教祖・凶弾・強烈

 そのニュースが流れたのは聖夜のことだった。賑わいを見せる町を報道するニュース番組が急に切り替わって、緊迫した空気が流れていた。

 ある新興宗教があった。まあ、言ってしまえばありきたりな存在で、複雑な現在社会から逃れる様にできた単純明快な理念をもとに動いていた団体。要は幸せに生きたい。いろいろなことがあってもすべては試練で、それを乗り越えることで幸せになれるのだと、そう説いた。別に間違ったことは言ってないと思う。全ての障害を乗り越えることが出来ればそれは勝ち抜いたと同義でありそれは資本主義において絶対の正義だ。

 しかし、ほとんどの人達がすべての障壁を乗り越えることなんてできない。なぜなら、勝ち抜けるのはわずかだからこそ勝ち抜けたと言う意味を持つから。だから、その新興宗教は乗り超えたかのように見せるのが上手なところだった。実際は乗り越えてなどいない。横からすり抜けすらしない、目の前の高い壁を遠くの山の上から見下ろして低いと、満足するだけなのだ。それでもそれには効果はある。なにせ障壁は自分より引く場所にいるのだ。相手にする必要もなくなる。

 そうやってつかんだ幸せに皆すがりついていた。遠くの山とはその団体に他ならなず、結局のところ団体なしでは幸せであり得ない生活になることが果たして幸せなのかと問われると、人による。と答えるだろう。幸せなんて目に見えず実現しているかなんて本人にしか分からないものは人によって違って当たり前なのだ。それを教祖に言ったら当然のように説教された。強烈な説教だった。何日拘束されたか正直覚えていない。こうやって家でテレビを見ていることができるのが幸せと感じてしまうほどには感覚が狂ってしまった。

 だからなのだろう。こうやって教祖が凶弾に倒れたと報道を聞いても、なんの感情も抱かなかった。そりゃそうだとすら思った。

 果たしてこれが幸せなのか自分には分からない。多分幸せとは程遠い領域に来てしまっているのだと思う。これが教祖の目指していた領域だと思わないでもない。それならば不本意なれど教祖の理念を引き継いでしまったのだと思うと、笑いがこみ上げてくる。

 しかし教祖に成り代われるはずもなくその地位に興味もない。幹部の誰かが教祖の遺志を継いでなんとかやっていくのだろう。

 まあ、どうでいいことだ。ニュースを消してゆっくりと瞼を閉じる。そうして先ほどまでの強烈な体験を思い出して身震いする。顔がにやけるのを堪えるのが少しだけ辛かった。

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