「本当に……本当に霧ちゃんなの?」


 受付にいた時とはまるで様子の違う司書さんに、じり、じり、と詰め寄る私。待ち望んでいたあの子が、霧ちゃんがいると思うと自分を制御できない。少ないながらも、彼女と過ごした濃密な時間が、頭の中で巡る。


「ずっと、会いたかった、霧ちゃん……!」


 目の前に辿り着き、五年ぶりに霧ちゃんに手を伸ばす。


 ――が、私の手は宙を切る。


 すんでのところで霧ちゃんが一歩下がってかわしたのだ。


「えっ、どうして……」

「ごめんなさい。私も今すぐ抱きしめたいの。でも、そうはいかない」


 霧ちゃんは胸の前で手を握り、私を感情のない瞳で見つめる。まるで機械のように冷たくて無機質……『司書さん』とも『霧ちゃん』とも違う、異質な何かに思える。


「……どういうこと?」

「全部話すと約束した。だから、私のことも合わせて教えるね」


 一呼吸おいて、黒髪の少女は原稿を読み上げるように淡々と語り始めた。


「もしかしたら察しているかも……厳密には、私は霧ちゃん――『二樹霧子』じゃないの」

「意味が分からないんだけど。霧ちゃんじゃないって?」

「それは……ねぇ深優ちゃん、五年前、だったっけ? 最後に会ったあの日、私がなんて言ったか憶えてる?」

「『霧の図書館に行く』、だったよね」

「正解。分かってると思うけど、ここに来てたの。本好きとしては最高の場所だったからね」


 ――言葉に抑揚がなく、かなり不気味。私の中の霧ちゃんのイメージが崩れそうだ。


 霧ちゃんは抱えている本を撫で、人間味のある微笑みを浮かべて続ける。


「偶然ここを見つけて以来何度も通ってね、何時間、何日とずっと本を読んでた。全部読破してやる、ってね。それが間違いだった」

「……もしかして、時間のこと?」

「さすが深優ちゃん察しがいい。深優ちゃんも体感したはずだよ。何時間といたはずなのに、外に出てみたら全然時間が経ってないって現象」

「霧ちゃんに『ああ無常』すすめられて、読書スペースに案内してくれた時の、でしょ? えっ、霧ちゃんも? マジかよ……」


 あの日はかなり取り乱したうえに、しばらくの間めちゃくちゃ思い悩んだけど、どうやら気のせいではなく確かに起きていた異常現象だったようだ。


 ――なるほど。そういうことか。


「霧ちゃんの見た目が変わってないの、ここに居続けたから、だよね」

「んー……半分正解、かな。『私』が深優ちゃんと別れたあの日、ずっとここで本を読んでた。何十、何百冊って。そうしている内に、私は図書館に縛られた。思考も心も、私の時間も全部。そして図書館の中をさまよってる時に――この場所を見つけた」


 霧ちゃんは腕を広げながらその場でぐるりと回る。新しいものを披露するように、大仰に三回、ぐるぐると。


「ここにある本はどれも特別。唯一無二で、最も尊ばれるべきものが書かれてるの。私が持ってるこの本も、元はこの部屋のよ」

「この間も読んでたよね、それ。どんな内容なの?」

「真っ白なのには理由があるの、タイトルのつけようがない内容だから……でもあえてつけるなら、そうね――『私の記憶』、かな。うぅん、センスないな」


 ……私の記憶? それだけ聞いても想像ができない。


「ここの本たちには、どこかの誰かの記憶が記録されてるの。その内もっと増えると思う、人間はたくさんいるからね。そして今持ってるのが、『二樹霧子』の記憶の本」

「記憶……思い出、ってこと? 字だけになったアルバムみたいな感じ?」

「そんな感じ。ただアルバムと違って……未来が、これからその人に起きる出来事が書かれてる。つまり――」

「それには霧ちゃんの未来が書かれてる、のか。読んだの?」


 霧ちゃんは本を棚に戻しながら、深く頷いた。


「読んじゃった。手に取ったのは偶然で、その時の私は読まずにいられなかった。そして……壊れた」


 再び彼女の雰囲気が冷たいものに変化する。ころころ変わるのは、それに起因するものなんだろうか。黙って聞くことにしよう。


 ――もっと言えば、掛ける言葉がないだけなのだが。


「知るべきではないことを、全部知ってしまった。最初は思い出に浸っていただけだった。でも読み進めるうちに十年後、二十年後の未来を見てしまった。自分が思い描いていたものじゃなくて、何度も目をこすりながら見返した。でも、内容は変わらなかった」

