誰が為のワルツ
青海鱓
誰が為のワルツ
父が死んだ。交通事故だった。そのあまりに突然な報せに、私と母は絶句した。その実感すら持てないほどの無慈悲な永訣であった。
父はピアノの先生だった。温柔敦厚で生徒一人一人に親身に接し、皆にとても慕われていた。私はそんな父を誇らしく思っていた。
葬儀が執り行われると、父の下でピアノを習っていた人達や父と関わりのあった人達が多く餞に訪れた。
法事も済み、暫く経って落ち着いた頃、私と母は遺品整理をしていた。
父がいつもピアノを弾いていた部屋。この部屋には、ピアノの他に、父が収集していた沢山のCDやレコード盤の類いが整然と棚に並べられている。よくここでレコードに聴き耽ったりしたものだ。この部屋で家族で過ごすことは多かった。
私はピアノの鍵盤蓋をゆっくり開け、その弾き馴染んだ白い鍵盤をそっと撫でた。
「なんか・・・寂しくなっちゃったね・・・」
「うん・・・」
棚の埃を掃っていた母が消え入るような声音で応えた。私の声音も嘸かし弱々しいものだっただろう。
母は、整々と納められた夥しいレコードの中から一枚を取り出すと、慣れた手つきでレコードプレーヤーにセットし、針を落とした。
「これ、覚えてる?昔お父さんがよくあなたの為に弾いてた曲だけど・・・」
「あっ、この曲・・・」
聴こえてきたのは、ジャズ・スタンダードとして有名な、ピアノ・トリオの曲。リズミカルなピアノのメロディにベースとドラムが寄り添うようにして鮮やかなワルツを奏でている。
私は思い出していた。まだ幼い頃、父がこの曲を私の為によく弾いて聴かせてくれたこと。父がピアノを弾く姿。そしてそれに対する憧憬を。
父の弾くピアノは優しかった。それでいて芯があり、深みがあった。そんな父のピアノを聴いているうちに、自然と私もピアノを弾くようになっていった。父の方から私にピアノをやらせることは無かったが、私も弾きたいと言うと大喜びで指南してくれた。
それからは、父の教え方が良いのか私の飲み込みが早いのか、見る見る上達していき、二人で連弾をしたりすることもあった。それは至福の時間だった。
色々なことを追想しながら、ふと考える。父はどんな思いを込めてピアノを聴かせてくれたのだろう。
私は無性にこの曲が弾きたくなった。否、今こそ弾かなければならないと思った。それが父の思いに触れる最上の手段であり、無上の弔いであるような気がして・・・
「この楽譜、ある?」
「あると思うけど・・・あ、これこれ」
母が楽譜の並んでいるところを探ると、それはすぐに見つかった。楽譜を譜面台に置くと、母は何も言わずソファに腰掛けた。
軽く音を出してみる。大丈夫、弾けそうだ。改めて居住まいを正し、一呼吸置いて弾き始める。
快活なメロディに、様々な思い出が次々と脳裏を過る。奏でる旋律が、思い出の抽斗を開けるパスワードであるかのように・・・
ふと母の方を見遣ると、温かな微笑みを浮かべ、その瞳は潤いを帯びていた。
弾いているうちに私は、父の温もりを確かに感じていた。ピアノは私を受け入れ、鮮やかな音色を響かせている。今この瞬間、他の何よりも天上に近い所に居るような錯覚さえする程に・・・
途端、今まで鳴りを潜めていた感情や心の深層に在る思いが、堰を切って溢れ、落ちた。それは止めどなく流れ出で、視界を歪め、とても譜面を追えたものではなかったが、運指が止まることはなかった。
激情の奔流に身をまかせ、溢れるもの全てを音に乗せる。
お父さん、今度は私が貴方の為に、このワルツを捧げます───────
音に誘われるように窓から陽光が差し込み、宙を舞う埃がきらきらして見えた。
誰が為のワルツ 青海鱓 @bluefishjazz
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます