2020/08/31~09/06

   2020年8月31日、月曜日。はじめての夏休みのおわりに


8月も今日で終わろうとしています。

今年は例年より蒸し暑く、まだまだ秋がやって来る感じはしません。


ゆりかは、千のコスモの会で生まれて、千のコスモの会で育ったから、学校に通ったことがありません。

夏休みというものを経験したことがありません。

今年はパンデミックのせいで、春休みも夏休みも例年と全然違うものになってしまったそうですが、ゆりかはそもそもそれがどんなものなのかすらわからないのです。


ねぇ、いちか、春休みとか夏休みって何をするものなの?


ゆりかの問いに、いちかはとてもびっくりしたようでした。


「何をするって、、、なんかよくわかんないけど、毎朝ラジオ体操に行かされたりとか、、、」


ラジオ体操って?


ゆりかの問いに、いちかはまた驚いて、スマートフォンでYouTubeのアプリを開いて、そのラジオ体操というものを見せてくれました。


ふむふむ、、、これがラジオ体操、、、


「ちなみに、それは第一」


第二もあるの!?


「第二は高校でいきなりやらされて、結局おぼわんなかったなあ、、、」


ゆりかは、ラジオ体操というものをはじめて見て、カルチャーショックを受けていました。


「そういえば、知り合ったばかりの頃、体が弱くて学校に行けてないって言ってたね、ゆりか」


そうだっけ? と、ゆりかは思いましたが、たぶんまだ12,3歳の頃のゆりかが学校の話をふられたとき、とっさに思い付いたのがそういう設定だったのだと思います。


「小学校に入ってすぐ、入院したんだったよね。入院と退院を繰り返してるうちに義務教育が終わって、高校にも行けなかったって、、、そっか、、、夏休みを知らないんだ、ゆりかは」


うん、、、


「夏休みは、7月の20日くらいから、8月の終わりまで四十日くらいあるの。学校は休みなんだけど、山ほど宿題が出るし、プールがあったり、登校日があったり、部活があったりして、なんだかんだで結構学校に行かされるけど、夏休みの最初の方に宿題を終わらせちゃえば、結構遊べたなぁ、、、大体毎日一日中クーラーをつけて部屋でごろごろしながら、テレビ観てるだけだったけど」


宿題に、プールに部活、全部ゆりかがしらないことばかりでしたが、


ゆりががここにきてからの一ヶ月みたいな感じ?


そう尋ねると、いちかは、そうそう!こんな感じ、と言いました。


楽しいんだね、夏休みって。


「今わたしが毎日楽しいのは、ゆりかがそばにいてくれるからだけどね」


いちかは言いました。


ゆりかも、いちかといっしょにいるとすごくたのしい。


「ねぇ、ゆりか、わたしのこと好き?」


いちかは、そんな当たり前のことを聞いてきました。


好きだよ。


ゆりかがそう答えると、いちかはゆりかにキスをしました。


それは、ゆりかにとって生まれてはじめてするキスでした。


「一ヶ月前にゆりかが会いに来てくれる前から、わたしはずっとゆりかのことが好きだった。何年も何年もずっと片思いしてた。わたしね、本当は、ゆりかのこと全部知ってるんだよ」


全部って?


