後
あの神社に行ってから嘘のように運が向いてきた。
月一で買う宝くじ五枚から十万円が当たり、ソシャゲの十連ガチャでは最高レアが二回に一回は引けるようになった。え、確率バグりすぎじゃね? ってくらい。実際バグだろこれ。
それだけじゃない。学校生活そのものが上向いてきている。具体的に言うなら、先生やクラスメイトが気をつかうようになった、ってところ。それはそれは不気味なくらいに。その代表例はこれだ。
「……香。あの、今、いい?」
「誰――ってまたお前か。ひっぱたかれたいのか」
紹介しましょう。目の前におられますはいじめグループの大総統様にあらせられます。くたばっちまえ。
ただ私の記憶と違い、しおらしくて相当下手に出ている。誰だこいつは。
「その……私たちのしたことは謝る。だから、仲直り、じゃないけど、えっと……」
「はっきりものも言えなくなったの? そんなんでよく話しかけられたな。あと私が言えた義理じゃないが、自分らのしたこと考えろ。謝って許されると思うなよ――こっちの心も痛んできた。これ以上文句言われたくなけりゃあっち行けバカ」
「そう、だね。ごめん……じゃ、また」
「またはないっつーの。行けって」
強く言うと前のようにすごすご戻っていった。違う点は、戻った後の陰口がないところ。もしかして全員別人の変装なのでは? と疑ってしまうレベル。いや急展開すぎる頭追いつかん。
……このように、常夏から極寒に叩き落されたクラスの温度差で困惑する私なのだけど、唯一変わらないものがあるおかげで正気を保てている。
それが、こいつだ。
「――大変だね、篠さん。最近ずっと話しかけられてるよね」
「そうだね。その内の一人が自分だと気付いてくれると私は嬉しいよ、浦波さん」
「うん、気をつける。でも席近いから仕方ないような」
「ちょっと控えてくれればいいから……落ち着きたいのよ……」
なんやかんやあって助けた同級生、私の前の席にいる浦波だ。なにかと話しかけてきて、どんなことを言っても授業をまたげばまた声を掛けてくる。
私と浦波はそういう関係じゃない。元々私は加害者側で、彼女は私を恨む側。なのにこうして距離を詰めようとしてくるのだ。何か魂胆が、と疑ったのだが、すぐ分かった。浦波はそういうタイプじゃない。
「そろそろ授業始まるね」
「あーそうだな。だから前向いて黙ってくれ、お願い」
「分かった。じゃあ最後に一つだけ。いい?」
「一つだけだからね」
視線を合わせず言い返すと、浦波はちょっぴり笑みを見せてから顔を寄せてきた。
「えっとね。みんな変わっちゃったけど、私はそのままでいるから。なんでか、分かる?」
「一つだけって……まだ時間はあるか……なんで?」
「私を庇ってくれて、それに、見返りを欲しがらなかったから。篠さんっていい人だなって、思って。だから変わらないよ――ありがとう、篠さん」
「そう……せ、先生来たよ。ほら、前向き」
いいタイミングだ、ごまかすのにピッタリ。あんまり正面切って言われるもんだからこっちが照れくさくなってきたところだ。全く何なんだこの子は。対処しきれん。
授業が始まったおかげで顔を見られずに済んだが、多分、私の顔は熟したリンゴみたいに赤くなってただろう。今だけ感謝するよ、先生。
「――てことがあってさ。聞いてるこっちが恥ずかしいのなんの。ここ来るまで赤いまんまで大変だったわ」
「ほー、香は中々の女たらしじゃのう。将来は安泰じゃな、わしが保証しよう」
「そんなもんいらんて! あとたらしこんでもない! そういうんじゃないって……!」
ごたごたから逃げるため神社に駆け込み、七ちゃんにその日の出来事を全て話した。七ちゃんは時に真剣に、時にこうして茶化して聞いてくれた。おかげで気分がかなり良い。私の顔色伺ったりもしないしね。
最近は家や学校より神社にいる方が心が安らぐ。神聖な雰囲気や騒音のない空間、なにより七ちゃんの存在。他の誰よりも気楽に話せる。たった数日の付き合いなのに古くからの友人に思えてきた。
「にしても、かなりツイておるようじゃの。参拝の成果が出ておるのかのぅ?」
