霧の中の図書館に行って数日。何にも手がつかなかった。

 ずっと頑張ってきた勉強にも、好きだった読書にも。

 授業もずっと上の空で、全く頭に入ってこなかった。


 あの日の幻想が、私の心を縛り付けている。

 深い深い霧の先にある図書館に。


 何がタチ悪いって、単に不思議体験をしただけじゃないってこと。

 あそこには確かに、いなくなったはずの親友――霧ちゃんがいた。顔も、背も体格も……癖だって同じで。声までは……あまり聞こえなかったから分からないけど、でも……。


 ――でも、夢くらいは見てもいいじゃないか。やっぱり私には、司書さんが霧ちゃんにしか思えない。


「また見たいな……霧ちゃんの笑顔……」


「――あぁ? なんだって?」


 ……おっと、昼休憩の最中だった。うっかりうっかり。


「なんだってってなにさ。私なんか言った?」

「いや? 見たいって……おっ、つまりそうか。次のテストの問題用紙か」

「そうかもねー。でも見なくても平均点は余裕ですしー」

「くぅ~これだから優等生はっ」


 絡んでくる友達をテキトーにいなし、また考え事にふける。

 ……まあ、考えてることは一つだけだけど。


(ほんと……私ってばつまんないヤツ。なっさけない……)


 どんな時でも、頭の中にはあの日と同じ霧がかかっている。決して晴れることはない、疑いまみれの霧。


 ――行き着く答えはたった一つ。


(行くしかない。また、あの図書館に)

「ね、ねぇ大丈夫? マジで心配なんだけど」

「私のこと? ……うん、大丈夫。やること見つけただけ」

「やること――ふーん。じゃ、がんばんな」

「なんも言わないんだ」


 いつもはひたすらつついてくる友達が、今回は特に追求してこなかった。

 なんでかほんの少し考えてると、友達――マキちゃんが鼻をつんと突っついてきた。


「へぇっ!? なな、何?」

「なんかさ、今の深優、すごい深優らしいなーって」

「私、らしい……?」

「うんっ。勉強してる時よりジュージツしてる感じ。だから口出ししない。思うようにやんな。見守っててやるからさ」

「マキちゃん……ありがと、元気、少し出たかも」

「どーいたしまして――んじゃ、邪魔ものは退散しますわ。困ったら呼んでな」


 じゃーねー、と言いたいこと言ってマキちゃんは席を立った。

 ……久しぶりに、人の背中を見て頼もしいと思った。マキちゃんの背中は、思った以上にしっかりしてて、温かい。


「おかげでちょっとは吹っ切れたよ。向き合う覚悟、できたわ」


 友達、ってこういうことか。見返りなんて求めず、自然に救いの手を差し伸べてあげられるような……マキちゃん、恩に着る。心が軽くなった。今度なんかおごってあげよう、うん。


 ――さて、気持ちの問題はどうにかなった。問題は、図書館に行けるかどうか。


「しばらくは霧なんてなかったし、あの林道も、図書館もなかった……神出鬼没ってわけか」


 制服の胸ポケットにしまっていたプレートを取り出し、綺麗な字で書かれた自分の名前を見つめ、目を閉じ、静かに祈る。

 ――今日こそは行けますように。あの不思議な図書館に。

 何秒、何分と祈り続け……。


 ――キーンコーンカーンコーン――


 休憩終了を告げるチャイムと同時に目を開ける。再び見えた世界は、数分前より明るく見えた。


「っし、まずは残りの授業頑張りますか。五、六限なんだっけ……まあいいか」


 意気揚々と立ち上がり、晴れ晴れとした気分で教室に足を向けた。

 ……なおこの後の授業は苦手科目の抜き打ちテストに遭い、頭を抱えたのは別の話である。




 ◇




 へとへとになりながら歩く帰り道。テストと部活が予想以上にキツかった。こんな調子で問題を解決できるのだろうか疑わしい。


 疲労状態ながらも気は張ったまま。前回は知り尽くしていると思い込んでいた道に現れた。今日行けるとするなら、また突然道が開けてもおかしくはない。


「来るなら来い! っつっても行くのは私だけど……うぅ、寒っ……」


 ひゅうと吹く乾いた風が私の身体を震えさせる。冷たい風はいつ当たっても慣れない、思わず萎縮してしまう。

 念のためにと持ってきていたストールをカバンから出して巻こう、とした時、突如として白く濁ったような煙が流れてきた。


「まさか野焼き? 空気乾き気味だってのに!? ――けほっ、けほっ……あっストール使お」


 草を焼いた独特の異臭が目と鼻にジワジワとダメージを与えてくる。マスク代わりにストールを顔に巻くが効果は薄い。かろうじて目は守れるが、視界を犠牲にするしかなくなった。……はたから見たら多分ミイラになってるな。


