第3話
「先生はテレビもラジオもお持ちではなかったですよね。今朝は、新聞はもう読まれましたか」
「いや、まだ読んでないが。いつも昼にコンビニエンスストアで買ってる。どうした、なにかあったのか?」
「いえ、そういうわけではないのですが」
台所にいたミナコさんが、居間に戻ってきました。手に持ったお盆から湯気が立ち昇っています。
ミナコさんは正座をして、畳の上にお盆を静かに置きました。お盆に載せられていた湯気の湧き出る珈琲茶碗を二つ、受け皿ごと座卓の上に置いていきます。一つは先生の前に。そしてもう一つを先生の向かい側へ。
ミナコさんは、先生の向かい側へと歩を進め、座布団の上に座り直しました。
「楽にして」
「はい。ありがとうございます」
ミナコさんは正座を崩しませんでした。背が高いせいか、真っ直ぐに伸びた背筋が美しく見えます。
「一カ月くらい前からでしょうか。尋ね人と言いますか、そのようなビラをよく見かけていたんです」
ミナコさんは珈琲茶碗に一度口をつけてから、そっと手を下ろしました。受け皿に戻された陶磁器が微かな音を立てると、天井へ消えていくその音を追いかけるように、立ち昇る湯気が一度螺旋を描きました。
「ミナコちゃんの言いたいことはわかった」
先生はミナコさんを見つめながら、一度大きく息を吐きました。
「そのビラは僕も見た。似ている、と言いたいんだろう?」
「ええ。先生の漫画に描かれている女の子と、名前が同じですし、顔もよく似ています。
「テレビは悪趣味だね」
「先生の漫画を見た誰かが漫画の内容を真似したのでしょうか。若い女性を殺害してその死体をバラバラに解体する、というその猟奇性もよく似ていますし」
「偶然だとは思う。しかし、その可能性は高いかもしれないな」
「あ、もしかして、先生だったりして」
「うん? なにが?」
微笑むミナコさんを先生は目を細めて見つめます。
「先生が犯人だったりして。なんて少し思ってしまいました。もちろん冗談ですよ」
「なるほど。愉快な想像だね。だけど、可能性としては一番高いのかもしれないな。僕の漫画に描かれてある事件が現実の世界でそのまま再現されているとしたら、そしてそれが偶然ではないと考えるなら、僕が犯人である可能性は当然考えられるべきだ。しかし、それはそのままミナコちゃんにもあてはまる。違うかな。もちろん、そんなことはないとわかってはいるが」
「はい。すみません、変なことを言って。でも、偶然ということは考えにくいのではないですか」
「そうだね。少なからず僕の漫画を参考にしたか、あるいは僕の漫画に影響を受けたかした人物の仕業だろうね」
珈琲茶碗を受け皿に戻した先生は、また大きく息を吐きました。
「よし、休憩は終わり。もう少しがんばってから、お昼にしよう」
「はい」
「あ、そうだ。ミナコちゃん、悪いんだけど、煙草を買ってきてくれないかな」
「はい、わかりました。いつものでいいですか?」
「ああ。少し遠くなるけど、あそこの煙草屋まで行ってカートンで買ってきてくれないか」
「はい、わかりました。行ってきます」
ミナコさんが玄関から出ていく音が聞こえました。
先生は板敷の間の作業場へ行き、部屋の中へと入っていきました。
作業場の電灯が点けられると、こちらの居間にまで明かりが漏れてきました。
私は廊下に出て、先生の様子を窺います。
先生は部屋の奥まったところにある黒ずんだ大きな木の机の上に、刃物を並べ始めました。大きなノコギリが三本。大きな包丁のようなものが三本。
先生が大きな刃物を動かすたびに、鈍い銀色の閃きが廊下にいた私の横を走り抜けていきました。
あの机の上で、人間のサキさんはバラバラにされたのでしょうか。
人間のミナコさんをも、先生はバラバラにするつもりなのでしょうか。
いけません、先生。これ以上、人の道から外れては。
まだ、間に合うはずです。
私にできることはなにかないでしょうか。
ミナコさんを助けることはできないのでしょうか。
先生を助けることは、もうできないのでしょうか。
私は居間に戻ると、そっと襖を開けて押し入れの中に入りました。
