「……――……――――、……、……――……――」


「また聞こえてきた……サイアクなんですけど」

「アタシはなーんも聞こえてなーい」


 ――地獄のような夜が始まって、大体二時間くらい経った。と思う。


 思う、というのも、持っていた時計が全部おかしくなってしまったから。うちらのスマホの表示時間、ミク持参のパソコンのものでさえ変になった。朝だったり昼だったり夜だったり……つまりあてにならないってこと。


 その間ずっとラップ音が鳴り続け、止んだと思ったら歌が聞こえ、歌が止むと……とクッソ気分の悪いループが起きていた。おかげで体内時計もめちゃくちゃだ。


「はーすげー。すげーけど怖すぎ。動画ネタとして申し分ないけど」

「こんな時までとは恐れ入る。ミクなら天下取れるよ」

「いやいや、ないない。それに使えないってこんなの」

「ヤラセ的な? でもスマホとかの時計ってかなり正確なんじゃ」

「自動設定機能切れば多少どうにでもなっちゃうから。でもま……」


 ミクは憎らし気に狂った時計を睨み、チッと舌打ちした。


「アタシらからすると最高にサイアクなんだけどな。今マジで何時なんだよ」

「分かんね。窓の外はずっと暗いしなぁ――あっ、そっか」

「んー? 歌子サンなんかひらめいた感じ?」


 ここでようやく、もっとも簡単かつ優先するべきだった案が頭に浮かんだ。


「外出りゃいいじゃん。荷物は後で回収すりゃいいんだし」

「……ホントじゃん。歌子天才じゃん!」


 さっきまでの出来事が思考を支配していたんだろう。あまりに強烈すぎて『逃げる』の選択肢が完全に消え失せていた。


 決まった後の行動は実に早かった。必要なだけ荷物を持って部屋を出た。


 ――ところまでは良かったんだけど。


「……ん? はぁ? ちょっ、えっ?」


 ――ガチャガチャ……ガチャガチャ……。


「歌子ー、早くしてよ。なにもたもたしてんの」

「いや、あのな、言いにくいんだけどさ」

「もったいつけないで」

「じゃあ言う。開かん。ノブ回して押しても引いても開かん」

「引き戸ってオチじゃないの?」

「ここのドア最初に開けたのミクじゃん。ボケにしてもクオリティ低いぞ」


 なんて言い合っているが余裕などこれっぽっちもない。こうしてテキトーに話してないとすぐ発狂してしまいそう。


(開かないってマジか? くそ、びくともしねぇ……もしかしなくても、開かないんじゃなくて閉じ込められてる?)


 ここにいる『何か』がうちらを外に出さないよう働きかけているんだろうか。一体何の目的……まあ、いきなり知らんやつ家に来たらキレても仕方ないか。キレたのかは知らんけど。


 私心に対する呆れ、現状に対する恐怖、帰れないかもしれないという焦り。

 色んな感情がぐっちゃぐちゃに混ざって、頭の中もぐちゃぐちゃになる。


「……? ミク……?」


 ドアのくだりからミクが静かだ。こういう場面だとパニックになってめっちゃ喋るのに。

 なんの躊躇も思慮もなく振り返った。なぜミクが黙っているのか、それしか頭になかったから。


 結論から言うとすさまじく後悔した。せめてもう一声かけるべきだった。


「おいミク、なにお嬢様みたいに静かになっ、て……」

「う、うた……アレ……なに?」


 ミクはずっと廊下の向こうを見ていた。震える手で指さして。


 一番奥の部屋、空きっぱなしのドアのその向こうに何かが潜んでいる。

 暗闇に目が慣れていないのに、なぜか、『それ』の形が分かった。


 『それ』は間違いなく人ではない。どこの世界に全身曲がりくねった人間がいるというのか。胴体も、腕も足も、ぐにゃりとひん曲がっている。その上普通の人の二回りも影は大きく、手足の数が多いようにも見える。


