2020/08/27~30

   2020年8月27日、木曜日。やさしい雨。


「ねぇ、ゆりか、そう思わない?」


鮎川いちかがゆりかにそう言ったのは、一ヶ月前のことでした。


ゆりかは、作り笑顔で、そうね、と返しました。

いちかの言う通り、神様なんていないわ、と。


彼女は、ゆりかが、世界規模のパンデミックを引き起こした千のコスモの会の実質的教祖であった榊弘幸の娘であることを知りません。


パンデミックも戦争も、すべては某国が新たな世界を創造するために一度世界を破壊しようとした、、、

テレビやインターネットのニュースはそのようにしか報じることはなく、その背後に千のコスモの会がいたことはすべて秘匿されていました。


それはつまり、いまだこの国は千のコスモの会の手のひらの上にあることを意味していました。


世界中に一ヶ月降り続いた雨は、パンデミックを収束に向かわせました。

核兵器や原子力発電所を無効化しました。

すべては、ゆりかが仕組んだことです。


ゆりかは、教団から匣を持ち出していました。


榊弘幸はまだ生きている。


ですが、お母様やももかがすべき役割は終わりました。


すべては、20年前、誘拐された少女がネットアイドルをしているという、ミッシングというウェブサイトからはじまり、その物語はミッシング2020で、終わりを迎えたのです。



ここからは、佐久間ゆりかと、鮎川いちかの物語が始まるのです。




  2020年8月28日、金曜日。某国の新たな国家元首は


世界中に一ヶ月降り続いたやさしい雨によって、カーズウィルスによるパンデミックは収束に向かいつつありました。


やさしい雨は、カーズウィルスの抗体を人類にもたらしただけではなく、世界中の核兵器やあらゆる兵器や武器、弾薬を無力化し、世界各国の戦争も終わりを迎えつつありました。


世界中の核兵器の無力化は、同時に世界中の原子力発電所をも無力化させてしまいました。


しかし、世界の人口は、ほんの数ヶ月前まで70億を越えていたのに、今はその十分の一まで減っていました。


原子力発電所がなくとも、火力や水力、風力、そして太陽光による発電だけで、充分に暮らしていける人口でした。


某国の国家元首、キュロ・ヒゥトカが目指した、戦争の歴史や宗教による遺恨のない、新たな人類の世界こそ実現しませんでしたが、某国とその背後に存在する千のコスモの会によるパンデミックと世界最終戦争(ラグナロク)は、人類を間引き、枯渇しつつあったエネルギー問題や食料問題を解決しました。


キュロ・ヒゥトカは、某国の国家元首を辞任し、自らその身柄を国連へと差し出しました。

彼をヒトラー以上の無慈悲な大量殺戮者だとする声もあれば、慈悲深い新たな世界の創造主とする声もありましたが、おそらく彼の死刑、あるいは終身刑は免れられないことでしょう。

60億人以上の罪もない人々の命を奪ったのですから、仕方がありません。


某国は、国連の監視下におかれ、新たな国家元首キュロ・ヒキカサのもと、100以下にまで減ってしまった世界中の国々への経済的支援を始めました。


新たな国家元首キュロ・ヒキカサは、千のコスモの会の実質的教祖であり、ゆりかのお父様である榊弘幸でした。


お父様は、一ヶ月以上前、千のコスモの会の総本山であったN市八十三町を、町ごと跡形もなく吹き飛ばした本部施設爆破事件により、すでに死亡したことになっていました。

お父様は元々、そのお顔を世間の目に出されない方でしたので、おそらく某国の国家元首となることまでは、あるいはもっと先のことまで、あらかじめ練られたシナリオ通りだったのだと思います。


お父様がテレビに映るたびに、ゆりかには見えて、いちかには見えない存在がお父様の背後には存在しました。


お父様は、おそらく、神降ろしの儀式に成功されていたのです。


この星の大地や海を、6日間で創造したという、みだりにその名を口にしてはならない神よりも、はるかに上位の、この宇宙そのものを作り出した神を、


ゆりかやお母様ではなく、


お父様自らを依り代として、降臨させ、顕現させた、、、


この世界は、もはや、すべてがお父様の手のひらの上でした。



お父様がこれから何をしようとしているのかは、わかりません。

ですが、お父様が何をしようとも、ゆりかがお父様を必ず止めます。


ゆりかには、今、それを可能とする力がありました。


匣という力です。




   2020年8月29日、土曜日。


この二十年間の記憶をなくし、14歳の加藤麻衣にこどもがえりしてしまったお母様とももかには、お父様や千のコスモの会とはもう関係ない場所で生きていってほしいと、ゆりかは思いました。


あの1Kの狭い部屋にふたりを残して、ももかが今でも兄と慕う棗雪侍さんや小久保晴美さんと同様に、ゆりかもまた、あの部屋を出ることにしたのは、一ヶ月ほど前、世界中にやさしい雨が降り始めたころです。