 真っ暗になった視界のまま、煙地帯を抜けるまでのそのそとしゃがみ歩く。幸い道は一本道、車の音も聞こえないから脱出には支障ない。にしても何焼いたんだ、目が開けられないって相当だぞ。通報案件だ。


(……臭いが多少マシになってきた。抜けた、かな?)


 ストールを首まで下ろし、おそるおそる目を開ける。

 さっきまでのぴりぴりした痛みはない。ただダメージが残っているのか視界はぼやけている。全体的に白いもやがかかっているような感じで――おや?


「それにしては濃いような……手は、ちゃんと見えて……つーことは?」


 私の目が悪いのではない。周りの環境が変化した。


 さっきまで見通せていた一本道の先が、ほとんど見えないくらい白に染まっている。視認できるのは数メートル先まで。

 野焼きの煙なんて比にならない範囲を、あの日と同じ濃霧が支配している。


 数日前の私ならほんのちょっと取り乱したり、おびえながら家路を急いでいただろう。

 でも今は――高揚している。この後に起きるであろうことを知っているから。


「ツイてる……行ける、絶対!」


 迷うことなく、私は走り出す。図書館への道、存在しない林道を探して、まっすぐに。


 走って、走って、見渡して。何度も何度も繰り返し、走って、また走って――……。


 ――そして、ついに見つけた。灯篭のような街路灯の並ぶ、妖しい林道を。


「この先に、図書館が……」


 すがるような思いで、カバンから借りた『ああ無常』を取り出して胸に抱える。


「すぅー――はぁ――」


 息を吸って、吐いて。また吸って、吐いて……息を止める。


 どうしてか、立っているだけなのに緊張する。妙な感覚だ。あえて例えるなら、決戦前夜。私の無意識が重要なシーンであると告げているよう。


「すぅ……ん、よし」


 最後に大きく息を吸い、迷いや緊張も全部飲み込んで、前方――霧の先の図書館を見据える。


 もう怖いものなどない。いやそもそも、怖れるものなどないか。

 本を抱えたまま、霧の林道に足を踏み入れる。あとはまっすぐ歩くだけ。そうすれば、またあそこに行けるはず。


 一寸先は霧。街路灯の明かりを頼りに最大限注意を払いながら進む。

 とは言っても、一度通った道ならすいすい歩けるから、特に障害にぶち当たることなく図書館に到着した。今日はもう門は開いていて、すんなり入ることができた。


「しつれーしまーす……」


 ほとんど意味のない入室の挨拶と共に図書館の扉を開ける。

 相変わらず中は広く、棚と本の量に圧倒される。しかし前回と違いもう受付の場所だけは憶えている。司書さんがいるであろうカウンターに一直線で向かう。


「こんにちは、司書さん」


 カウンターでは司書さんが、初めて彼女を見つけた時と同じように静かに本を読んでいた。表紙には何も書いてない、無地の本だ。


 私の挨拶を聞くとすぐ顔を上げてくれた。そして小さく微笑んでから、スケッチブックとペンをすかさず取り出す。今日も字で話してくれるらしい。


『お久しぶりです 深優さん』

「そこまで久しぶりって感じじゃないですけどね」

『かもしれませんね して今回はどんな御用でしょうか』


 司書さんは小首を傾げながら私を見据える。一緒にスケブも傾げているところがなんとも司書さんらしい。


 私はまず、ずっと抱えていた本とプレートをカウンターに置く。


「借りてた本の返却です。手続きお願いします」

『預かりますね』


 出されたものを受け取り、司書さんは貸し出しカードとプレート、大きな台帳を並べ、本の出入りを記録する。一通り書き終えると、カードを台帳に挟んでプレートを返してくれた。