バラバラにされた人形の身体が放り込まれた段ボール箱の中から、サキちゃんの頭部を手にとって押し入れから出ました。音がしないように襖をそっと閉じます。
先生のつくる人形は精巧です。サキちゃんの顔は人間のサキさんによく似ています。
ミナコさんにこのサキちゃんの頭部を見せれば、ミナコさんは気がついてくれるのではないでしょうか。先生が何をしているのかを、先生が何をしようとしているのかを、ミナコさんに伝えることができるかもしれません。
私は廊下へ出て、玄関へと足を運びました。
「おい! 何をしている」
先生が私を呼び止めました。
私は振り返りました。私の手が、先生の視線を吸い寄せました。
私の手に抱えられていたサキちゃんの頭部を認めると、先生は突然大きな声で叫び始めました。
「勝手なことをするなとあれほど言っただろう! なんでわからないんだ! お前は人形なんだ! いいか、人形なんだぞ! 人形が勝手に動いていいわけないだろうが!」
先生は、床を踏み鳴らしながら私に近づいてきて、私のお腹を思い切り蹴り上げました。
私の手を離れたサキちゃんの頭が廊下を転がっていきます。
倒れそうになる身体を私は壁にもたれて支えました。
先生は、足の裏で私の顔を踏みつけるように壁に押しつけました。
先生の足と壁に挟まれた私の頭の中で、水に沈んだ陶磁器の砕けたような音が鈍く響きました。
先生の足が離れると、私の身体は落ちるように床に倒れ込みました。
先生は、床に倒れた私の身体を仰向けにすると、私の頭を少し持ち上げて、木の床に私の後頭部を叩きつけました。
先生は、もう一度、私の頭を少し持ち上げて、私の後頭部を床に叩きつけました。
もう一度、私の頭を持ち上げて、床に叩きつけました。
もう一度、叩きつけました。
もう一度。もう一度。
堅い木の板が折れたような音がして、私の後頭部は割れました。
先生の後ろから先生を見下ろしていたミナコさんの目に、涙が浮かんでいます。
いつ戻ってきたのでしょうか。先生はまだミナコさんに気がついていないようです。
ミナコさんは屈みこむと、床に転がっていたサキちゃんの頭を拾い上げました。
先生は私の頭を床に叩きつけています。
ミナコさんは拾い上げたサキちゃんの顔を正面に見据えて、じっと観察しています。
突然ミナコさんの目が大きく見ひらかれました。ひっ、と息を吸い込むような短い悲鳴を上げて、サキちゃんの頭を放り投げるように床に落としました。
私の頭を床に叩きつけていた先生の動きが止まりました。
先生はゆっくりと振り向きました。
口を押さえたミナコさんの両手が震えていました。ミナコさんはゆっくりと後ろに下がっていきます。
「違うんだ。ミナコちゃん。これは、違うんだ」
「いや。来ないで」
「違うんだ。僕じゃない。こいつが悪いんだ。こいつが勝手に動くから。その人形の頭もこいつが勝手に持ち出したんだ。僕じゃない。違うんだよ、ミナコちゃん」
「先生、何を言っているのですか。こいつって、デッサン人形のことですか。人形が勝手に動くわけないでしょう。いや。近寄らないでください」
「ち、違う。本当なんだ。この人形が勝手に動くから。ぼ、僕は。ほ、本当に、この人形は動くんだ」
ミナコさんは靴を履くのももどかしげに、急ぎ足で玄関から出ていきました。
私はミナコさんを助けることができたのでしょうか。ミナコさんを助けることで、先生を助けることができたのでしょうか。
「お前のせいだ」
先生は足を大きく振りあげて、私の顔を思いきり踏み抜きました。
私の頭は粉々に砕け散りました。
何も見えません。何も聞こえません。
背中に触れる床の硬さも冷たさも、私には感じられませんでした。
私は先生のお役に立ちたかったのです。
私は、少しでも、先生のお役に立てたでしょうか。
本音を言えば、先生が人の道を踏み外そうが、踏み止まろうが、私にはどちらでも良かったのです。
ただ、私を見てほしかった。
人形のサキちゃんでもミナコちゃんでもなく、
私を。
人間のサキさんでもミナコさんでもなく、
私を。
私を見てほしかった。
私を。
デッサン人形 つくのひの @tukunohino
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