 端的にいえば、そう……異形の化け物。自分の目が信じられない。とても現実のものとは思えない。

 こちらに気付いているのかどうかは分からない。その場で蠢いているだけで、害はなさそう。……精神衛生上は有害そのものなんだけど。


「み……見えてる、よね?」

「ばっちり見えてる。なんつーのアレ……合成に失敗したモンスターじゃん……」

「笑かそうとしてない?」

「頑張って和ませようとはしてる。どう、かな?」

「ぜんぜん怖いけど。てか一歩も動けないんだけど。というか腰抜けそうなんだけど!?」


 ちょっと話しただけで調子を取り戻せたようだ。朝のような空元気で、テキトー言ったかいがあったというもの。


 ――ただ、語気が強くなったのだけはダメだった。


 若干半狂乱になりつつあるミクの言葉にヤツがピクリと反応した。一瞬蠢いていたのが止まり、うねうねの先っぽがこちらを向いたのだ。


「…………もしかして、まずった?」

「っぽい。こっち、見てるし」


 手の力が抜けてしまい思わぬタイミングで荷物をドサッと落としてしまった。


 その瞬間。


 ――ザッ……ズ、ズズ……。


 『それ』が巨体を引きずり始める。上体を前後させながらすり足のようにズルズルと。


 暗がりから出てきたそいつの顔は、やはり、人ではなかった。皮膚がただれ、鼻や耳はそぎ落とされていて、口はだらんと開きっぱなし。


「「ひっ……!」」


 思わず抱き合ううちら。地震が起きているんじゃないかと錯覚しそうなほどにガタガタで、血の気が引きすぎてお互いの手が異様に冷たい。


 その場で動けずにいると、かすれた歌声がまた響きだした。まるで、うちらの終わりを告げるかのように、ずっとずっと。


「やややヤバイよ……出られないし動けないしヘンなのいるし。アタシら詰んだ? 死ぬ?」

「んなわけあるかっ。まぁなんも思い浮かばんけど!」

「なんかあるでしょ! 歌子こういうの詳しいじゃん!」

「詳しいわけあるか! ただのゲーム好き映画好きの一般人だっての!」


 恐怖が全身を支配している割には口が回る。いや違う、口しか動かないのか。現実から逃げるほかすることもないのだから。


 思考が絶望一色に染まり――そうになった時。ふと思い浮かんだのは。


(……待て待て、待て! 『アレ』が何なのかはわっかんないけど、歌の正体は絶対アレだ!)


 今日の出来事が走馬灯のように思い出される。その際に見えた、憶えていた光景が、光明のようにハッキリ目に映し出された。


「ミク、うちが合図したら走れる?」

「走るってどこに!? ヘンなののせいで戻れないんだよ? 家からも出らんないし!」

「二階! 憶えてる? 二階で見つけたヤバイ儀式っぽいやつの、あそこまで」

「それマ!? 行ってどうすんの!?」

「アレを壊す!」


 もしかしたら歌が引き寄せた、あるいは作り出したのが『アレ』なのかもしれない。

 だったら、歌っている女性の霊が封じられてそうな、あの祭壇を破壊すれば、あるいは。


 ミクに同意を求めたけど、返事を待っている場合じゃない。今走ればまだ階段には間に合う。ヤツはまだ部屋を出きったわけじゃない。


 意識を足に集中する。そして強く強く、口に出して念じる。


「頼む、動け、動いてくれ……歌子、お前の足はまだ動くだろ……!」

「歌子、もしかして本気で……?」

「動くんだよ――動けッ!」


 ダメ押しに足をブッ叩く。するとふっと重りが取れたように軽くなった。


 行ける、走れる。今しか――ない!


「ごめんミク。死ぬ気で足回してくれよ!」

「え、ちょっと待ってまだ覚悟とかその他諸々できてな――うわぁ!」


 首を振るミクを無視。腕を掴み、次の瞬間には走り出していた。


 玄関から階段までは一瞬。――怪物は追いつけていない。


 階段を駆け上がるのに数秒。――何度も踏み外しそうになりながら。


 階段から例の部屋に駆け込むまで十数秒。――二階に上がってから歌がうるさくなる。


 ドアを蹴破る勢いで突っ込み、入ると同時に二人してスッ転んだ。


「いっつつ……と、とりあえずバケモンは来てない、な」

「……」

「ミク? 大丈夫?」

「――ダイジョーブなわけないでしょっ! 急に走るなんて反則っ、しかも転ばせんなし! 頭もヒザも痛いー! 歌子なんて大っ嫌いー!」

「そこまで言えりゃ元気だな。っとと、こうしてる場合じゃない」


 ミクをなだめて壁に寄りかからせて、ポケットにいれっぱになってたスマホのライトをつける。部屋を照らし、手足が生えた壁の祭壇の元へ行く。


 夜、霊たちにはうってつけの時間。というのもあるのだろうか、一層不気味さが際立っている。数歩離れた位置にいるのに、ひんやりとしたナニカが伝わってくる。全身にまた鳥肌が立つ。


