第2話


 狂ったように走り回る台風の風に弾かれて涼やかな風鈴の音色が泣き叫んでおります。

 突然の停電で室内は暗く、火を灯された蝋燭の臭気が微かな煙となって昇っていきます。

 扇風機は止まり、部屋の中には熱気がこもり始めました。

 先生は窓を僅かに開けました。その隙間から室内に飛び込んできた風が蝋燭の火を吹き消し、座卓の上の紙片を跳ね上げました。

「くそ」

 先生はすぐに窓を閉め、手探りで座卓の傍らに置いてあった大きな赤い懐中電灯を手にとりました。

 懐中電灯の薄ぼんやりとした明かりが室内を照らします。

 先生は懐中電灯の肩紐を肩に掛け、散らばった紙片を拾い集めました。

「くそ」

 マッチを擦ってもう一度蝋燭に火を灯しました。

 マッチの臭気は小さな針となって、私の顔の真ん中を突き抜けていきました。


 先生は懐中電灯を肩に掛けたまま蝋燭を立てた小さなお皿を手にとって、私を居間の外へと連れ出しました。

 廊下を渡って、板敷の広い部屋に来ました。

 先生は部屋に入ると、扉のすぐ近くにある電灯スイッチを入れました。けれど、電灯は点きません。

「くそ」

 先生は苛立たしげに何度かスイッチを入れたり切ったりしましたが、電灯は点きませんでした。


 この部屋の中に私が入るのは久しぶりです。

 大きな画板が数枚、壁に立て掛けられております。先生はかつては漫画以外にも絵をよく描いていたそうなのですが、先生が絵を描く姿を私は見たことがありません。

 漫画を描く際には居間の座卓が使われておりますので、ここは主に紙粘土で人形をつくる作業場となっているようです。

 大きな木の机以外には、少しの画材と、椅子が数脚、あとは何かの道具が数点、あるくらいでしょうか。何もないとは言えませんが、何もないと言っても誇張にはならないでしょう。


 先生は部屋の奥のほうへと私を連れていき、広い円形の台の上に私を立たせました。

「そう、腕は少しだけ曲げて。もう少し上に。そう。顎は少し上げて」

 私は先生に言われるまま、先生にされるがまま、姿勢を変えていきます。

 両腕を前方に軽く伸ばして手の平を上に向け、顔の高さで両腕をやや広げました。

 右足を少し後ろに引いて、軽く踵を浮かせました。

 そして、私は動きを止めます。

 姿勢を整えた私を照らす懐中電灯の光が、私の身体を舐めるように上に下にと滑っていきます。

「そう。そのまま。動かないで」

 先生は満足げに頷くと、部屋の反対側へと歩いていきました。

 大きな木の机に懐中電灯の光が近づいていきます。見慣れない黒い球体のような物が机の近くにありました。あの机は、あんなにも黒ずんでいたでしょうか。室内が暗いせいでそう見えるのでしょうか。


 黒ずんだ大きな木の机の上に先生は懐中電灯と蝋燭を置きました。懐中電灯の角度を調整して私を照らします。蝋燭の明かりは薄くちらちらと机の上で揺れながら、先生の影を壁に泳がせています。

 先生はどこからか取り出してきた白い塊を、机の上に叩きつけ始めました。

 どおん、どおん、と何度も何度も叩きつけます。

 紙粘土をねているのでしょう。

 どおん、どおん、と紙粘土を叩きつける度に床から振動が伝わってきます。その度に、机の上に置かれた懐中電灯が、僅かに、少しずつ、最適な角度に調整されていたその向きを変えていきます。