『確認しました こちらはお返しします』

「ありがとうございました。んで、本は今戻すんですか?」

『いえ のちほどゆっくりと 時間はたくさんありますから』

「ゆるいですね。……あと、別の用がありまして」

『はい なんでしょう』


 プレートを胸ポケットにしまい、気持ち程度に姿勢を正す。私の異様な真剣さが伝わったのか、司書さんの表情も締まったものに。

 動悸を抑えるため胸に手を当て、呼吸を整えて本題を切り出した。


「司書さん、教えてほしいこと、あるんです。もしかしたら『お前何言ってんの』ってなるかもしれないんですけど、その」

『大丈夫ですよ そんなふうには思いませんから』

「その辺は信じてるんですけど、まあ念のためってことで。

 ――私が訊きたいのは、この図書館のことです。それと、司書さんについても」


 用件を聞いた司書さんはしばらく考え込むように動きを止め、何度もあごに手を当てながらペンを走らせる。


『どうして それをきくのでしょうか』

「……色々、妙なんですよ。ワンダーランドに迷い込むような感じで、不思議なことばっかりなんですよ」

『たとえば?』

「まず、この図書館。元々この土地にないんですよ。ここに来るための林道も、本当はあるはずがないもので。しかも来るときは必ず霧がかかってる」


 司書さんは少々戸惑い気味で、書く速度が少し落ち始めた。一旦書き終えるは待たず言葉を続ける。


「それと、この図書館、めっちゃ広いですよね。外から見ても相当なもので」

『×林道に関し ×霧のことなん ええとても広いですよ』

「……すいません、一方的に話しちゃって」

『いえ どうぞ続きを』

「じゃあ――で、広さに関してなんですけど、これも変だなって。外から見た広さと、中にいて感じる広さが全然違うんですよ。現に――」


 私は受付の前に立ったまま、左右を何度も見る……しかし。


「壁、見えないですよね。私の真横の方向に棚はないのに。すごい違和感あるなって、前来た時も思ってて」

『それは』

「あるはずがない、その上中は異次元空間かってくらいに広い図書館。そんで……」


 ――これを言えば、もう司書さんとの関係は終わるかもしれない。


 たった一度出会っただけ。面識も全然なくて、ほんの少し喋っただけの仲だけど、図書館ここで穏やかな時間を過ごせなくなるかも……そう思うと身体が震えて言葉に詰まってしまう。


 それでも……それでも。


「――に、似てるんです。というか同じなんです。司書さんが、私の親友、霧ちゃんに。五年前にいなくなってしまったあの子に」

「……っ」


 私は知りたい。謎があるなら突き詰めたくなる。この空間に隠された真実を。


 もう止まることはできない。猛る衝動に身を任せ、司書さんの肩を掴む。決して逃がさない、離さないように。掴んだ瞬間、司書さんの身体が跳ねた。――心中で何度も謝りながら、最後の一撃を。


「教えてください。司書さんが知ってる、ここの全部を」

「……ぜん、ぶ」


 最初の邂逅以来、司書さんが口を開いた。澄みきった、鈴の音のような声だった。

 一瞬感ど……もとい驚きのあまり飛び上がりそうになったが、ここはぐっとこらえる。


「はい。なるべく、というか、話せる範囲で、ってなるんですかね」

「……ん」

「それで……どう、なんでしょう」


 司書さんをまっすぐに見つめて返答を待つ。


 ここまで来たなら、どんなことになろうと受け入れなければならない。普通意味の分からないことを言われながら詰め寄られたなら、罵詈雑言を吐きながら突き飛ばすものだろう。私はそういう目にあっても文句は言えない、なぜなら加害者側だから。