かつてゆりかやお母様の世話係をしていてくれており、今は教団から離れていた松崎さんと吉本さんという女性と連絡がつき、無理を言って二人の世話をまかせることにしました。


ゆりかは、まだこどもがえりする前のお母様やももかと一度だけショッピングに出かけることができました。

ずっと、そんな普通の女の子が当たり前にしていることをするのが、ゆりかの夢でした。

19歳になって、それがようやくできました。

ショッピングどころか、ゆりかはバスや電車、タクシーに乗ったこともなくて、その日は1日だけ、ゆりかは普通の女の子として過ごすことができました。

それだけで、ゆりかはこれ以上の幸せなんてあるのかなっていうくらい、幸せでした。


普通の女の子として1日を過ごしたことを、心の中の大切な場所にしまって、ゆりかは普通じゃない女の子として、すべきことをする、、、そういう選択をしました。


お母様とももかに選んでもらった服を着て、ふたりに乗り方を教えてもらったバスや電車を乗り継いで、ゆりかは東京へ向かいました。


東京には、お父様から与えられた、いろんな機能が制限されたパソコンで、インターネットを通じて知り合い何年もメールやチャットを続けてきた友達が住んでいました。


それが、鮎川いちか。

ゆりかと同じ19歳の女の子で、大学二年生。


お互い顔も、声も、本名も知らない間柄なのに、会いに行ってもいい? と聞くと、二つ返事で住所が送られてきて、ゆりかはそれにすごくびっくりしました。


文字だけのやり取りで、お互いに想像していたイメージと実物?本人?は大分違ったし、違ったみたいだけど、ゆりかといちかはネット上だけでなく、リアルでもあっという間に仲良くなることができました。


東京に住もうと思うの、お部屋をいっしょに探してほしいの、


と、ゆりかがお願いすると、


この部屋でルームシェアしたらいいじゃん、


と、いちかは言ってくれました。


いちかは、ゆりかのはじめての友達でした。




   2020年8月30日、日曜日。


東京で、いちかといっしょに暮らしはじめて一ヶ月。


ゆりかはいちかと同じバイト先でお給仕をしながら、いちかが通う大学のオンライン講義をいっしょに受けたり、1日だけで満足したはずの普通の女の子としての生活を満喫していました。


お母様とももかをあの狭い部屋に残してきたというのに。

そんな罪悪感を感じることもないくらい楽しい日々でした。


いちかは、ゆりかにとってちょうどよい距離感で、ゆりかに接してくれます。


まるでゆりかのすべてを知っているかのように、ゆりかが聞かれたら返答に困るような質問は絶対にしてきません。


生まれつきなのか、ご両親やご家族にそういうふうに育てられたのか、あるいは、お給仕のアルバイトを一年以上続けているからか、ゆりかに対してだけじゃなく、どんな相手に対しても、適度な距離感を保つことができる子でした。


誰もが持っているであろう、踏み込まれたくない領域、踏み込んじゃいけない領域が、いちかには見えているんじゃないかと思うくらいでした。


だからといって、他人に興味がないわけではないし、心を開いてくれないわけでもありません。


きっと、ゆりかよりもいちかは大人なんだと思います。

いろんな経験をたくさんしてきたのだと思います。



いちかは、大学で、宇宙考古学という学問を専門に学んでいました。


世界には、ナスカの地上絵やピラミッドのような、それが作られた当時の人々には到底作ることが不可能だったものがたくさん存在します。


それらは、外宇宙からやってきた、高度な科学文明を持つ古代宇宙飛行士と呼ばれる存在によってもたらされたもの、、、


いちかが学んでいるのは、そんな学問でした。


その学問によれば、ゴルゴダの丘で処刑され、三日後に息をふきかえした聖人もまた、古代宇宙飛行士のひとりに数えられていました。


聖人はその後、数人の弟子(=使徒)たちを連れて、日本に渡来した、、、


この国の三種の神器と呼ばれるもののひとつ、草薙の剣、別名アメノムラクモノツルギは、聖人が処刑される際に使われ、後に手にした者が世界を手にすると言われるようになり、ナチスのヒトラーが血眼になって探した槍と同一のものである、、、


それは、千のコスモの会のルーツとなった、聖人の日本渡来説や日本人のユダヤ人始祖説でした。


いちかの部屋には宇宙考古学に関する本が山のようにあり、彼女のお父様はすでになくなられていましたが、その学問において権威と呼ばれていたそうです。


偶然にしては出来すぎている、と感じたこともゆりかにはありました。


ですが、ゆりかが感じた猜疑心を一瞬で吹き飛ばしてくれるくらい、いちかはその学問に夢中で、ゆりかの知らないことを本当に楽しそうに教えてくれました。


ゆりかは、普通の女の子として過ごしながら、いちかのおかげで毎日一歩また一歩とゆりかの知りたかった真実に近づいている、そんな実感がありました。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る