「ゆりかが、隠してること。聞かれたくないこと、全部だよ」


いちかはそう言って、もう一度ゆりかにキスをしました。




   2020年9月1日、火曜日。


某国時間で、日付が今日になった瞬間、世界中のテレビやパソコン、スマートフォン、タブレット、アレクサまでが、某国の国家元首キュロ・ヒキカサを映し出しました。


インターネットに繋がった映像再生が可能なすべての情報端末がハッキングされたようでした。



「全世界の選ばれし民に告ぐ。私は某国の国家元首、キュロ・ヒキカサ。

 かつて70億いた人類は、我が国の前国家元首により、7億人にまで間引かれた。

 彼がしたことは、決して許されるべきではない。

 だが、枯渇しつつあったエネルギー問題と食料問題は解決され、核兵器をはじめとするあらゆる武器、兵器、弾薬はすべて無力化した。

 人類は、これより新たな歴史を歩み始めることとなる。

 神の時代は終わり、人は宗教というしがらみが解き放たれるときがきたのだ。

 人の倫理観は、神や宗教の教えに基づいている。

 その倫理が、科学の発展を妨げ続けてきた。

 例として、ひとつあげるなら、クローン人間の存在である。

 人はすでに、その技術を持ち合わせていながら、倫理によってそれを実現することを妨げられてきた。

 本日より、我が国は神を捨て、倫理を捨てる。


 モノクローン法の施行をここに宣言する。


 本日より、我が国では、新生児はすべて自らのクローンを伴い生まれることを義務付ける。

 そのクローン体をモノクローンと呼び、オリジナルとなった赤子をオリジンと呼ぶ。

 すべてのモノクローンは、人の記憶容量の限られた脳に、microSDカードのようなものを想像していただけると助かるのだが、脳の記憶容量を増設する措置を施す。

これにより、各国の最高レベルの大学入試問題をいとも簡単にクリアできる神童を産み出すことが可能だ。

 脳に増設した記憶容量には、あらゆる職業の専門的知識を記憶させることもできるが、同時に発達障害や自閉症などの脳の障害、うつ病をはじめとする脳の病を解決する。


 モノクローンによる脳の記憶容量の増設が成功した暁には、オリジンにも同じ処置を施す。

 神に支配された倫理に縛られた人類には不可能だったことを、我々はこれよりひとつずつ始めていく。

 これは人類の新たな歴史のはじまりである」



お父様の演説は続く。


神を捨てると言いながら、お父様の傍らには、ゆりかにしか見えない何かが存在していました。

まるで機械仕掛けのような、、、


「この人が、ゆりかのお父様だよね? 千のコスモの会の実質的教祖、第一使徒榊弘幸」


いちかは本当に、ゆりかのすべてを知っていました。


「ゆりかのお父様はもういないよ。千のコスモの会の本部施設が爆発した夜に、お父様は死んだの。死の間際に自分を取り戻して、、、お母様とゆりかに謝りながら死んでいったの」


「つまり、こいつは、ゆりかのお父様のモノクローンってやつってことだよね」


「そうかもしれない」


「ゆりかの叔父さん、加藤学っていう人がこの人の飼い犬として大量生産されているのも、、、もしかしたら、もしかするかもしれない」


「本当に、いちかはゆりかのことを何でも知ってるんだね」



そして、いちかは言いました。


「ゆりかのことが大好きだから。愛してるから。だからね、触れてこなかっただけで、『匣』のことも知ってるよ」




   2020年9月2日、水曜日。


聖人は、いえ、本来聖人となるべきだった存在は、確かに宇宙考古学における古代宇宙飛行士のひとりでした。


高度な科学文明を持つ外宇宙の惑星から、人という知的生命体が存在しながらも何十万年も発展途上だったこの星に派遣され、人に叡知を与える、それが彼が母星から与えられた役割でした。