「うーん、どうかな。あんまり」
「そうか? 聞いている限りではいい方向に向いているようじゃが」
「それは、まあ、そうね。でも……はぁ……」
これまでの色々を反芻し、思わずため息が漏れる。
「なんていうか、さ。私の都合のいいように動きすぎてるっていうか、正直気持ち悪いっていうか。前に七ちゃん言ったでしょ、『自分で掴め』」
「言うたなぁ」
「だからかな。違和感しかなくて。仕組まれた幸せなんて私には……いらない。幸せになる資格もないしね」
「資格、とな?」
「……ああ、話してなかったね。さっき話した浦波って子のことなんだけど――」
いつの間にやら私は、家族にも話したことない浦波との出来事を打ち明けていた。いじめてたこと、過ちに気付き庇ったこと、そして何もかも失ったこと。私を知らない七ちゃんなら、と言葉がスラスラ出てくる。
「――そうか、だから」
「うん。ふさわしくないって思っちゃって。ごめん、つまんない話で」
「いや、そんなことはない。香、おぬしはすごいな」
「どこが。最っ低の、ただの人でなしだよ」
「自分をあまりけなすでない。立派だと、わしは思うがなぁ」
七ちゃんはすっと立ち上がり、子供をなだめるように私をよしよし撫でてきた。罪悪感でズタズタになっていた心にしみわたる優しさをこめて。
「確かに、香の心は一度落ちるところまで落ちた。じゃがちゃんと間違いに気付き、諸悪に立ち向かい、償った。人として正しい行いをしたではないか」
「……そうかな」
「このお七の言うことが信じられんか? それならそれで構わん。わしはずぅっと香を褒めてやる、やめろと懇願するまでな。どうする?」
「即刻降参する。七ちゃんってさ、おばあちゃんみたいだよね。お節介なところが特に」
「お節介か……くふふっ、そうかもな。――あと一つ言いたいことがある。とっても重要なことじゃ」
頭をぽんぽんとしてから、今度は膝の上に座ってきた。腰に手を回し、向かい合わせの姿勢。私の顔をじーっと見て、くすくす笑う。大人びてるけど、こうしてみると普通の女の子だな。
「おぬし、全てを失ったと言ったな。そいつは間違いないだろうな――じゃが、失ったもの以上のモノを得ている……と、わしは思っておる」
「え、なになに、なにそれ。なんも貰ってないけど?」
「ならわしが教えよう。というか香は朴念仁か? ……っと、今のは忘れろ」
「聞き捨てならんね」
「はいはい。さておき」「おい!」
こほん、と咳払いし無理矢理続ける七ちゃん。あとで覚えとけよ。
「悪しき関係を断ち切り得たもの、それは浦波という少女に他ならん」
「あの子が? なんで?」
「他の連中は表面上だけでの付き合いだっただろう、じゃからちょっとしたことで関係が崩れた。対して浦波少女は香の内面に触れ、本質を見抜いた。おぬしと心から向き合っている証拠じゃよ」
「……」
「最初は香を嫌っていたかもしれんよ? でも、その先どうなるか分かったうえで自分を庇ってくれた人のことを、理解し、赦すことはなんら不思議ではない。香は正しいことをした、当然のことじゃよ。おぬしはな、強く優しい人間を助けたのじゃ。上っ面だけで人柄を見ない少女を――真の『友』をな」
……七ちゃんの言うことに、何も返せない。まるで見透かしたような物言いに射抜かれ、震えていた。私が、心が、奥底で望んでいた言葉がそこにあったから。
――正しいことをした。赦された。私が自ら遠ざけ、避けてきたモノ。もし受け入れてしまえば、また前の私に戻ってしまいそうだったから。だから浦波も拒絶するようにしていた。
――でも、今はっきりした。やっぱり私はそれを求めていた。そうか……だから浦波と言葉を交わしていたのか。もしかしたら、彼女を通して私自身を見ていたのかもしれない。
……そうか。
「私、自分を認めていいんだ。ゆるしていいんだね」
「うむ。そして誇れ、自分の行いを。正しい道に戻れたことを」
「そーする。あと、浦波と向き合わないと。話しかけてくれるの、彼女だけだし」
