2020/07/06~9
2020年7月6日、月曜日。
ももかは、お兄ちゃんの残していった殴り書きのメモから、ももかが起こした文章を、ゆりかお姉ちゃんとママに見せてみることにした。
「多少の差異はあるかもしれないけど、、、」
ママは、
「たぶん、お兄ちゃんは、こういうことを晴美から聞かされたんだと思う」
読み終えると、そう言った。
「ゆりかも、そう思います。
おそらくこのメモに書かれている固有名詞や単語を文章にするなら、ももかが起こした文章が、学叔父様が晴美さんとの会話で知った真実に非常に近いものかと」
お姉ちゃんも、ママと同じ感想だった。
だけど、だからこそ、ももかも、ゆりかお姉ちゃんも、ママも、頭を悩ませることになった。
だって、お兄ちゃんが残した最後のメッセージは、わけがわからなかったんだもん。
ももかは、パパのことをよく知らないけれど、
「あのとき、神降ろしの儀式の間にいたのは、間違いなくお父様でした。
ゆりかは儀式の途中で意識を失ってしまいましたが、、、」
「ゆりかの言うとおりよ。
あの場にいたあの人は、確かにあの人だった。
ゆりかは意識を失っていたし、お兄ちゃんや晴美があの場に現れたのは、すでにあの人が進化型カーズウィルスを発症して死んでしまったあとだったから、あの人の最期を知るのは、麻衣、、、ママだけだけど」
ももかと違って、パパの一番近くにずっといたお姉ちゃんとママが、パパは間違いなくパパだったと言った。
「あの人は死の間際に、自分を取り戻したの」
ママは、まるで、ももかと同い年の女の子に戻ったような、恋をする女の子の顔で、パパの最期について、お姉ちゃんとももかに話してくれた。
2020年7月7日、火曜日。親愛なる加藤麻衣と、
あの人は戻ったんだ。
榊弘幸になる前の、優しい棗弘幸に。
麻衣が大好きだった棗さんに、、、
棗さんが麻衣のところに還ってきてくれた。
目を見るだけでわかった。
優しい目。
だけどどこか寂しそうで、悲しみを抱えた目。
まるでさっきまでは憑き物につかれていたかのようで、
そして、その憑き物がどこかへ行ってしまって、
自分が今どこにいて、何をしようとしていたのかわからない、
棗さんは、そういう顔をしていた。
でも、そばに、麻衣やゆりかがいることに気づくと、安心したみたい。
まるで迷子になってしまったこどもが、ママやお姉ちゃんを見つけたかのように。
嬉しそうに顔をくしゃっとして笑った。
麻衣の素敵な旦那様は、20年前のあの日から、麻衣を誘拐したときから、何も変わってない。
かっこよくて、大人で、器用で、なんでもそつなくこなしてしまう。
隙なんてどこにもないように見えるけれど、本当は誰よりも寂しがり屋で、麻衣がいないと何にもできない、かわいい人。
麻衣よりも14才も年上なのに、素敵な旦那様のときもあれば、麻衣のうしろにずっとついてくる弟のようなときもあって、いつも麻衣を探して、迷子にならないように麻衣のお洋服の袖をつかんだりする。こどもみたいに。
麻衣は、そんな、どの棗さんも好きだった。
棗さんは、何かを言おうとしていた。
でも、言葉にできなかった。
身体中の血液や体液が、棗さんの体から飛び出そうとしていたから。
でも、唇の動きで、わかった。
麻衣、って呼んでた。
何度も何度も呼んでた。
ゆりかの名前も呼んだ。
麻衣にも、ゆりかにも、ごめんね、って言おうとしてた。
どうして謝るの?