彼は、宇宙船を必要とせず、強化外骨格を身にまとい、単独で宇宙空間を航行、大気圏に突入した、と新約聖書外典にはありました。

外典には挿し絵が添えられており、その姿は小久保晴美さんが開発したソーシャルディスタンススーツにとてもよく似ていました。


「本来、聖人となるべきだった存在? その人が聖人だったわけじゃないの?」


彼は、敵対関係にあった別の惑星の古代宇宙飛行士に待ち伏せをされていたそうです。


「敵対する惑星?そんなのがいるの?」


彼らがなぜ、知的生命体が存在しながらも、何十万年も発展途上のままにある惑星に、叡知を授けていたのか、、、

新約聖書外典によれば、銀河系規模での星間戦争が、何千年何万年も続いていたからとされています。


叡知を授ければ、早ければ1000年、遅くても2000年、あるいは3000年後には、自らの味方になりますから。


「気の長い話、、、」


大気圏突入の直前に攻撃を受けた彼は、突入角度がずれてしまい、本来ならこの島国に降り立つ予定が、イスラエルへと落下してしまいました。


その際に強化外骨格は損傷、彼は致命傷を負うことになりました。


しかし、彼の強化外骨格には、そのような場合も想定して、果実や卵、あるいは子宮のような姿形に変形し、ちぎれた手足ですら元通りにする肉体回復復元機能がありました。


強化外骨格自体が損傷していたため、彼の肉体の回復復元には、本来なら数日もあれば十分なはずでしたが、長い年月がかかったとされています。


当時のイスラエルの人々は、隕石らしきものの落下と、巨大なクレーター、その中心にある奇妙な物体から、その地を禁断の地と呼び、近づくことを怖れたとされています。


しかし、ひとりの少年が、禁断の地に足を踏み入れました。

その少年の名はヨシュア。

後にイエス・キリストと呼ばれる者でした。




   2020年9月3日、木曜日。


ヨシュアという名前は、ユダヤ人男性において一般的な名前でした。

日本で言うなら、太郎や花子にあたるのかもしれません。今では逆に珍しいですが。


後に彼はイエス・キリストと呼ばれることになりますが、イエス・キリストとは、実は人名ではなく敬称なのです。

「キリストであるイエス」、または「イエスはキリストである」という意味にあたります。


「つまり、それって、総理大臣である安倍、安倍は総理大臣、てこと?」


「安倍は、総理大臣の名前だから、、、うーん、、、総理大臣である自由民主党総裁、自由民主党総裁は総理大臣である、になるのかな、、、」



ヨシュアが禁断の地を訪れたのは、

今となってはもうその名前や、どの銀河系から来たのかすら知るすべのない古代宇宙飛行士が、イスラエルの地に落下してから、

9年後のことでした。


西暦に換算するなら西暦3~5年頃、ヨシュアが9歳のときでした。


かつては、西暦元年を、彼が生まれた年としていましたが、現在では彼は紀元前6年ないし紀元前4年ごろに生まれたとされています。

実は、クリスマス、つまりは12月25日が、イエスの誕生日であるという確証は聖書にも、他の書物にもないのです。

後世のキリスト教徒が定めたからイエスの誕生日が12月25日となったとされているだけなのです。


「うわぁ、日本にクリスマスとか、超関係ないと思ってたけど、本気で関係なかったんだ、、、」


聖母マリアは、ヨセフの婚約者でありましたが、結婚前に聖霊によりヨシュアを身ごもったとされています。

しかし、ヨセフは、仕事柄家を空けることがたびたびありました。


彼は婚約者のマリアが妊娠していることを知ると、本来ならマリアを不義姦通として世間に公表した上で離縁するところでしたが、そうせずひそかに縁を切ろうとしました。

ですが、夢にあらわれた天使の受胎告知によってマリアと結婚しました。


「夢はあくまで夢だからなあ、、、」


マリアの不義姦通は明らかであり、彼女はヨセフの人の良さ、優しさに漬け込んだ悪女といっても過言ではないでしょう。


イエス・キリストについて、もうひとつ付け加えておくならば、彼が神の子として、あるいは宗教家、預言者として活動したのは、磔刑に処されるまでのわずか二年程にすぎません。



ヨシュアは、物心ついたころから、家から見える、巨大なクレーターと、その中心に存在する、果実のようでもあり卵のようでもある何かに興味を抱いていました。


そして、9歳のある日、両親が家にいない隙をついて、禁断の地へとひとり向かったのです。


古代宇宙飛行士が身にまとっていた強化外骨格は、果実のようでもあり、卵のようでもあり、子宮のようでもある姿形に変形し、彼の肉体の回復復元を行っていましたが、

ヨシュアが目にしたものは、すでに活動を停止した変形した強化外骨格と、その中にうっすらと見える、体の大半が腐り、一部が白骨化すらしていた、古代宇宙飛行士の死体でした。


ヨシュアがその死体を引きずり出すと、中には、彼の小さな手のひらに乗るほどの大きさの匣が存在したといいます。


匣の所有者であった古代宇宙飛行士がすでに死亡していたため、誰も所有者がいない状態にあった匣は、ヨシュアのものになりました。


匣の中には、古代宇宙飛行士の母星が有するあらゆるテクノロジーが超大容量小型情報端末として記録されているだけでなく、所有者は頭の中でこうしたいと思うだけで、匣がこの星を構築する物質から適切なものを選択し、実現することが可能でした。