「ぁ……っ……」

「内容は簡潔にまとめると――『中学校にていじめに遭い、高校では不登校に……友を想い必死に勉強し大学に進学するもうまくいかず』……あとはどうだったかな。無為に余生過ごして終わりって感じ。乱雑に書きなぐった最悪の人生だよ」


 なんとも最低な話だ。バッドエンド好きなバカがテンプレ通りに書いたような内容、胸糞悪いったらありゃしない。

 ……どうせ嘘っぱちだ、信じることなんてなかったのに。言ってくれれば、ずっとそばにいてあげたのに。


「頭が真っ白だったせいで丸々うのみにしちゃって、心が痛かったな。呼吸ができなくなって動けなくなって。いずれ来る最悪を回避したくて色々考えた。それで最後に残った答えが――」

「司書に、なること?」

「ううん。もっと大きい……この図書館の管理者になること。司書は、まあ表向きの顔だよ」


 管理? ここの全部を?

 そんなのどう考えたって無理がある。バカ広くて、手が届く範囲なんて限られている。


「じゃあ今まで一人でやってきたの? こんなところを、ずっと……?」

「そうだよ。私が来た時は受付に誰もいなかったんだから。どうせ嫌な未来があるならいっそ、って。ただ、その選択をしたのは、結構後悔してる」


 なんで、と問う前に霧ちゃんは「それはね」と一言挟んだ。

 私をまっすぐに見つめて、少しずつ、歩み寄りながら。


「ここは普通の図書館じゃない。時間も空間もねじ曲がってる。管理するとなると、図書館と同化しなくちゃいけなかった」

「同化って……それじゃあまるで、怪物みたいな」

「普通の本ならまだしも、人ひとりの過去現在、未来に至るまでの出来事が記された本が置かれてる時点で変だよ」


 話しながら目の前までやってきて、特に何も言わず私の手を握る。霧ちゃんの手は小さくて、氷みたいに冷たかった。


「後悔の一つは、もうここから出られなくなったこと。私ね、ここに来て以来飲まず食わずなの。図書館を管理するために生かされてるみたい。だから、出るってなるとその時は、きっと……」

「霧ちゃん……」

「そんなことよりもっと辛かったのは、もう二度と深優ちゃんに会えなくなったこと」


 そう言うと同時に、握る手に力と熱がこもる。今はカイロのような優しい熱さだ。


「本に憑りつかれて、衝動に任せて管理者になって。その代償が、大切な人だった。それに気付いた時は、何時間も泣いて動けなかったかな」

「言ってくれれば、ちょっとは手を貸したのに」

「本当にそう。バカだった。でも今は、こうしてまた会えた。思い出の本を忘れてなかったの、嬉しかったよ。『ああ無常』……私は常住だけど」


 そこまで言い切って、寂しくなったのか、はたまた最後の言葉の照れ隠しか、霧ちゃんはぎゅっと抱きついてきた。久しぶりの彼女の感触……私はただ黙って、彼女を優しく包み込む。

 頑張ったね、とは言わない。霧ちゃんにそのつもりはなかったのだから。だから私は、頭を撫でるだけ。私たちに、言葉はいらないから。


 しばらくしたら落ち着いたようで、ぽんぽんと背中を叩いてから離れた。目は少し腫れてて、ほおが赤く染まっている。


 ――彼女はずっと、一人でここにいたんだ。

 時間の流れが全く違うこの場所で、何年いたのか想像がつかない。私のように時折舞い込むであろう人間の相手をちょこっとするだけだったんだろう。ぬくもりが恋しくなるのも仕方ない。多分私だってそうなる。


「……私ばっかり話してるね。深優ちゃん、なにか訊きたいこと、他にない? この図書館は一方通行のタイムマシン兼無限収納スペースで、プライバシーなんて一切ないよーってこと以外で」

