ゴリラ・漁師・《モエ・エ・シャンドン》

 親父は漁から帰ってくるときはいつも宴だったのをよく覚えている。たまにしか帰ってこない親父の顔も背中もよくは覚えていない。歳をとってから会っていないし当然なのかもしれないが、家にいる機会が単純に少なかったからだと思う。そんな家だから帰ってくる日は特別な日だったし、家にいないのが日常だった。だから、親父と言ってもたまに家にやってきては美味しいものを食べさせてくれるおじさんとしか思えなかった時期も正直あった。

 家を飛び出して6年。家に帰ることはなく、都会での暮らしにどんどん、どんどん、慣れてしまっていくのを最近よく、感じる。

 なぜこんなことを急に思い返してしまったかと言えば、飲み会で飲んだモエ・エ・シャンドンが原因だ。名前なんてさっきまで知らなかった。正直に食事に誘われた知人に言ったらこれだから田舎者は。と流れる様にバカにされた。それに反論するわけでもなく、それを飲んでみた。それが、知っている味だと。親父が帰ってくるたびに家で空けられたものだと気が付くのに時間はかからなかった。子どもの頃、あまりにもおいしそうに飲んでいるその姿に興味を持ち、隠れて飲んでしまったことがあった。その時はむせてしまったし、母にばれて大変怒られたけれど、その不思議な味はいまだに覚えていた。なぜって、親父が帰ってくるたびに空けられるそれを見るたびに、その味を思い返していたからだ。

 その味に突然出会えるなんて思ってもみなかった。モエ・エ・シャンドン。その響きを覚えようと心の中で反芻はんすうする。

 正直、帰りたいと思ったことは何度かあった。しかし、親父の反対を押しのけて都会に来た以上、少しでも結果を、爪痕を残しておきたかった。それが本当に小さなことだろうが。

 都会での生活は順風満帆とはいかなかった。生活はできるがバイトの掛け持ち。正社員の募集はあれど、大学に言っていない事と漁師の息子であることを告げると、だいたいの人事の人は、田舎に帰って漁師を継いだほうがいいよと言ってくる。たいした技能もなく、学力もない。ただ勢いだけで出てきた田舎者に対して都会の波は容赦なかった。

 なにかやりたいこともなく、都会に出てきたことを後悔する日々に次第に疲れていったのも間違いない。せめて目標があれば……そう考えるたび親父の背中がぼんやりと思い浮かんでは消えていった。

「どうしたんだぼーっとして」

 食事中に突然考え事をしてしまった。知人が心配してなのか声をかけてきた。

「もうすぐさ、紹介したい人くるから」

 バイト仲間から紹介したい人がいるからと誘いだされた都会のビルはいつも以上におしゃれな人ばかりで、浮いていないかと気になってしょうがない。

「おまたせ」

 そう言って現れたのはゴリラみたいにごつい体格の男性だった。高級そうなスーツに身を包まれた彼はどこかの社長なのだという。なぜ社長が自分に用があるのか、よくわからないで聞いていると、なにかのセミナーがあるから出てみないかと言う誘いだった。お金に関する勉強ができる場所で、出れば絶対に儲かる仕組みを教えてあげるよと言われた。

 正直お金には困っているし、そんなうまい話があるのなら乗ってみたい気もする。でも親父の背中がちらつく。『なあ。自分の体一つで稼ぐ。それが男ってもんだろ?』いつだったかそう親父が言っていた。

 やめとくよ。そう告げたがふたりは少しだけ圧が増したようだった。しつこく誘ってくる。そうなってくるとこちらも頑固になってしまい、少し言い合ってしまう形になる。それでも譲らないのを見るとふたりは帰っていった。支払いはしておくから考えておくれよ。と言われたけれど、気持ちが変わる気はしなかった。

 まだ飲みたい気分だったのでモエ・エ・シャンドンを頼むと一人で飲み始める。帰って漁師でもやろうかと、ぼんやりと考えながら。

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