家から一歩も出なくなって二日が経つ。


 親や友達には体調不良と言い、見舞われた時にだるそうにしてみせることでどうにか凌いできた。この間のようなことにならないよう、尖ったものや重い物は全部部屋から出しておいた。


 明日は道具の始末ができる日。ようやく全てを終わらせられる。


「結局こんなもんよ。誰かのいたずら程度のものってことよ、ふ、ふふ……」


 慣れないひきこもりをしたもんだから変な笑みが出てしまった。すぐ我に返って頬を何度も叩き正気を取り戻す。あとちょっとなんだから、しっかりしなさい私。


(にしても妙ね。急に何も起きなくなるなんて)


 対策しておいたおかげかもしれないが、本当に何も起きなかったのだ。変な物音一つなく、怪我するようなこともなかった。いいことだけど、私が置かれた状況から見ると明らかにおかしい。

 それに例の紙も。キモイこと書いてあったけど未だにアクションがない。手の込んだ悪戯か? なんともみみっちい。


 ……いやいや、違う。何もなくていいんだ。何事もないのが一番だって。



 気になることはもう一つ。道具の始末について。

 木像とマットは現在、部屋の勉強机の上にほったらかしになっている。本当なら、昨日に処理し終えていた。はずだった。


「どーいうわけだか失敗したのよね……」


 像を埋めようとするときに限って親の目が離れなかったり、マットを燃やそうとすると全然火がつかなかったりで始末できずにいた。したいことがある時に限って都合悪くなるのはあるあるだと思うけど、今回のは違う気がしてならない。


 期日を守れ。誰かに強いられている、そんな感じ。

 それならそれで。待てばいいだけ。


 ――なのになぜだろう。不安が全くぬぐえない。まとわりついた『何か』は、ずっと取れないままで。

 部屋の中は私一人。なのに、心が警鐘を鳴らしっぱなし。心臓が高鳴ったまま。


「なに……なんなのよ……」


 しかし強い警戒心とは裏腹に、その夜は異常なまでに寝るのが早かった。

 生きている内で一番最悪の夢を携えて。




 私は花畑の中を歩いていた。色とりどりの広い絨毯を、風に任せてゆったりと。

 華やかな香りが私を包み、気持ちよさのあまり目をつむる。ふっと身体が軽くなるような感覚とあいまって気分は最高潮。


 しばらくすると風が止み、心地よい香りも立ち消えてしまった。不思議に思い目を開けると、信じられない光景が広がっていた。


 ――空は赤黒く、花畑は灰と化していた。次第に色が消え、白黒の世界になる。


「うそ、なにこれ――きゃっ!」


 突如『ドォン!』と爆音が。灰があちこちで舞い上がり、飛んできた灰が身体を叩く。最初は乾いた感触だったのが、途中から生温かいべちゃっとしたものに変わる。おそるおそる確かめてみるとそれは、


「……ひっ。ちっ、血……! やだっ!」


 拭っても拭っても次々降りかかってきてキリがない。いつからか抵抗を止め、服も髪も真っ赤に染まるのを受け入れていた。力も抜けてぐったりしていくのも分かった。

 その時。



 ――ピチャッ……ピチャッ……。



 爆音に混じって小さな足音が聞こえる。少しずつ、私に迫ってきている。

 正体を確かめるだけの気力はなく、近付くのを許してしまった。

 

 視界の端に『それ』の足が映る。靴は履いておらず、まるで枯れた木の根のよう。ぎょっとしたが身体は固まったまま、逃げるという思考にすら至らなかった。


「……ぁ」

『――……』


 『それ』は身をかがめ、私の耳元に口を寄せる。しきりに何かを呟いているが、はっきりとは聞こえない。

 その時の私はどうかしていた。せめて何を言ってるかは暴こうと耳を澄ませてしまった。


『…………だ』


 声がだんだんハッキリしてくる。


『……ま…………だ』


 私の頭に刷り込むように。何度も何度も。


 全てを聞き取ってしまった瞬間、全身に凍気がサッと走って――


『お前は 

  我のものだ』


 意識が、途切れて。


 


「――――あっ」



 気付いたら部屋にいた。



 見えるのは真っ白の天井。私は汗びっしょりでベッドに寝転んでいた。時計を見ると深夜二時。嫌な時間に起きてしまった。


「はぁっ、はー……ゆ、ゆめ……夢か…………」


 あれは夢。そう言い聞かせる。

 心なしか部屋全体の色が薄いように見える。まだ身体中に血の感触がある。


 あの世界での感触が残っている。頭が勝手に思い出して、何度もリピートしてしまう。


「うっ、気持ち悪っ……」


 言いようもない感覚。頭と身体の中、全部かき混ぜられているような。その上、あの言葉が追い打ちをかける。


 ――お前は我のものだ。


 低くしゃがれた、聞くだけで震えあがるような声。

 一体どういう意味なのか。文字通りだとしても誰が――いや。


「考えるまでもない、か」


 恐怖に支配されているわりに、思考はかなり落ち着いていた。おかげで、ともいうべきかな。

 狙っているやつに心当たりがあるじゃないか。


 儀式で降りてきたであろう『神』だ。もう間違いない。


 でも、私の中に一つだけ、疑問がふつふつと浮かんできた。

 さっき見た夢が引っ掛かってしょうがない。内容が何かの暗示じゃないかとか、正体が分かるかとか、そんなんじゃない。


 ベッドから降り、タオルで汗を拭きながらぼそっと呟いた。


「神サマじゃない気がするんだよなぁ」


 なんとなくそう感じるだけだ。

 報いを与えるため、二度としないように。怒っているからああいう光景を見せたのかもしれない。それは分かる。うん私が悪い。


 そうなると、あの言葉はなんなのか。もし神だとして、私を所有して何になる?