「えぇ? 急に言われてもなぁ――あっ、じゃあ二つ」

「いいよ。一つは?」

「つまらないことなんだけど、さ。なんで外……じゃない、この部屋の外にいた時、こう、おどおどした感じだったの? しかも他人みたいでさ。霧ちゃんかどうか確信持てなかったんだよね」


 本人が訊いてと言うなら、いい機会だ、直接確かめよう。


 私がこの図書館に来て最初に印象付けられたのが、司書さんの霧ちゃんだった。今世紀最大級の衝撃で、夢でも見てるんじゃないかと思ったほど。

 でも人が違った。目の前にいる霧ちゃんも、数分前までは全くの別人のようだった。これは一体どういうことか。


 すると霧ちゃんは「それね」と呟き、あごに手をやりながら答えた。


「分かりやすく言えば、別人格、かな。一人なの辛かったし、管理も大変だったしで、受付にいる間はああなっちゃうの。最初に言ったでしょ、元の『二樹霧子』はいない、一度壊れてるから。再構築したあとは不安定だったから、全く別の私として『司書の霧子』ができたの」

「解離性の、なんつったっけ……まあそういうのってことか」

「解離性同一性障害……言われてみればそうかも。壊れた部分を補うための、あの私。一応認識はしてる。ただこの部屋に来ない限り交代はできないけどね」

「なるほど……」


 再構築、か。さらっと流したけど、そう表現するくらいに当時は感情の変化がすさまじかったんだろう。小学校の頃ともなれば耐えられるものではない。私には想像もできないことだ。


「悪くはないよ。私は疲れずに済むから。あーでも、喋るのは下手なんだよね。素の私みたいでちょっと嫌かも」

「はは……じゃあ、部屋出たらそっちの霧ちゃんに伝えとく」

「そうして。で、もう一つは?」

「もう一つ――ああ、忘れそうだった。ありがと。もう一つはね……」


 少しばかり伝えるのがはばかられるが、霧ちゃんに再会できたのならそうすべき、という考えがある。なら貫きとおすしかない、私はそれ以外の方法なんて知らないから。


 今度は私から彼女の手を取り――一瞬かわされたけどすぐ捕まえて――さっきのお返しにとまっすぐ瞳を見つめる。


「私と一緒にいようよ。もう、離れたくないの。霧ちゃんが寂しかったように、私も、五年間ずっと独りだったんだから」

「深優ちゃん……! でっでも、それは、無理。私、出られるか分からないもん」

「なら私も、図書館と同化……同化って言い方ヤだな……システムになるから。本音だと外の世界がいいけど、私にとって、霧ちゃんといる場所が生きる場所だから」


 仲良くしてくれる友達はいた。わりと生活は充実してたかもしれない。


 でも結局、いつも霧ちゃんのことだけ考えてて、霧ちゃんのために生きるのを頑張ってて。意識しててもしなくても、ずっと霧ちゃんが心の中にいた。


 大切な人は世界に一人。私なら、それが霧ちゃんだった――だったじゃない、今もそう。

 おおげさだとか、盲目すぎるだとか言われたっていい。私には、大切な人といられる幸せがあればそれでいいから。


「た、大変だよ? あっちで数日でもこっちじゃ何か月も経ったり、その逆もあったりするし。広すぎて移動に困るし配置は憶えきれないし……」

「時間は宇宙旅行に行った気分でごまかすから平気。管理は気合でするから大丈夫」

「図書館の出入りはできないよ? できたとしても、いつも同じ場所に建ってないから帰れるとも限らないしっ」

「霧ちゃんと一緒ならいいや。おかーさんにはたまに手紙出すくらいでも」

「私のこと、よく知ってるでしょ? 私といてもつまらないよ」

「そばにいれるだけで十分。それに、私は霧ちゃんが霧ちゃんだから好きなんだけど。自分のことダメみたいに言わないで」


 私をことを思って図書館から出て行かせたい霧ちゃん。でも私は何回でも言い返せるし、一緒にいたい思いは変わらない、揺るがない。


 そのあとも何度も問答を繰り返したけど、私は一歩も譲らなかった。苦しい、悲しい色ばかりだった霧ちゃんの表情に、少しずつ、彼女らしい笑顔が戻ってきた。最終的には、呆れ笑いに変わったけど。