ヨシュアが匣の力を手にし、まっさきにしたことは、目の前にある汚ならしい骸を、その果実のような入れ物ごと、分子や原子レベルにまで破壊することでした。


そして、匣を手にしたヨシュアは、母マリアの不義姦通によって生まれたただのユダヤ人から、神の子を名乗るにふさわしい力を手に入れたのです。




   2020年9月4日、金曜日。


「その匣は、いまどこにあるの?千のコスモの会の本部施設は爆発しちゃったんだよね」


匣は、某国の国家元首が持っているんだと思う。


ゆりかは、そのとき、いちかに嘘をつきました。

いちかを信じていないわけでは決してなく、匣をゆりかが持っていることをいちかが知れば、ゆりかだけじゃなくいちかを危険にさらすことになりかねないと思ったからでした。


「キュロ・ヒキカサ、、、榊弘幸を逆さ読みにしただけで、アナグラムですらないのが、世界中の人たちを馬鹿にしてる感じがする。ゆりかのお父さんの悪口はあんまり言いたくないけど」


ゆりかのお父様は、もう死んじゃったから。

あのキュロ・ヒキカサって人は、お父様のクローン、、、モノクローンっていうんだっけ?

お父様は、歴代の使徒の記憶や人格を引き継いだ際に、それをうまく自分のものにするというか、ひとつにすることができなくて、おかしくなってしまったの。

あのモノクローンは、そのおかしくなってしまった方のお父様。ゆりかのお父様じゃない。

あの人がこの間言っていたみたいに、脳の記憶容量を増設して、この世界のすべてを知り尽くしているんだと思う。


「ゆりかには、あの男のそばに、わたしには見えない何かが見えるんだったよね」


うん、見える。たぶん、ゆりかやお母様を依り代として、この世界に顕現させようとしていた神様。

お父様は、この星の大地や海を作ったイエス・キリストの父親である神よりも、さらに上位の神が存在すると考えていたの。


「宇宙自体を無から産み出した神か、、、」


ゆりかに見えるのは、機械仕掛けの、なんていうのかな、蒸気機関が発達した世界の、、、


「スチームパンク?」


そう、それ。そういう映画に出てきそうな、歯車とかいろんなものがむき出しで、くすんだ金や銀、それから黒かな、、、そういう色の2メートルくらいの人型のロボットが見えるの。


「それが、もし、神だとするなら、、、」


神だとするなら?


「デウスエクスマキナと呼ばれる存在かもしれない」


デウスエクスマキナ?


「機械仕掛けの神様」


神様なのに?機械仕掛けなの?


「別におかしくはないと思うよ。ターミネーターのスカイネットは、人類のために開発されたけど、人類こそが地球にとって最も害のある存在だという結論に達して人類を滅ぼしたし、人類を人類自体や氷河期のようなこの星の環境の変化以外の存在が滅ぼすのなら、それはもう神といっても過言じゃないし、マトリックスじゃ、人間がロボットの人権を認めなかったせいで戦争になって、戦争に負けた人間はロボットたちを動かすための乾電池みたいにされてたし」


ターミネーター?マトリックス?


「あとでTSUTAYAかGEOに行こうね、ゆりか。

 まあ、でも、デウスエクスマキナは機械仕掛けの神、という意味だけど、神様であって、神様でないというか、、、

 古代ギリシアの演劇の、演出技法の一つなの。劇の内容が錯綜してもつれた糸のように解決困難な局面に陥った時に、絶対的な力を持つ存在、つまり神様が現れて、混乱した状況に一石を投じて解決に導き、物語を収束させるという手法。

 実際にどんな感じで、その神様が出てくるのかとかはよくしらないし、そもそもそんな神様に出てきてもらわなきゃいけないような脚本ってどうなの?とも思うんだけど」


今、この世界が必要としてる神様は、そんな神様かもしれない、、、


「そうだね、今のこの世界ほど、いろんなことが錯綜してもつれた糸のように解決困難な局面に陥ってる状況は、古代ギリシアの演劇にも、さすがになかったんじゃないかな、、、あ、ねぇ、ゆりか、そろそろ休憩終わりみたい」