 このままでは先生からの私の見え方が変わってしまいます。

 私はずれていく懐中電灯の光の動きを追うように、円形の台の上を半歩ほど横に移動しました。

 どおん、どおん、と響いていた音が、室内を暗く照らす光を避けながら、その残響の輪郭を暗闇の中に滲ませて、やがて消えていきました。

 紙粘土の塊を机に叩きつけていた先生の手は止まっていました。

 先生は机の上の懐中電灯を手にとると、私のほうへ近づいてきました。

 木の床を踏み鳴らす先生の足音が、だんだん大きくなります。

「動かないで、と言ったよね。なんで、勝手に動いたんだ」

 先生の声が次第に大きくなっていきます。

 私は声を出すことができませんでした。

「誰が動いていいって言ったんだ」

 先生は私の正面に立つと、手に持っていた懐中電灯で、私の顔を横殴りに払いました。

 私はふらふらと台の上に屈みこみました。

 先生は、屈みこんだ私の喉を片手で掴むと、私を後ろに押し倒しました。

 台の下の床に、私はしたたかに後頭部を打ちつけました。べきっ、と堅い木の板が割れたような音が聞こえました。


「いいか、お前は人形なんだ。僕が動いていいって言うまでは、勝手に動くな」

 先生は、倒れた私の頭を持ち上げて、もう一度私の後頭部を床に叩きつけました。

 強風に煽られて家が揺れました。風の唸り声が震える壁を威嚇しているかのようです。

 先生のためにと思ってしたことでした。私は先生に褒められたかったのです。少しでも、サキちゃんのように、私にも好意を向けてほしかったのです。

 しかしながら、モデルが勝手に動くなどということは許されることではありません。

 私が軽率でした。先生の言いつけは守らなくてはいけません。


 電気が点きました。

「ああ、やっと点いたか」

 先生はそう呟くと、懐中電灯の明かりを消して、机のほうに戻っていきました。

 机の近くにあった黒い物体を抱え上げて机の上に置きました。

 明かりの下で見えるようになったそれは、人間の頭部でした。

 人間の、ついこのあいだまで先生のアシスタントをしていた、サキさんの、頭部です。

 先生はサキさんの顔に話しかけました。

「ああ、サキちゃん、良かったね。やっと停電がなおったよ」

 よく見れば、机の周りも以前より黒ずんでいるように見えます。点々と黒い染みができていました。

 先生はサキさんの頭に口づけをしました。

「また、バラバラにしても、いいかな」

 サキさんの表情はここからでは見えません。人形のサキちゃんと同じように、頭部だけになった人間のサキさんの顔も、微笑んでいるのでしょうか。


 私は暗く狭い部屋に閉じ込められました。

 先生の言いつけを守らなかった罰なのでしょう。

 幸いにも私の身体にはとくに大きな損傷はなく、後頭部にヒビが入っただけでした。ですので、すぐにでもモデルとして先生のお役に立ちたかったのですが、先生から声をかけられることはなく、一日が過ぎ、三日が過ぎ、やがて一週間が過ぎました。


 私はただ待ちました。

 先生から声をかけてもらえるまで、私は、ただ待ちました。

 暗く狭い部屋の中で、私は独り、待ちました。

 ようやく、先生から呼ばれました。モデルとしてまた先生のお役に立てるのです。


 蝉の声は、その残響の抜け殻に熱を吸わせて日ごとに空気を冷たくしながら、雨粒とともに流れ去っていきました。

 澄んだ空気の中で虫の奏でる白い音色が冴え冴えと緑の葉を塗りかえていきます。


 新しいアシスタントの女性が先生の家に来るようになりました。

 ミナコさんです。


 どおん、どおん、と先生が机に紙粘土を叩きつける音が、部屋を揺らします。

 先生のつくる人形の容姿もいつしか変わっておりました。

 肌の色が白いのはサキちゃんと同じですが、背が高く、細身です。目がやや切れ長で、髪はサキちゃんほど長くはなく、肩くらいまでの長さになっております。

「ああ、ミナコちゃん、かわいいよ。すごくかわいい。バラバラにしてもいいかな」

 ミナコちゃんと呼ばれる人形は、新しいアシスタントのミナコさんによく似ています。

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