護身・誤診・車輪
護身術を習えると、通い始めた空手教室はいつも怒声が飛び交っている。いや、別に怒っている訳ではないらしいのだけれど、生まれてこの方、運動や体育会系というやつに触れてこなかった身としては怒っている様にしか見えないから困ったものだ。想像と違ったなんて言い出せる雰囲気ではなく、道場の隅っこで筋トレを初めてからすでに3日目だ。
筋肉痛以外にとりあえずは辛いわけでもないが、先に進まないと言うのは不安とこでもある。怒声が飛び交う中でひとりぽつんとしているのも不安のひとつだ。だからと言って、あの中に入って一緒に鍛錬に励むなんてできそうにないので、今はここでいいのだと自分に言い聞かせたりもする。
そもそもは自転車の車輪が壊れたのが運の尽きだった。いや壊されたのだ。犯人を知っているわけではない。しかし、あの壊れ方は誰かが好意的にやらなくては壊れないと自転車屋さんも言っていた。思い当たることなんてなくて、次に狙われるのは自分かもしれないと門をたたいたのがこの道場だった。藁にも縋る思いだったとはまさに今回の事を指すのだろうと思う。
そして筋トレをしながらぼんやりと考えるのだ。自転車を壊した犯人の目的を。ちっとも浮かんでこないし、単なる愉快犯や少し乱暴な人がイライラしていただけかもしれないなんて思うと、そんな理由で壊されたなんてたまったものではない、という怒りにも似た気持ちがこみ上げてきて。
「せいっ!」
周りの熱気につられたのもあり、拳を前方に勢いよく放っていた。そしてそこにあったのは固い壁だ。気の壁ではない鉄骨コンクリートがむき出しになった無機質な壁。
当然の様にけがをしたので、道場の偉い人が病院に連れてきてくれた。なんでも実践稽古の前にここに来たのは初めてらしい。
「ここの先生は誤診しないことで有名なんだ。ちゃんと見てもらえよ」
そうやさしく声をかけてくれる。さっきまで怒声を飛ばしてた人と同一人物とは思えない。それにしても誤診しないことで有名とは。誤診なんてそうそう出会うものではないと思っていたけれど違うのか。そういうと偉い人は道場へと戻っていった。
診察の結果手首の捻挫らしい。しばらく動かさない様に忠告された。その日は道場に寄ることなく帰宅した。そしてそれが良かったのだと心底実感したのは次の日の事だ。
道場の偉い人が器物損壊で逮捕されたのだ。なんと自転車を壊したのも彼だった。恐怖感を与えることで道場の入門生を増やす目的だったと供述したとの報道に、まさに自分の事だと鳥肌が立った。
そしてまさかと思い、手首のけがを違う病院で診てもらうことにした。おそらく誤診なんだ。そう確信したのだ。
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