明日は私から挨拶しよう。いきなり「どっか遊びに行く?」と言われても困るだろうし、まずは無難なところから一歩ずつ。それで、友達になってとお願いするんだ。もしなれたら……そのあとはその時考えよう。
「くっ、くふふ……ようやく元気になったようじゃの」
「なんでもまるっとお見通しか。ちなみに根拠は」
「なんというかのぅ。香が纏う空気があったかくなったから、と言っておこう。よほど浦波少女が支えになっておるんじゃな」
「だからそーゆーものじゃないって!」
「わしが思うに――」
「言い分を聞け巫女幼女!」
七ちゃんは私の胸をトンと叩き、こちらの言うことは全部無視しながらにやりとした。
「妙だと思ったんじゃ。降りかかる幸運を取捨選択できてるか。確信したぞ、浦波少女の影響じゃな。まー彼女がおれば他はいらんじゃろうし?」
「~~っ! それ以上言うと口縫っちゃうぞ!? いいの!?」
「おお怖い怖い、逃げんとなぁ。……いや趣向を変えよう。捕まえてみろ朴念仁!」
なんということでしょう。この幼女、私を煽って素早く逃げたではありませんか。絶対捕まえてやる。
が、七ちゃんが膝から飛び降りた際、妙なものが聞こえたせいで一瞬出遅れてしまった。
『――この調子なら、やつを振り切れるか。あるいは……』
やつ、とは一体なんなのだろうか。意味不明な幸運の雨を指して言ったのだろうか。あとで直接訊いてみよう。まあ、私に聞こえるように言ったことじゃないからはぐらかされるだろうが。
加えてもう一つ、奇妙なことが。
さあ追いかけまわすぞと意気込んで立ち上がろうとした瞬間。ズン……と身体が沈む感覚に襲われた。押さえられた、というより、体重をかけて乗っかられた、に近い。
……そんなわけはない。きっと立ち眩みだ、長いこと座っていたもんだから、そうに違いない。
その後、夕陽がほぼ沈むまでずっと七ちゃんと戯れていた。その間ずっと、脳内はある考えに支配されていた。
――私は何かに憑かれてしまったんじゃないか、と。
「日が沈むか。香よ」
「うん、分かってる」
「姉上たちには親切にするんじゃぞ――顔色が悪いぞ。大丈夫か?」
心配そうに顔を覗き込む七ちゃん。仕草は可愛いけどそれはさておき、不安感が顔に出てしまっていたとは……不覚。私は首を横に振り、無理に笑った。
「へーきへーき。まあ寝ればどうにかなるし」
「睡眠は万病の薬じゃからな。気休め程度じゃが、眠る前にお経でも唱えるといい」
「そーする。じゃあ、またね七ちゃん」
「またな、香。しっかり休めよ」
鳥居を抜けるまではずっと笑顔を取り繕っていたが、階段を降り始めた頃にはすっかり表情が消え、ガチガチに固まっているのが自分でも分かった。
それほどまでにおそろしくて、たまらなくて。家に帰ってもなお、じめっとした恐怖がはがれることはなかった。
この夜は、ほとんど眠れた気がしなかった。
「ねぇ香! お願いだから受け取って!」
「いらないって何回言えばいいんだよバカ! もう勘弁してくれっ……!」
登校してすぐのこと。私はバカ連中に追い掛け回されていた。
どうしてか? 最近成長を続けている過剰な幸運のせいだ。バカが手に持っているのは膨れた茶封筒。何が入っているかというと、
「慰謝料は貰ってくれないと!」
「バカこのヤロッ、そういうことを大声で言うなよ! 色々誤解されるでしょうが!」
「この際なんだっていい。許してくれるんならね。これでいい? はっきり言ったけど!?」
「だからもういいってそれは……あと謝るのは私じゃなくて今までの――」
走りながらひたすら水掛け論。あいつらはずっとこの調子で話を聞こうとしない。謝りたいとか以前の問題で、ただただ迷惑してる。
校内では逃げ場に限界がある。先生に捕まってしまえば終わり。ならば行先は……。
私は足を玄関口に向け、階段を滑るように降りる。その途中。
「え、篠さん? あの、そろそろ授業が……」
「ごめん今そんな場合じゃなくってさ――あっそうだ。おはよう浦波、また今度!」
「は、はぁ……」
浦波に投げやり気味に挨拶をしてから、一日丸ごとサボるのを覚悟で学校を飛び出し、町中に駆け込んだ。浦波、すまん……! 言い訳は任せた!