ゆりかといちかは、アルバイト先の休憩室でそんな話をしていました。


ふたりとも、自分達の話に夢中で、途中から休憩が重なっていた妹系メイドのらんかちゃんに、


「あんたたち、さっきから何のアニメの話、してるの? いつやってるやつ?アマゾンプライムで観れる?」


って言われてしまいました。


本当にデウスエクスマキナさんがどうにかしてくれたらいいのにって思うくらい、ゆりかの悩みはつきませんが、お給仕のお仕事はすごく楽しいです。




   2020年9月5日、土曜日。


ゆりかにしか見えない機械仕掛けの神を、ゆりかといちかはとりあえずデウスエクスマキナと呼ぶことにしました。


問題は、キュロ・ヒキカサの傍らにいつもいるデウスエクスマキナのこと。

錯綜してもつれた糸のように解決困難な局面に陥った時、つまりはまさに今のこの世界に現れ、ギリシア演劇に登場した神のように、すべてを解決へと導いてくれる神なのか、

それとも、本当に無から宇宙を生み出した最高位の神の神なのか、

ということでした。


「父さんが生きていたら、何か分かったかもしれないけど」


ゆうべ、お給仕の仕事を終えて、秋葉原から電車で帰るときに、いちかは言いました。


「デウスエクスマキナのこと?」


「んーん、たった一ヶ月でゆりかが一番人気になっちゃったこと」


「ちょっと、いちか!なんでその話題なの!?」


ゆりかは、普通にお給仕しているだけなのに、気がつくとご主人様やお嬢様の間で一番人気になっていました。

もっともそれは、お会計の際にレジで販売しているゆりかの生写真、、、ブロマイドの売れ行きだけで判断されたものですが。


「パンデミックのせいもあるけど、あのメイドカフェ、つぶれるかもしれなかったんだよね。でも、一ヶ月降り続いた雨の途中で、非常事態宣言が解除されて、ゆりかが入ると同時に新規のお客さん、、、じゃなくてご主人様お嬢様がどっと増えたんだよね」


「そうなんだ、、、知らなかった、、、」


「やっぱり、育ちの違いかな」


「育ち?」


「ゆりかは、教団の中しか知らずに育ってきたけど、たぶんお父様やお母様に厳しく育てられたでしょ」


「厳しいと感じたことはないけど、巫女をしてたから、所作とかしっかり叩き込まれたかな」


「たぶんね、そういうところに本物っぽさが出てて、本物のメイドなんて誰も知らないから、アニメとかに出てくるのがわたしたちにとって本物なんだけど、、、おまけにゆりかは世間知らずで、知らないことばかりで、あ、これは別に馬鹿にしてるわけじゃないよ? ご主人様やお嬢様が話しかけてきたときに、真剣に話を聞いてるでしょ?ゆりかにとって、たぶんはじめて聞く話ばかりだから、目を輝かせて、しっかりご主じ、あ、やっぱめんどい、お客さんの目を見て、うなづいたりあいづちをうったりしてて。ああいうのが、お客さんにはたまらないんだと思う。らんかとか、そこら辺の分析ができないから、最近キャラ作りしすぎて迷走しちゃってるし」


