犬も食わない・ネバーランド・囲碁

 囲碁盤に石を打ち付ける音が静かに部屋の中に響いた。いわゆるスーパー銭湯の中にある、一部屋だ。温泉につかり終え、その火照ったからだが静まるのを各々が思うがままに過ごす部屋。年齢層もばらばらで、客の空気も統一感などなくある意味無法地帯なその一室の片隅で、数人の人間がその囲碁盤とにらめっこをしている。特に真剣なのは囲碁盤に対面に座る男性ふたりだ。片方は初老の男性。よくこの場所で囲碁を打っている印象が強く、囲碁を打ちに来ていて温泉はきっとついでなのだと思われる。片方はまだ若く30代に乗らないくらいの若者だ。こちらは見たことがない顔で囲碁を打てるのかと不安になるくらいのイケメンだったりする。いや、囲碁を打つのに顔は関係ないのは分かっている。しかし、絵面のイメージというものはそう簡単にぬぐえたりはしないのだ。

 囲碁が趣味であり、そこそこの実力者であるはずの初老の男性に30代の若者は負けていない様子だ。囲碁のルールが分かり、盤面を見ることで把握しているのではない。その取り巻きの反応がその勝負が拮抗していることを教えてくれているだけだ。

「いや、犬も食わないような一手だ」

 そう誰かがつぶやいたが、意味が分からない。その石に食らいつく必要性がないがのちのち重要な一手だとでもいうのか、それとも打つ必要がない悪手だとでも。いやそれだったら勝負が拮抗するはずもないか、とわけのわからない思考の渦に飲み込まれそうになって、ドツボにハマる前に考えるのを止める。

「なあ。頼んだ定食まだできないの?」

 お客のひとりがわざわざカウンターまで訪れて催促を入れてくる。いや、決して囲碁の様子に夢中になって配膳するのを忘れていたわけではない。仮にも仕事中だ。それぐらいはわきまえている。

「あ、はい。今お持ちしますので」

 そう適当に流してしまったのは囲碁の辺りから歓声が聞こえたからだ。

「おい。まじかよ。やったな若者!」

 どうやら勝負がついた様に思えた。見知らぬ人たちの周囲に不思議な連帯感が生まれている。その光景をこやって仕事の合間に見るのがなんとなく好きであり、この感覚があるから辞められないのだ。

 スーパー銭湯『ネバーランド』。その中は今日も平和でトラブルなんて蚊帳の外だ。

「おい!まだなのかよ!」

 そう今日も平和だ。

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