と、麻衣は聞いた。
棗さんは、何も悪くないよ。
棗さんの中に、棗さんも麻衣も知らない何かが入り込んで、9年も棗さんの体を好き勝手に使っていただけ。
麻衣は、いつか必ず、棗さんが還ってきてくれるって信じてた。
麻衣が信じていた通り、棗さんは還ってきてくれた。
麻衣はそれだけで充分。
それだけで、この9年間のことなんて、なかったことにできるくらい。
それくらい、今、幸せだよ。
還ってきてくれて、ありがとう。
麻衣は、たくさん棗さんに話しかけた。
でも、棗さんは、何も言えずに、麻衣の目の前で、麻衣やゆりかの体をその血で真っ赤に染めた。
麻衣はびっくりして、目を瞑ってしまって、そして、目を開けたときには、棗さんは動かなくなっていた。
9年ぶりに会えたのに。
抱きしめてもらうことも、キスをしてもらうことも、手を繋ぐこともできなくて。
麻衣は、動かなくなった棗さんの手を握った。
キスをした。
あのときの棗さんが、棗さんじゃないなんて、そんなことは絶対にありえない。
世界中の人が、棗さんじゃないって言ったとしても、あの人は絶対に棗さんだった。
世界中の人に、棗さんの何がわかるの?
棗さんのことを一番知ってるのは麻衣だし、麻衣しか知らない棗さんはいっぱいいるし。
だから、麻衣はもういいんだ。
棗さんのいない世界に、麻衣が生きる意味なんて、もうどこにもないから。
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その日、ママは、ゆりかお姉ちゃんのことも、ももかのことも忘れてしまった。
これまでの二十年間が、ママの中でなかったことになってしまった。
14才の加藤麻衣に、ママはなった。
ママは、棗さんはどこ? 棗さんに会いたい、と言って泣いて、泣きつかれると眠って、目を覚ますと、またお姉ちゃんやももかのことを忘れていて、ママの棗さんを探して泣いた。
2020年7月8日、水曜日。佐久間ももかに、この物語を捧ぐ。
お母様にもももかにも秘密にしていたことが、ゆりかにはありました。
お母様が愛し、ゆりかやまだ幼いももかが大好きだったお父様が、なぜ変わってしまわれたのか。
なぜお父様はお母様の目の前で亡くなられてしまわれたのに、学叔父様、いえ、本当は棗雪侍さんであった人が遺したメモにあったように、お父様は「生きている」のか。
その答えを、ゆりかは、知っていたのです。
お父様が変わられてしまったのは、棗から榊へ、つまりは第十三使徒から第一使徒になってからのことでした。
千のコスモの会の十三人の使徒の方々は、ゴルゴタの丘で処刑された聖人が三日後に復活を遂げた後、共にこの島国に渡来し、2000年の時を生き長らえてきた、と信じられていました。
信者の方々だけでなく、使徒の方々ですら信じて疑ってはいませんでしたが、それはそういう風に思い込ませる側の使徒の方々までそう思い込んでしまっていたに過ぎませんでした。
ですが、千のコスモの会が、2000年にわたりこの国の歴史を影で操り続けてきたことは確かなのです。
それは同時に、千のコスモの会にとって都合の悪い歴史を、偽史、あるいは黒歴史として、歴史の闇に葬り去り続けてきた2000年でもありました。
それは、千のコスモの会の歴史においても同義でした。
使徒が死に、別の者がその空席を埋める、ということもまた、彼らが自ら闇に葬り続けてきた歴史だったのです。
そのために、使徒の方々は死の前に自らの記憶や人格のコピーを、データとして保存し、自らの死後空席を埋める者に遺し、空席を埋める者はそのデータを引き継ぐ、、、
神降ろしの儀式の間は、実際には歴代使徒たちの記憶や人格のデータを保存し、空席を埋める者がそれを引き継ぐための場所でした。
2000年前にはもう、千のコスモの会は記憶や人格をデジタルデータとして保存し、それを別の人間の脳へと移す、現代の科学ですらまだなし得ていない技術を有していました。
聖人はかつて、聖書に記される数々の奇跡を起こしました。
しかし、それは奇跡でもなんでもなく、聖人が「匣」と呼ばれる、現代の科学よりもさらに二歩三歩先のオーバーテクノロジーを有していたからです。
仮に、2000年前の時代に、ライターを作り出す技術を聖人だけが持っていたとしたら、どういうことが起きたでしょうか?