駅近くの大通りまで走り、人込みに紛れ、信号を駆使してどうにか引き離す。頭も体を落ち着けるため、いの一番で目についたコンビニに身を隠した。
数分か、数時間か。心臓が早まっているせいで時間が分からな……ああ腕時計があった。見ると針は十時目前に迫っている、補習は覚悟しないといけないらしい。
「~~、はっ。意識すると、きゅ、急に息が――はぁ~、つっかれたぁ……」
かくれんぼも混ぜたとはいえ一時間走るのはさすがにこたえる。運動はできても体力は大してない私だ、ロング走はもうやりたくない。
それに、前に増して身体が重くなっている気がする。走ると身体が重く感じるが、それとはまた違うもの。神社にいた際の、のしかかってきた何かの仕業? ううん、それは後々考えよう。とりあえず今は……。
「補給をしたい、なんでもいいから――おっ、あるある!」
奇跡的に持っていた財布を取り出し中身を確認。次の瞬間にはこう思った。
――よし、水分補給だ。
都合のいいことに今寄りかかっている建物はコンビニだ。呼吸を整え、額の汗をぬぐってから入店。
――パーンッ!
「「おめでとうございます!」」
「……は?」
炸裂音と、大量の紙吹雪とテープをもって歓迎された。顔に張り付いて気分が悪くなる。
「お客様は当店開店から一万人目の、記念すべきお客様です! 特別に商品五点を無料で提供いたします! 幸運でしたね!」
「なん、だって……」
私に憑りついている何かはなりふり構わなくなったらしい。こんなありきたりでわざとらしいものを用意するとは。
得体の知れない『何か』の仕業だと考えると、途端に店員たちの笑顔が不気味で気持ち悪いものに思えてきた。耐えかねた私は何も買わず受け取らず、無我夢中で飛び出した。
『幸運』。この単語が嫌になる日が来ようとは。こうも乱雑では恩恵もありがたみもない。もし今宝くじを買って一等二等が当たったとしても、心の底から喜ぶことはできない。いや家計とか将来のことを考えれば嬉しいのは間違いないけど。
下手に動けば正体不明の攻撃に遭うことは確実。現状安全で安心できる場所、といえばあそこしかない。
そう。七ちゃんの神社だ。
見慣れた道を全力疾走し、古い鳥居のもとへ。一度も足を止めることなく階段を駆け上がり境内にダイブ。ひんやりとした空気がとても心地いい。
疲れのあまり膝をつき地面を見つめていると、私の影に別の影が重なった。
まさか、と顔を上げると予想通りの人がそこに立っていた。
「おいおい。香よ、こんな時間になにをやっとる。息も切らして一体なんなのじゃ」
「な、七ちゃん……いたんだ……」
「ここの主じゃからな。それより、学校に行かずここに来るとは、何かあったのか? わしに言うてみい、力の及ぶ範囲で助けてやらんこともない」
一瞬茶化しているのかとも思ったけど、七ちゃんはいつになく真剣。不安に駆られているとはいえ子供に頼ることはしたくない。でも、今は七ちゃん以外では……この際仕方ない。
ちっぽけなプライドは全部捨てて、私はついさっきの異常事態を話した。周囲の人間の態度や環境の変化が明らかにおかしい、自分が正気じゃないのかもしれないとも言った。
答えが欲しいわけじゃない、ただ聞いてほしかった。だけだったのに。
七ちゃんは聞き終えたあと、驚きの一言を口にした。
「――潮時、か」
「しお……なんだって?」
「言葉どおりじゃ。香、おぬしはよくやってくれた」
途端に険しい表情になる七ちゃん。この時の顔は子供のそれではなく――実際に見たことはないけれど――狩人が如く戦意を宿したもの。鋭い視線に射抜かれ、背筋が凍るようだった。
「ひとまずこっちに座れ、んで、深呼吸じゃ」
「う、うん。スー……ハー…………ふぅ」
「落ち着いたな? よし――香、今から大事な話をする。よいか?」
「なに、急に改まって。まあいいけど」
私を拝殿前の階段に座らせると、七ちゃんは背を向けて参道をゆっくり歩き始める。そして、
「香よ。まだ身体は重いと感じるか?」
こちらを見ずにそう訊いてきた。なぜ今それを訊くのか疑問ではあるが、考えがあってのことなんだろう。私は短く「うん」と返す。
「そうか、まだか」
「……七ちゃん?」
「なにも問題はない。なにも、気にすることはないからな」
何度も頷いたのち、ゆらりとこちらを振り向いてふっと微笑んだ。
「香。わしの言葉に集中するんじゃ。他の音は一切聴かず、わしの声に意識を傾けろ」
「わ、分かった」
「よし、では始めるか――まず目を瞑れ」
言われた通りに目を閉じ、幼いながらに芯がある少女の声に耳をすませる。
「次に、自分の内側に目を向けるんじゃ。そして、今一番大事にしているものを思い浮かべろ。香が心から守りたいと感じるものを」
一番と言われても困る。それに私は全てを失って――
「考えていることは分かっておる。何もないと言いたいんじゃろ?