「ゆりかは、お給仕が楽しくて、ご主人様やお嬢様のお話は興味深いものばかりだから、普通にしてるだけなんだけどな、、、」


「ゆりかはきっと、同性にも異性にも好かれる、本当にいい子なんだと思うよ。もうわたしのものだから、誰にもあげないけど」


いちかは、最寄り駅で電車を降りると、ゆりかの手を握りました。


「絶対に、誰にも渡さない。ゆりかはわたしがしあわせにするの」


「ゆりかはしあわせだよ。だって、いつもそばにいちかがいてくれるもん」


いちかの目や表情、それから口調がすごく真剣だったから、ゆりかはそう答えましたが、本当はこのしあわせがいつまで続くか不安でした。


棗雪侍さんや小久保晴美さんが今どこで何をしているかまったくわからなかったし、お母様やももかをもう巻き込みたくありませんでした。

某国の国家元首にまでなってしまったお父様のモノクローンと、その傍らに存在するデウスエクスマキナとは、近い将来ゆりかが、ゆりかだけで決着をつけなければいけません。

大好きないちかを巻き込むことはできません。

このしあわせな毎日は、いつまでも続くわけではないのです。

いつかは、いちかとお別れをすることになるのです。


不安で不安で、怖くて怖くてたまりませんでした。

涙が溢れてきて、ぽろぽろとこぼれました。


「ずっといちかといっしょにいたい」


本当はもう、ゆりかは、世界がどうなったっていいとさえ思っていました。

ゆりかにはしなければいけないことがたくさんありましたが、それらから逃げ出したくてたまりませんでした。

すべてを放り投げて、ずっといちかといっしょにいたいという気持ちが、日に日に強くなっていました。


「わたしもだよ、ゆりか。どこにもいかないで」


ゆりかは、泣きながら何度も頷きました。


「わたしたちがずっといっしょにいるための方法は、すごく簡単なことなんだよ」


そして、いちかは言いました。


「匣を渡して。わたしが世界の女王になって、ゆりかの望む世界を作ってあげる」




   2020年9月6日、日曜日。


いちかは、ゆりかに匣を差し出すよう言いました。


「匣は、わたしが管理するわ。ゆりかの手元にあったとしても、宝の持ち腐れ。あなたは匣を畏れている。わたしなら匣を使いこなせる。ゆりかの望む世界を、わたしなら作れる」


「手放したくても、ゆりかには手放せないんだよ。それに、いちかが匣を欲しがる理由をゆりかは知らないけど、匣を使うのは、ゆりかのためじゃないでしょ?いちかのためでしょ?」


匣は、ゆりかの子宮の中に埋め込まれていました。

超大容量小型記憶端末は、アミノ酸をベースにして作られており、人間の女性の胎内に入ることでへその緒のようなものを張り、一体化しようとする、、、

匣と一体化した女性は、匣の持つあらゆるテクノロジーを手に入れる。

匣とはそういう存在でした。

ゆりかの胎内に匣が埋め込まれたのは、初潮を迎える前のことでした。

ゆりかは初潮を迎えることなく、大人になりました。

つまり、ゆりかは妊娠も性行為もすることができません。匣が、男性器を異物、敵対する存在と認識し、破壊してしまうのです。


新約聖書外典には、正しくは『ヨシュアは天使の声を聞き、目の前の腐りはて、白骨化しかけた女性の腹を裂き、匣を取り出した』とありました。


ヨシュアは、男の子の名前をつけられてはいましたが、実は女の子であり、彼女が匣を古代宇宙飛行士の下腹部から取り出すと、匣は自ら彼女の下腹部に吸い込まれるようにして、胎内に入ったそうです。


「いちかは、最初から匣を手に入れるのが、目的だったの?」


「父は、宇宙考古学の権威だった。

 だけど、父がどれだけ世界中をかけずりまわって、その証拠となる物を見つけ、古代宇宙飛行士の存在を訴えても、学会は相手にしなかった。宇宙考古学は、学問として認められないまま、現在に至っているの。

 父は、匣の存在に気づき、千のコスモの会が長年に渡り、匣のうちのひとつを所有していることにまでたどり着いた」


「匣のうちのひとつ?」


「匣とは、対立する文明の古代宇宙飛行士がこの星に少なくとも4つはもたらしている。ゆりかの匣は、グレート・アトラクターと呼ばれる文明の古代宇宙飛行士がもたらしたもの」


「こんな恐ろしいものが、あと他に3つも、、、まさか、、、」


「おそらく、すでにひとつは失われているでしょうね。あるいは、ゆりか、あなたがわたしについた嘘が、嘘から出た真になったのかもしれない。千のコスモの会の歴代の13人の使徒の記憶や人格を保存していたという神降ろしの儀式の間、そこにも匣はあったはず、、、それは今、某国の国家元首の手にあるのかもしれない」


「いちかは、最初から、千のコスモの会が持つ匣が目的だったの?」


「父は、千のコスモの会によってその命を奪われた。

 匣の存在は、小久保晴美がかつて発見した千年細胞よりも、秘匿しなければいけないものだった」


「いちかのお父様が、殺されたのはいつ頃のこと?」


「榊弘幸がまだ棗弘幸だった頃と言えば、理解できる?」


「そう、、、ゆりかのお父様が、変わってしまう前の優しいお父様が、いちかのお父さんを殺したのね、、、」


ゆりかは、たとえそれがお父様の役割だったとはいえ、お父様が殺人にまで手を染めていたことに、

薄々はそういうことをしていたのではないかという疑念はありましたが、、、

その事実を知り、体から力が抜け落ちてしまいました。


「いいよ、いちか、匣がほしいなら、ゆりかのお腹を切り裂いて」



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