当時の人々にとって、手から火を起こすことは奇跡に見えたことでしょう。
奇跡はすべて、手のひらに乗るほどの大きさでありながら、テラバイトよりもさらにさらに上の超大容量小型情報端末によって作り出された科学によるものでした。
最後の晩餐の際に聖人が予言したという、
この中に裏切り者がいる
という預言が、イスカリオテのユダを指していたのか、それとも彼以外のすべての使徒を指していたのかは、今となっては知るすべはありません。
ですが、十三人の使徒と共にこの島国に渡来したはずの聖人がおらず、匣というオーバーテクノロジーだけが千のコスモの会に遺されていることから、その真相については、憶測の域を出ないものの容易に想像がつきます。
棗であることを捨て、榊となったお父様は、すでに歴代の第十三使徒の記憶と人格を引き継いでいました。
そこにさらに、歴代の第一使徒の記憶と人格を引き継いだため、第十三使徒と第一使徒という相反する存在の記憶と人格が、お父様の中でひとつになることができず、互いに反発しあう結果を招きました。
そして、お父様は狂われてしまったのです。
これがお父様が変わってしまわれたことについて、ゆりかだけが知る真実です。
2020年7月9日、木曜日。 最終話 宛先住所不明につき
お兄ちゃんへ
お兄ちゃん、元気にしてますか?
ももかは、元気です。
ゆりかお姉ちゃんも元気にしています。
お兄ちゃんと、晴美さんのおかげです。
ママは、、、元気じゃないかな、、、
ママは、こどもがえりって言ったらいいのかな、、、この20年間の記憶をなくしてしまって、ももかと同じ14才の加藤麻衣になってしまいました。
ゆりかお姉ちゃんのことも、ももかのことも忘れてしまって、優しかったころのパパを、どこ?どこにいっちゃったの?って、ずっと探しています。
ママは幸せなこともたくさんあっただろうけど、それよりももっとたくさんつらい思いをしてきたと思うから、ママがそれを忘れてしまったことが、ママにとっていいことなのか、悪いことなのかは、ももかにはわかりません。
ゆりかお姉ちゃんとゆっくり話をして、ママのことは、お姉ちゃんとももかのふたりでこれから支えていくことにしました。
お兄ちゃんがそばにいてくれないのは、とてもさびしいし、心細いけれど、お兄ちゃんにはお兄ちゃんが今しなくちゃいけないことがあって、お姉ちゃんやゆりかをそれに巻き込みたくないんだよね。
でもね、お兄ちゃん、ももかは、お兄ちゃんの気持ちもわかるけど、置いていかれちゃったのはさびしかったよ。
足手まといにしかならないかもしれないけど、お兄ちゃんのそばにいたかったよ。
お兄ちゃんが佐久間航じゃなくても加藤学じゃなくても、棗雪侍さんだったとしても、お兄ちゃんは、ももかのたったひとりのお兄ちゃん。
それは、これから先、どんなことがあっても変わらない。
兄妹だから。
家族だから。
ももかは、こどもがえりする前のママからパパが最期の瞬間に、元のパパに戻ったことを聞きました。
それから、ゆりかお姉ちゃんから、お兄ちゃんが今たぶん、晴美さんといっしょにしようとしてることを聞きました。
千のコスモの会のこと、使徒の人たちのこと、それから匣っていうよくわからないもののことも、お姉ちゃんが知ってることは全部教えてもらいました。
パパは死んじゃったけど、死んじゃったのは棗弘幸としてのパパで、
おかしくなっちゃった方のパパは、榊弘幸は、体をどうにかして元通りにしたのか、あらかじめ別の体を用意してたかわからないけど、まだ生きているんだよね。
死んでないんだよね。
だから、榊弘幸の死と同時に死んじゃう体にされてしまったお兄ちゃんは生きていて、お兄ちゃんは今すべてを終わらせようとしてるんだよね
お兄ちゃんは、ももかのこと、まだ好きでいてくれていますか?
ももかは、お兄ちゃんのことが今でも本当に好きです。本当に本当に大好きです。
今、お兄ちゃんのそばに、晴美さんがいるのなら、晴美さんならきっとお兄ちゃんの体をどうにかできると思うから。
ママやお姉ちゃんやももかのために、自分を犠牲にするとか、生きることを諦めることだけは、どうかしないでください。
それから、晴美さんへ。
お兄ちゃんはももかのだから。誰にもあげないから。
お兄ちゃんの体をなんとかしてほしいけど、お兄ちゃんに手を出したりしたら許さないから、それだけは覚えててね!
ももかは、ずっと待ってます。
お兄ちゃんが帰ってきてくれるのを、ずっとずっと待ってます。
だから、絶対に帰ってきてね。
大好きなお兄ちゃんへ
ももかより
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