 最後の最後にできるのは、祈ることのみ。いい返事がありますようにと。


 ……。


 …………。


 ――どれくらいの時間が経ったのか。肩を掴んだまま二人とも固まって、もう何時間もそうしていたような気さえする。


 気まずい静寂を先にやぶったのは、うつむきがちだった司書さんだった。


「――いい、よ」

「ッ!? マジすか!? いや脅した立場で言えることじゃないっすけど本気で言ってます!?」

『木当です ただ全部となりますと時問がかかります』

「全然大丈夫です! 何時間と聞くんで!」

『わかりました ではついてきてください 見せなければならない場所があります』


 司書さんは肩に乗った私の手を優しく剥がすと、無地の本を抱えてカウンターを出た。トントンとかかとを鳴らし、片手で服装を正す。納得のいく仕上がりになったようでうむと頷くと、私を一瞥して歩き始めた。


「きて」

「う、うん……」


 その時の司書さんの瞳は、私の知ってる司書さんじゃない『色』が宿っていた。穏やかじゃない、冷たく、あらゆるものを見透かしているような……そんな、色。


(ちょっと怖かったな……)

「はやく」

「あっ……うす」


 いつまでも立ち止まってる私を急かす司書さん。足を止める気配はなく、一切の躊躇なく本棚の森に踏み入る。少しでも目を離すと見失いそうだ。若干気おくれしながらも、私は黙って司書さんの後を追う。


 前もこうして司書さんについて回ったけど、今回はそれ以上に時間がかかっている。分け入っても分け入っても本棚ばかり。進んでいるはずなのに、全く進んでいる気がしない。それほど同じ光景を見続けている。


 ――歩いて、歩いて。終始無言で、ただコツコツ鳴らしながら歩き続けて。


 足がくたびれてきた頃、永遠に続くと思われた通路に、ようやく向こう側――壁が見えてきた。ここでは時間が意味をなさない、だから何分歩いたなんて分からない。ただ、体感で言っていいなら、多分一時間以上は歩いていた。


 壁はあまりにも大きく、横方向の限界が全く見えない。そこはこの図書館ならではか……と受け入れつつある自分がいる。

 そのどでかい壁に、小さな扉が一つ。二メートル程度の高さで人ひとり分の幅しかない。


「ここ。ぇ、っと……とても、だいじな、へや。だから、ね……」

「あまり物には触れないように、ですか?」

「……! ぅん、おねがい」


 久しぶりに言葉を交わす。疲れで頭がおかしくなりそうだったから、声が聞けただけでも気が楽になる。


 司書さんは扉を前にして袖のところから一本の『鍵』を取り出した。よく知る鍵の形ではなかったけど、今取り出したのなら鍵だと言わざるを得ない。鍵先の形が花を模しているように見えるけど、あんなので開くのだろうか。


 私の心配をよそに、扉に唯一空いている穴に鍵をさし込み――ガチャリと開錠の音がした。鍵をゆっくりと引き抜き、ドアノブを回し、押し開ける。

 空いた瞬間、部屋の中からまばゆい閃光が漏れ出てきた。あまりのまぶしさに思わず目を覆ってしまう。そんな中、コツコツと司書さんが先行するのが聞こえた。目は大丈夫なんだろうか。


「き、霧ちゃん、ちょっと待って……!」


 どうにか薄目を開け、思い切って光の中に飛び込む。光が私を包み、しばらくすると光に慣れてきて――。


「うぅん……んっ、なんか見え……こっ、これ、は?」


 私の目がとらえたのは、ある意味想像通りに、想像以上のものだった。


 真っ白な空間と、規則正しく並ぶ本棚。ただし、並べられている本の背表紙は全て無地……司書さんが持っているのと同じデザインだった。


 その中央に佇むは、この図書館の司書さん――なのだけど、雰囲気が、まるで違った。私からは背中しか見えない。けど、まるで別人のようで……。


(……違う、そうじゃない。この人、この雰囲気なら、私が知ってるあの子だ……絶対んにそう)


 ――ずっと巣食っていた違和感が消え、ラストピースがはまった感じだ。


「ここが――図書館の中枢。びっくりするほど普通でしょ? でも、とっても大事な場所なのよ」


 そう言って、髪をふわりと舞わせながら振り返る。


 ――嗚呼、本当に。私は初めて、心から神に感謝した。まためぐり合わせてくれてありがとうと。


「感想を聞かせて……深優ちゃん」


 目じりに浮かぶ一雫を指でぬぐって、せいいっぱいの笑顔で答えた。


「こういうのがいいんじゃんか、そうでしょ――霧ちゃん!」

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