薄毛・飛び回る鹿・失われた時間

 ハイキングという名の、地獄のしごき。それがわが社始まって以来の伝統行事。新人研修が終わりを迎える8月の暑い日に休日を返上してのイベントだ。

 今年の新人たちは意外と平気そうな顔をしていた。そもそも、こういう行事があるのとを知って入社してくるやつらだ。多少の根性はあるのだろう。それよりも、息をきらしているのは部長だ。言い出しっぺの社長の近くにいながら常に気を遣っている。それ自体は毎年の光景なのだが、今年は様子が違う。

 何か疲れているようにみえる。いつもは喜んでその役回りを引き受けていたと思ったが、今年はいくぶん嫌々やっているように見えるのだ。

 中肉中背。いや、そう言うより少し背が低くぽっちゃりしているかもしれない。最近、髪の毛の心配をよくして笑いに変えているのを見かける。薄毛が気になる年ごろなのは自分と手変わらないので、よく自虐にしてみじめにならないなと感心すらしている。いや、みじめになっているのか。あのくたびれた背中を見ているとそう思えてきた。

「ぶちょー。頂上はまだですかー」

 新人のひとりが大きな声を上げる。遠足じゃあるまいしその質問はないだろう。それにぶちょーとは部長は一体どういう扱いをされているのか。少し舐められ過ぎなのではと思わないでもない。しかし、それが彼の人柄ゆえなのか。

「ぶちょー?生きてますー?」

 社長から耳打ちされている部長に対して声が続く。いや、間違いなく舐められているのだと思う。社長から苦言を言われているのだろう。彼の心情を思うと辛さしかない。中間管理職ってやつは心労が溜まる一方なのだろう。

 もう少しで着くからと部長が新人をなだめる。体力的には平気そうだった新人だったが、もう飽きてきてしまったらしい。まるで子どもだなと思う反面、新人の頃なんてそんなものだったのかもしれないとも思う。そう考えること自体、年を取ってしまった事なのかもしれない。

 目の前を歩く部長は同期だ。同期の中で特に優秀であった。それに上司のご機嫌を取るのも得意だった。だから、同期のだれもが、彼にはかなわないと心の底で思っていたはずだ。だから、部長に昇進した時も驚きも、嫉妬も、悔しさもなかった。あったのは自分とは一体何なのだろうという、虚無感だ。仕事は普通にこなせる。売上も上げている。しかし、特別な存在にはなれなかった。気づけば同期は全員辞めていった。

「社長。荷物持ちますよ」

 新人のひとりが社長に駆け寄りながらそう声をかけた。やり方を心得ている新人もいるものだと感心する。さっき大声を上げた新人は後ろの方で楽しそうに談笑だ。この差が将来の差に如実に現れるなんて彼らは思ってもいない。自分だってそんなことは思っていなかった。でもそれが現実だった。

「お、おい。あれ見ろよ」

 社員のひとりが指さして声を上げる。

 その指の先には鹿がいた。一匹の鹿はこちらをじっと見ている。

「なんだよ、鹿じゃないか。かわいいじゃないか。なぁ」

 余裕な表情の部長をよそ目にみなは鹿を見とれていた。凛とした姿はとても都会のビルの中じゃお目にかかれない。

 突然鹿が、飛び回り始める。道なき道を、急な斜面を、我々の周りを。自由に飛び回る。まるでこちらを威嚇するかのように。その迫力のあまり部長は驚き、後ずさりして足を踏み外した。いち早く気付いた新人がとっさに支えたからいいものの大けがをするところだった。

「なにしているんだ!追い払えよ!」

 助けてもらったお礼も言わずに威張り散らす部長の姿にイラっとする。鹿だって好きでそんなことをしてるわけじゃあるまいし。突然来た訪問者に警戒しているだけだろう。こちらから領域に侵入してその態度はない。

 ゆっくりと鹿に近づく。鹿もこちらに気が付くと動き回るのをやめた。

「ごめんな。すぐに登ってすぐに帰るから」

 伝わるはずはないとわかっていてもそう声をかけた。

 鹿は少しこちらをじっと見つめた後、その場を静かに去っていった。

「おお。よくやった」

 そう偉そうに言ってくる同期に、悲しくなってくる。

 辞め時なのかもしれない。自分の実力を買ってくれる転職先があればいいが。いや、探すのだ。失った時間は取り戻せないけれど。全てが無駄でなかったと、そう証明するために。あの自由に飛び回る鹿の様に。薄毛で自虐しなくても笑いを取れる様に。踏み出すなら今なのかもしれない。

 部長より先に一歩を踏み出した。先に進もう。道は拓けてなくとも、自分で拓くのだ。

 

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