よく思い出せ。学友とのいさかい、その結果多くを失ってしまった。だからここで祈った、『幸せになりたい』と」
そうだ。つるんでたグループに正面から挑んだせいで学校生活が台無しになる事態になった。友達……だと思ってた連中からは見限られ、部活にも支障が。
七ちゃんの言う通り。だからそんな、つまらないものを祈ったのだ。
「その結果はどうじゃった? 学友からは賠償を、なんでもないところから祝いや記念をもらい受けて、どう感じた? 嬉しかったか?」
答えはノー。変に媚びられても心に響いてこない。特に下手に出まくってきたあいつらは不快だった。あそこまでされると過剰演出でしかない。
でも、そんな中一際輝いていたのは……間違いない。
「じゃがそんな違和感だらけの中にも、たった一つだけ『真』だったものがあったはず。それを強く思い浮かべるのじゃ――では訊くぞ。香の、一番大事なものは……なんじゃ?」
大事なもの、それは……。
――この数日、ずっと私を、『篠香』として接してくれて。
――ありのままを受け入れようとしてくれて。
――唯一変わらずにいた……いてくれた、彼女。
浦波だ。多分、そう。罵声を浴びせて叩いて殴ってもいいのに、それをせず、私一個人を見てくれ、赦してくれた。そんな彼女が、今、一番恋しい。
彼女の顔が浮かんできた時、まるで私の頭を覗いているかのような、いいタイミングで七ちゃんがタンと手を叩いた。
「うむ。心は決まったようじゃな。そのままで、いいと言うまで決して動くな」
「んんっ? どういう意味? ちょっ待って何すんの!?」
「じっとしておれ、狙いを定めておるんじゃから」
狙いを――って、本当になにしてるの!? 弓か猟銃でも構えてるのか!?
なんて思った瞬間に。
「――ハッ!」
七ちゃんの喝が響き、同時に、ゴーッと身体を突き抜けるような豪風が吹いた。まだ目は閉じたまま、必死に手すりにしがみつく。……風に混じって、「ひい、ふう、みぃ――」と数える七ちゃんの声が聞こえる。
そして、カウントダウンが「ここのつ」になった時のことだった。
「…………ぁ」
スッ――と肩が軽くなった。気付かないうちに乗っかっていた、重くなり続けていた『何か』が取れた、そんな気がした。
いや、気のせいではなかった。これまた私のことはお見通しと言わんばかりのタイミングで七ちゃんが言ったのだ。
「よしっ、成った、ついに成った! おい香! もう目を開けて良いぞ、そんでわしのところまで走ってくるんじゃ、憑き物がはがれたからな!」
言われるがままにまずは目を開ける。風がまだ吹いているせいでうまく開けられないが、胸元で印を組んだ七ちゃんがかろうじて見えた。
「早くこっちへ!」
「いっ、今行く……!」
身体を起こし、強引に逆らいながら歩く。一歩一歩、体重を思いっきり前に掛けながら、踏みしめて。先の見えない暗闇を歩いているようで、救いを求めて手を伸ばす。
だが、
「やばっ――」
ほんの一瞬、風が弱まった時にバランスを崩してしまい転んでしまった。
顔から叩きつけられる。目を強く瞑り衝撃と痛みに備える……しかしそうはならなかった。
「ほっ。おっちょこちょいじゃの、香は。じゃがようやった」
「な、七ちゃん……! ナイスッ、さすが!」
「ないす? 褒めてくれたのなら素直に受け取るとしよう」
七ちゃんは私を抱き止めたまま、なにやら呪文のようなものを呟く。すると豪風がピタリと止んだ。偶然ではないことは確かで、もはや魔法というのが妥当なのでは。
身体を離し顔を合わせると、「見てみろ」と七ちゃんは拝殿を指差す。私はなんにも考えずそちらを見ると、思わず息を呑み――じゃない、吐きそうになった。目の前に広がる光景が、とても信じられるものではなかった。
「なん、じゃこりゃ……」