 一歩、また一歩と近付き、祭壇を見下ろす。ただし長くは見ない。長時間見ていると魂が吸い込まれそう、と思ってしまったから。


「……――……――――、……、……――……――」

(うるさいうるさい……まだどこかから聞こえてくるっ……)


 拳に力を込めた途端、さっきまでとは比較にならない音量で歌が聞こえる。


 そんなに無神経で無遠慮なうちらが気に食わないか。うちだって同じことされりゃ怒るけど、ここまではせんだろ。幽霊なら勝手は違うんだろうけどさ……でも。


「こうしてやりゃあ……さすがに黙るでしょッ!」


 拳――は痛そうなので足を振り上げ、祭壇目掛け思いっきり叩き落す。


 かかとの強烈な一撃は、経年劣化していた祭壇を破壊するには充分だった。真っ二つに割り、乗っていた小道具も木っ端みじんに。

 何度も踏み付け、蹴り飛ばして、踏みつけて。最中歌のボリュームが大きくなったがお構いなしに破壊行為を続ける。


「……――……――――、……、……――……――! …… ―― ……――――   」


 一分と経たない内に、祭壇は見る影もなくなった。ライトでちゃんと壊れたことを確認する。もう、ただの残骸、ゴミだ。

 手足のオブジェはどうしようかと悩んだものの、結構頑丈にできているから今はスルーでいい。目的のものは始末できたのだから。


 そして。


「……大分、マシになったな」


 うるさいくらいに聞こえていた歌は徐々に小さくなっていた。バンドの爆音ライブほどあった音量は、今や虫の鳴き声ほどにまで。さらに風より、草木のざわめきより小さくなって――。


「うるさいのが、なくなった……?」

「……ミクもそう思う?」


 と訊くと、ミクは小さくうなずく。


 今はもう、聞こえない。どこからも、何も。部屋にはうちらの呼吸音と、心臓の鳴る音以外、何もない。


 ――そうか。


「うちら、勝った、のか。歌う幽霊に、どうにか」

「は、はは……歌子サイキョーじゃん、さすがゴーストバスター……」

「一般人だっての。その辺のネタかじってるだけの――はあぁ~キッツかったぁ~……」


 終わったと思った途端に力がすーっと抜ける。その場にへたりこんで、ため込んでいた緊張を全部吐き出した。息も気も一気に抜けていく……こういう瞬間の方が魂抜けてる感じがする。






 どれくらいの時間が過ぎたのか。やばいのから解放された安心感が大きすぎてそんなもの気にしていなかった。


 全身に力が戻ってきたのは大分後のこと。まだへにゃへにゃしているミクと肩を組んでゆっくりと部屋に戻る。


 一階に降りる前に下の様子を見たのだけど、謎の怪物はいなくなっていた。『アレ』は本当に何だったのか。お化け屋敷にたまにいる、たちの悪い驚かせ方をするイヤなヤツ、ってところか。


 ミクを寝袋の上に寝かせ、とりあえず毛布も掛けておく。


「ごめんね、運ばせちゃって。かんっぜんに腰抜けちゃった。腰抜けるってこんな感じなんだね、いいネタだわ」

「……ミクのそういうとこ、結構好き。なんか落ち着く」

「じゃあもうちょっと調子乗る?」

「乗らんでいい乗らんで」

「じゃあやめる。――ああそうだ。PCまだ生きてたら録画チェックしてくれない? さっきのクソモンスター映ってるかもだし」

「見直してどうすんの……まあ見てみっか。お借りしますよーっと」


 パソコンはまだ部屋の机に置きっぱなしだった。荷物としては大きい方だし、飛び出した時には持っていけなかったんだろう。そりゃそうか、少し重いし。


 電源は……問題なく入った。後ろのミクの指示通りに操作してカメラの映像を一つ一つ確認する。


「こうやって見ると結構設置してたんだなぁ……おっ、ミクの動画撮影のも残ってる。音量マシマシで見るー?」

「そっ、そこはいいからっ。早送りでチェックして!」

「はいはーい。玄関と、廊下のとこの――ここだな」


 映像はうちらが玄関でもちゃもちゃしているところから再生。慌ててドアを開けようとしている……相当マヌケに見えるな。消しておこっかな。


「なんか恥ずかし――っ、来た。あーあ、映ってやがるよ」


 一階廊下部分のカメラに切り替えると、うちらに迫っていた『アレ』がバッチリ映っていた。ちょこちょこノイズが混ざっているけど見れないほどではない。玄関の方に戻すとノイズはない、霊が映り込む時の特有のものか。ほーん、こういうのって編集じゃないんだ。


 うちらががしっと抱き合い、まもなく走って二階へ。『アレ』は階段下まで追ってきていたが、上がってくることはせず、じっと上を見ているようだった。


「どう? どこまで見た?」

「うちらが二階に逃げたとこ。ヤツは一階にずっといる。追ってこなかったみたい」

「そいつはよかった。例の部屋はどんな風になってる?」

「今見る――お、ちょうど祭壇ぶっ壊してるとこ」


 画面をまた切り替えて祭壇の部屋に。まさにうちが踏んづけてる最中で、粉砕音と歌がかなりうるさく聞こえる。


 破壊終了後、うちらがへたりこんでいる時。

 何かないかとじーっと見ていると、映像にすさまじいノイズが混ざり始めた。


 最初は部屋中央に小さくあっただけのものが、だんだん画面いっぱいに広がり、しまいには録画映像がほとんど見えなくなってしまった。


「……なぁミク、カメラって結構新しめだったよな。めっちゃノイズ入るんだけど」

「新しいどころか一昨日あたりに買ったばっかだよ。――ってちょちょっ、歌子画面、画面見て!」


 ミクの方を見ていたら突然、パソコンを指さして慌てだした。

 流されるまま画面を見直すと。


「……は?」


 映像は、まだうちらが部屋にいるのを映している。そこは普通だ。


 ――うちの真後ろに女の人が立っていることを除けば、だが。


 見た目は普通の人。べたな白服にクッソ長い髪の霊とかじゃなくて、ニットセーターにスカートの短髪の女性。


 しかし、あの場にはうちとミク以外はいなかった。そもそも映像だとミクの目の前にもいることになる。そしてあの時、ミクは『誰かいる!』とか『さっき誰かいたんだよね』とも言ってない。


 確かめるように振り返ると、ミクはふるふると首を振った。見開いた目から伝わってくる。

 『あの場にはこんな人いなかった』。と。


 ノイズは女性を中心に広がっている。とすれば、この人が歌の霊なんだろう。

 うつむいているせいで表情を見ることはできない。口が動いているように見えるが……ノイズ音のせいで声を拾いきれていない。


 でもそれも、一秒経つごとにクリアになっていって――。


 女性の声がしっかりとスピーカーから聞こえた瞬間、全身が、思考さえも凍りついた。背後でミクの息を呑む音も。……同じ気持ちだろう。


『でろ と いったのに

 

 子守歌は終わった


 もう でられない』


 そこまで聞こえた途端、女性は一切動かず音もなく消滅した。それからうちらは部屋を出て……あとはこれまでの行動通り。


 …………。


 まさか。


「もしかして、うちがやったことって……ねえ、未来」

「アタシは間違ってない、と思うよ。ああするしかないって考えたんでしょ? じゃあ責めない」

「……あり、がとう」

「でも、これからどうする? カメラずっと、そんなだし」


 ミクの力のない声が耳に届く。


 今、パソコンはリアルタイムでカメラの映像を見せてくれている。


 画面は、これこそ魑魅魍魎と言うべき惨状が映し出されていた。


 廊下には『アレ』に近いやつらが跋扈し、うちらの部屋以外の部屋では霊らしきものが身体を喰いあっている。


 そして、うちらの部屋の前に、『アレ』が立ち尽くしている。首を三六〇度回しながら、ずっと。


「やっぱ、来るべきじゃなかった、こんなとこ。終わってる」

「……ごめん」

「こっちも責めてない。悪化させたの、うちだしさ」


 それ以上、二人で言葉を交わすことはなかった。お互い言うことが、尽きていた。


 ここから出ることはできるのか。どうやったら出られるのか。

 なんて考える余裕は、完全に消え失せた。

 恐怖も、それを超越して無感情に。何も感じられなくなっていく。


 ――ああもう。


「どうだっていいか。どうせ、逃げられないんだから、さ……」


 私はパソコンの電源を落として。


 ミクに寄り添うように寝転んで。


 何にも云わず。




 静かに目を閉じた。

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