「……深優ちゃん。深優ちゃんって、バカだね。ほんとばか。私のこと好きすぎじゃない?」

「うん、大好きだけど。てか意味深なこと言い残して勝手にいなくなって、五年間ほったらかしにしたからこうなったんだから。責任取って、管理手伝わせてね」

「もう、強引すぎ……深優ちゃんらしいや」


 霧ちゃんは泣き笑いながら、握られた手に、そっと手を重ねる。目じりとほおを伝う涙をぬぐってあげて、全身全霊の笑顔で彼女に向かう。


「じゃあお願いできる? 覚悟なんてあとからいくらでもできるし」

「どうなっても知らないよ。えっと、なら……こ、これ読んで」


 恥ずかしいのが頂点になったようで、分かりやすい照れ隠しとして手を離したあと顔を左手で覆い、空いた手で棚の無地の本を一冊手に取って突き出してきた。


 出された本を受け取る。タイトルはやはりなく、表紙をめくっても何もない。さらに一ページめくるとようやく文が現れる。第一文は『一葉深優の記録』。これ誰が書いたのか分からないけど、とりあえず悪趣味なのは確定だな。


「私の記録、ね。これを受け入れて初めて資格を得る……ってところかぁ」

「嫌な思い出振り返ることになるかもだし、見たくない未来が書いてある。それでも読む?」

「楽勝。安心して、思い出は霧ちゃんのものしかないし、未来は自分で決めたから」


 ……今のはちょっと強がりもある。


 正直、自分の未来を見るのは怖い。霧ちゃんが話してくれた内容から察するに、私が図書館には来なかった、普通に暮らした場合の未来が書かれているはず。だったら、霧ちゃんがいない灰色の未来が待ってたのかな。


 どうせ未来なんて、現在から見れば不確定なものだ。気楽に読めばいい。

 心に決めて、私は本をめくる。一ページ、また一ページと。

 誕生から始まり、保育園、小学校と思い出を振り返る。小学校の部分は、霧ちゃんとの出会いと一緒にいた出来事で埋め尽くされてる。昔っから単純だな。


 さらに読み進め、ついに現在に到達。私がひどく退屈な思いを抱いて中学校生活を送っていたことがつらつら書かれている。……痛々しい日記にしか見えなくなってきた。


 そして、来るはずの明日からの未来に目を通す。

 ……ある程度ページをめくったところで、霧ちゃんがずいっと乗り越えるようにして本の上から顔を出した。


「ど、どう? 大丈夫?」


 自分が自分だっただけに、かなり心配しているんだろう。不思議に思うのも仕方ない。当の私は、特に変化がないのだから。


「全然平気。心配しなくていいよ」

「……もしかして、結構いい感じの未来だったとか?」

「そんなことないよ。大分面倒なことになってるけど、気にならないかな」

「え、っと……じゃあ、感想は?」


 ――感想、ねぇ。


 私は一旦本を閉じ、霧ちゃんを撫でながら笑って答えた。


「つまんない人生になるみたい。でもどーだっていいね」

「なんで? ……ああ、分かっちゃった」

「これから白紙のページを、新しい思い出で埋めてくからね。霧ちゃんと一緒に」

「だと思った。なら私の白紙を埋めるの、手伝ってね」


 お互いの未来を約束し合い、その証として、小指と小指を結ぶ。


 ――もう一切の迷い、疑問はない。なら、この部屋に居続ける理由はない。


 不要になった未来のページをやぶってから棚に戻し、霧ちゃんの手を引いて、他に何もない部屋の出口へ。


 出る寸前、部屋の中を今一度見渡す。白くて、無地の本と棚しかない空っぽの部屋。

 ……私も来る時期が違えば霧ちゃんのようになったかもしれない。まあでも、たらればの話はしても仕方ないし、それに。


「未来なんていつも変わるもんだよ。現に、霧ちゃんに再会できたしね……」

「深優ちゃん、何か言った?」

「ううん、なんでも。行こっか」

「……うん。あ、部屋出たら司書の私によろしく」

「忘れてないよー」


 なんて、五年ぶりの中身うっすい会話をしながら。


 部屋のドアを、閉めた。

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