拝殿の中で『何か』が蠢いていた。黒い煙、と形容するのが手っ取り早い。煙のようではあるが、ぐちゃぐちゃに成形された粘土のようでもあり、あちこちに腕やら顔やらが生えているようにも見える。
『何か』は這い出ようともがいているものの、扉をくぐることができていない。まるで見えない壁に阻まれているかのように。
「七ちゃん。あ、ああ、あれはなんなの? 気持ち悪いんだけど」
「彼奴は――否、アレはただの化け物じゃよ。さっきまでおぬしに憑いていたものじゃ」
「マ……ジか。一体いつから……」
「おぬしがここを訪れた時から、ずっとじゃ」
唖然とする私に、七ちゃんは袖をくいっと引っ張ってから「すまん!」と頭を下げてきた。――余計に頭が混乱してきた。どういうことなの?
「実は、最初から憑いておるのを知ってたんじゃ」
「…………はぁっ!?」
知ってただぁ!? じゃ、じゃあ最初から分かってて私を?
「なんでとっとと祓ってくれなかったの!?」
「したかったが、できなかったんじゃ。わしにそこまでの力は残っとらんで、アレが弱るか隙を見せるかせんとできんで」
「ああそういう? じゃなくて、いやそれも気になるんだけど――もうっ!」
思考がごちゃごちゃしてきて何を話したらいいか分からなくなってくる。どうにかこうにかまとめて、最初に出てきた疑問をぶつけることにした。
「前から聞きたかったんだけどさ、七ちゃんって何者なの? ずっと神社にいるし、今だって、本当なら学校に行ってる時間でしょ? ねえ、答えて!」
慌てふためく私と対照的に、七ちゃんは冷静な色を浮かべて『何か』を見つめている。すぐに問いに答えず、代わりに私の手をぎゅっと握ってから七歩前に。
「――七ちゃん?」
「見せよう。わしが、何者かをな」
ゆら、ゆら。七ちゃんの背中が揺らいで見える。……いや違う、透明な何かが動いている。目を凝らしてみるとそれの輪郭が見えた。ふっくらとした尻尾のようなものが、一、二……七本。
じっと観察していたら七ちゃんがこちらを振り向いて小さく笑む。さっきとは打って変わって余裕がないようで、口元が少しひきつっていた。
「わしも化け物のたぐいでな。あそこにいる黒いのは、わしの半身だったもの。全てはわしの不手際なんじゃ」
「同じ存在だった、ってこと?」
「認めたくないがな――今のうちに謝っておく。すまなかったな、香よ」
悲しげに目を伏せ、顔を見せまいとしたのか前を向いた。
「おぬしを餌にしてしまった、彼奴を封じ込めるために。なんじゃが、ホントのことを言うとそのまま喰われてしまうと思っていた」
「死ぬって!?」
「ま、まあ端的に言えば。香以前にも憑かれたものは大勢いたが、誰もが死んだ。おぬしもそうなると思って何も言わんかった」
「どうなったの。その人たち」
「おぬしのように、次々幸運が。じゃが最後に、それらを上回る不幸に襲われ、アレに魂を喰われた。たとえ身体が生きていても抜け殻になっとるじゃろうな」
「下手すると私もそうなってたと……気分悪い、吐きそ……」
「しかしそうはならんかった。香が無事なのがその証拠じゃ」
透明な尻尾が徐々に純白に染まっていく。おかげで七ちゃんの正体が分かりかけてきた。尻尾の形からしておそらく狐。すると七ちゃんは化け狐ってことになるのか。
「おぬしはすごいよ。幸せを望みながらも、目先のものに手はつけなかった。その上、偽りの幸福の中から真の幸福を選び取った。おぬしの心の強さがアレをはねのけたのじゃ。謝罪と共に感謝をおくる――これでようやく、終わらせられる」
七ちゃんの姿に、別のシルエットが重なり始めた。大きな体躯の白い狐。見た途端に、心の底から畏怖と尊崇の念が湧いてくる。神々しささえある。
――まさか。ここで祀られていた狐っていうのは、七ちゃんの本当の姿、なのか。
