完全に理解した。
「お互いの境遇が逆で、しかも望んでいるものも逆」
『入れ替われれば、お互い納得のシチュで満足いくまで過ごせる』
「ならやらない手はないね。乗る乗る!」
『だと思った。私同士だから話早くて助かるね』
息を揃えて親指を立てる私たち。シンクロするあたりはやっぱり同じなんだなぁと思わされる。
――それはさておき、こいつは好機だ。
私は私が望む世界に行けるってわけだ。入れ替わりならいなくなった扱いじゃないから問題にはならない、なんともうまい話だ。利用しない手はないじゃん?
ただ、これからどうするか、だが。
「話がまとまったところで、どうやって入れ替わんの? そっちは知ってんの?」
『もっちろん。じゃなきゃ打診しないし。……準備できたら、今夜二時に洗面所の鏡の前に』
「りょうかーい。じゃあもう上がっていい? のぼせそう」
『私もー。よろしくねー』
鏡の私に手を振って、同時にお風呂から出る。身体を拭いて……ふと気になって鏡を見るが、やっぱり、何の変哲もない鏡だった。
「夢……なわけないか。やっぱ幻覚? それでも試してみるけど。たまには夢見たってね」
行き過ぎた妄想だったというならそれでも構わない。学校生活に影響するわけじゃないし、知り合いに聞かれたわけでもないし。ただ「嗚呼私疲れてるわ」で済むんだから。
だから、今夜だけ。私に夢を見させてくれ。
淡い期待を抱きながら、私は髪をだらだらと着替える。ぼーっとしながらやっていたようで、シャツとパンツが前後逆だと気付くのは、部屋に戻ってからだった。
◇
『来たね。だって来ない理由ないもんね』
「うっさいなぁ、静かにしてよ」
時は飛んで深夜二時。家の中どころか外も静まり返っている時間。そこそこ冷え込む時間帯でもあるから長袖が欠かせない。
そして私は、そんな時間に鏡の前に立っている。うっすらと差し込む月明りを背に、不敵に笑う『もう一人の私』を前にしている。
『大丈夫。私の声は私にしか聞こえてないから』
「ってーことはよ、私は独りごと話してるように……?」
『見えちゃうねー。ご愁傷様』
「クッソ……まあいい、こっからどうすんの?」
今ここにいる理由は、鏡の中の私と入れ替わるため。お互いの理想の世界に行くためだ。
ただ肝心の方法はもう一人の私しか知らない。だからこうして、指定された時間に来ている。さっさと済ませてほしいね全く。
『だからせっかちだなぁ私は。今から教えるから』
「それお風呂でも聞いた。ほらほら」
『分かったってもー……大丈夫、すっごい簡単だから。手を出して』
「……?」
言われるがまま手を出すが、違うと首を振られた。だったらちゃんと言えや! と叫ぶのを抑えてムッとすると、鏡の私は「ごめんごめん」と謝った。
『鏡につけて。で、私と手を重ねるの』
「こう、かな」
『私』と息を合わせて、鏡越しに手を合わせる。
伝わってくるのは、鏡特有のひんやりとした感触。夜というのもあって一層冷たく感じる。冷たいだけで、それ以上は何もない。
……これはただの鏡だ。
『大丈夫、安心しなって』
「どこをどう安心しろと。何もないじゃん」
『もうすぐ――ねぇ知ってる? いや知ってるはず、私だもん』
「今度はなに」
『この時間帯、なんていうでしょうか?』
「夜の二時っしょ? 確か……っ! 丑三つ時か」
正解、と唇の端をにぃっと上げる『私』。その時の雰囲気は、ひどく不気味なものに見えた。
『この時間は、そういうことをするにはぴったりだからね、こうして手を合わせていれば……くるよ』
最後ぼそっと呟いた、のと同時に、鏡の世界がぐにゃりと歪んだ。
反射的に飛びのきかけたが『まだダメ』という一言でその場に縛り付けられる。自分でもびっくりするほど動きがぴたりと止まって……その間も目の前では不思議な光景が繰り広げられている。
見ている内に、だんだん気分が悪くなってきた。異常な眠気が襲い、全身から力が抜ける。それでも手は離れない、接着剤で固められたんじゃないかと思うくらいに。
「ね、ちょっと……私、頭が……」
『もうすぐ、もうすぐ。我慢だぞ、私』
「いや、ほんと、げんかい……」
身体もそうだが精神的にかなり辛い。拷問されてる気分だ、自分が自分でなくなっていくような――……。
立ったまま意識がもうろうとする。さすがにもう倒れる――という瞬間に。
『はい、もうオッケー』
「……っ!」
『私』の一言でばちっと目が覚め、限界寸前だった身体が嘘のように軽くなった。だるさがなく、普段のように力も入る。
呼吸を整え、改めて鏡に向かう。しかし。
「えっとぉ……なんか変わった?」
『手が逆』
「確かにそうだけど……え、マジ?」
言われてみるとそうだった。鏡についていた手が左右逆になっている。いつ反対の手にしたっけ? と考えつつも、既にもう一つの可能性が頭をよぎっていた。
「ほんっとうに、入れ替わった?」
『ふふっ、さあてね。こっから先は自分の目で確かめてみないと……ね?』
「お、おう」
鏡の私は妖しげに笑い、手を離す。すると私の手も自然と離れ、何事もなかったかのように温度が戻ってくる。ぐーぱーしてみるも、やはり何もない。
本当にこれでうまくいったんだろうか。特に何もしていないんだけど。
『今はまだ、頭が認識しきれてないだけ。ぐっすり寝れば慣れるはず』
「慣れる……もう片方の世界に、ってこと?」
『それはお楽しみー』
そこからは何を訊いても「さあ?」とか「どうかな」としか言わなくなった。意地でも喋らないつもりでいるらしい。我ながらなんと意地悪い。
「まあ、自分の言うことだし、信じてやるよ……またな」
『また鏡越しにね。じゃあねぇ』
鏡の私に別れを告げ、暗い廊下を通って部屋に戻り、ベッドに潜る。
――成功したんだろうか。私はどんな世界に来てしまったんだろうか。
期待と不安が入り混じり、このままじゃ眠れない……と思った矢先、すぅーっと意識がひいていくのが分かる。もうすぐ寝る寸前のところまで来ていたらしい、睡魔にあらがえない。
起きていたらきっと、都合のいい世界になっているはず。
そう願いながら、私はまぶたを閉じ、布団のぬくもりに身を委ねた。
――そして朝が来る。待ち望んでいた、新しい世界の朝が。
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