「……うぅ、さむっ。寝汗のせいかな」


 突然全身に寒気が走る。ひどい汗をかいてたからそれが原因だと決めつけていたが――虫の知らせと分かるのはすぐだった。


 ――ドタドタドタ……バンッ!


「華奈っ! 起きてる!?」

「ま、ママ? どうしたのこんな時間に……顔色すっごい悪いよ?」


 ママがドアを破らん勢いで開け放ち、真っ青な顔で肩を激しく上下させていた。


 深呼吸するようにうながしママを落ち着かせる。呼吸も整ってきたところで、ゆっくりと、今にも泣きだしそうな表情で口を開いた。


「あのね、お父さんが、ね……」

「パパ? パパがどうかした?」

「――事故に、遭ったって。正面から、突っ込まれたらしくて、重体だって」

「…………え」


 自分の耳を疑った。だってそうでしょ? 家族が危ないと言われたら、誰だって頭が、真っ白に……。


 その後もずっとママは喋っていたけど内容は全く聞こえてこなかった。しばらく放心状態でいると「様子見てくる」とおどおどした様子で部屋を出て、まもなく車のエンジン音が聞こえてきた。




 思考がクリアになるのにかなり時間が掛かってしまった。時計の針は三時に差し掛かっている。


 だが、しかし。私は失意に囚われてしまっていた。

 パパの事故は自分のせい。という考えが脳を蝕み始めた。どんなに別のことで思考を塗り替えても、自責の念が大きく上回ってくる。


 そして『それ』が語り掛けてくるのだ。


『お前は逃げられない』


 徐々に心がひび割れるのを感じる。さっきまであった悲しみが、少しずつ引いていくのも。


『もう、手遅れだ』


 乗り越えたわけじゃない。感情が消えていく。

 あまりに突然で何もかもが追いつかない。

 慌てることもなく、泣き叫ぶこともない。一切の、無。


『準備は済んだ』


 ――ふと。

 『何か』が肩に触れた。人間のそれではない、ざらついた、がさついた、異質な手。


 一寸置いて。


「ぁ……」


 スッ――と、手が私の中に、さも当然と言わんばかりに入り込んできた。頭から肩、背中を伝い腰、足。『何か』と完全に一体になった。深く考えなくても分かった。


 途端に身体の自由が利かなくなり、ストンと力が抜け落ちベッドに倒れ伏す。視界も揺れ、ベッド脇の照明の形すら捉えられない。


「……、…………」


 助けを求めることすらできない。今の私は糸の切れた人形のように動かない。


「――た」


 ようやく声が出た。でも、それは私の意思ではなかった。『何か』が私を通して発したもの。


 次の言葉を理解した時、残っていた心の欠片が恐怖のあまり粉みじんに砕けちった。


「『入った。完全に』。手に入れたぞ、我の肉体を」


 お前は誰だ。強く念じると通じたのか、私の口を介してそいつは言う。


「気付いているんだろう? 我が……私が何者か」


 私は――何かに操られるまま――ベッドから降り鏡の前に立つ。鏡に映る私はなぜだか、顔のあたりが酷く歪んで写っていた。


「どうせ消えるんだから教えてもいいよ。私は、お前が儀式で降ろした『神』。正確にはただの霊だけどね。お前が印持ち……依代となってくれたおかげで、こうしてここに居られる。その点では感謝するわ」


 『何か』は髪を梳き、その場でくるっと回ってみせる。無駄に余裕があって腹が立つ。


「怒りなんてもう失くしたくせに……ああ、言葉の綾か」


 なすがままにしまっておいた像を取り出し、手の中で遊び始める。なるほど理解した。この木像に、この自称神の霊が込められていたんだ。


「ご名答。察しはいいね。あの儀式はね、木像から人の肉体に移るためのものなのよ。その代わり、立会人に未来を見せてあげる。……はずだったんだけど、くだらない悪戯されたから……腹が立って報復したの。不幸と絶望を、ってね」


 鏡像の私が、少しずつ薄れていく。それと共に、私自身が消えゆく感覚が押し寄せてくる。もうじき――


「ええ、消えるわ。もうじき私が『私』を取り込み終わるから。記憶、知識、全部貰う……いいや違うか。元々私のだったかなぁ」


「うんうん。嫌だよね、まだ生きてたいよね。安心して、『私』の未来は私が生きてあげる」




「……聞こえなくなった。現世での生活おつかれさま。後生では行いに気をつけるんだよ、今回のは自業自得なんだから。一介の霊――『元』霊の分際で言えたことじゃないけど、身体取っちゃってごめんね。大事にするね」


 ――さてと。


「生まれ変わった気持ちで頑張りますか。ひとまずパパ助けてこよっと。病院どこだっけ」



【一過性怪異奇譚 『偽神降ろし』】

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