だが、あっけに取られている時間はもうない。
拝殿内に収まっていた化け物の一部が、扉から出ようとしていた。何度も出たり入ったりで、中に戻るたび七ちゃんの足元にヒビが入る。前に話してくれた神通力を使っているんだろうか、私の目には見えない激しい攻防が繰り広げられているんだろう。
その最中、険しい顔で私に振り向き――目には縦のスジが入っていた――声を荒げた。
「香、よく聞け! 彼奴はおぬしの元に戻ろうとしている。わしが抑えとる間に逃げるのじゃ!」
「七ちゃんはどうするのさ!?」
「わしは大丈夫じゃ」
「力が残ってないんじゃなかったの? 七ちゃんも一緒にさ」
「そうはいかん。こいつはケジメなんじゃから」
バッと七ちゃんが手をあげると、再び風が吹き荒れる。風は私を追い出そうとするかのように鳥居に向かって吹いている。逆らうことは難しい、七ちゃんのところまでは行けそうにない。
「今すぐ振り返って走れ。しかし決して振り向くでないぞ、戻ろうとするのも駄目じゃ。前だけを見て外に出るのじゃ」
「で、でも……!」
「くふふっ。案ずるな、いずれまた、会えるよ」
もう限界だ、風に耐えられない。
後ろ髪引かれる思いだけど従うほかないし、身体が悲鳴をあげていた。言われるがまま振り向き、追い風そのままに鳥居まで。
抜け切る前に、声がかき消されるのを承知で私は叫んだ。
「七ちゃん! また明日ね、絶対!」
「――――」
(……え? 今なんて――)
鳥居をくぐり階段に足を掛けてからは滑り落ちる勢いだった。一番下に着くまで数秒しかなかった、そう感じるほどの勢い。なのに疲れは一切なく、汗もかいてない。
自分で降りたというより、ワープさせられた。そう言われた方が信じられる。
「……いつもの場所」
顔を上げて最初に出た言葉はそれだった。ちらほら建物があって、道路がある。標識がある。ところどころに木々がある。よくある道中の風景そのもの。
――振り向くでない。
七ちゃんの言葉。思い出すと無性に後ろを見たくなってきた。
一体どうなるというのか。もう外に出たんだし、見上げるくらいならいいんじゃないか?
恐怖より好奇心が勝り、私はゆっくりと、振り返る。
――しかし、目に映る光景は、予想とは全く違うものだった。
「…………なにも、ない……?」
最初に私を出迎えてくれた、色あせた鳥居が、なかった。あるにはあるが、根元から折れた残骸のみ。見た感じ、崩れて数年は経っているように見える。
そして、階段。階段が、ない。地面には草がびっしり生えていて足場がない。元々は――私が今まであったと思っていたもの――石段だったから、見間違えなどありえない。段々にはなっているようには見えるので、かつては階段だったんだろう。
「そんな、ありえない。じゃあ、神社は?」
少しだけ踏み込んで見上げる。が、無造作に伸びた枝のせいで鳥居のトンネルが見えないし、当然一番上も見えない。上って確かめたいけど、足場を確保できないんじゃ頂上に到達するのは難しいだろう。
じゃあ、今まで私はどこを通って上に行っていたんだ? そもそも上があるのか?
「――いや、思い返せば、最初からおかしいじゃん」
私はこの道を通り慣れている。十年以上歩き続けた道、神社があるなら知っていたはず。
つまり、だ。
「神社なんてなかった。そうだ、なかったんだ」
なら、あの神社は、七ちゃんは……?
今となってはもう分からない。現状確かめる方法がない。
呆然と見上げる私の頭の中では、最後に聞こえた七ちゃんの声がぐるぐる回っていた。その声も、本当に聞いたものなのか。
――もう、どうでもよくなってきた。
『会えてよかったよ。さよなら、香』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます