2020/06/29~07/05

  2020年6月29日、月曜日。


時は少し遡る。


ぼくと小久保晴美は、彼女が開発したソーシャルディスタンススーツに身を包み、千のコスモの会本部施設の中枢に向かっていた。


中枢は、使徒が、自ら選んだ巫女を神の依り代、あるいは神の肉体に変わる器として、神を降臨、顕現させる儀式の間だ。


そこに、第一使徒であり、実質的な教祖である榊 弘幸と、その妻である麻衣、巫女であるゆりかがいるのは間違いなかった。


「奴は、ゆりかを使って、何をしようとしている?」


本部施設には、けたたましい警戒音が鳴り響いていた。

まだ発症に至ってない信者たちが、ぼくたちの姿を見つけると、警察や自衛隊顔負けの武器で攻撃をしかけてきた。


しかし、本来なら一発で人を木っ端微塵にするような武器ですら、小久保晴美の作ったソーシャルディスタンススーツは、その直撃を受けても虫に刺された程度の痛みしか感じなかった。


彼らは、その武器に負けず劣らず、良く訓練されていた。

銃火器が通用しないのを悟ると、刀やナイフなどの近接武器に切り替えて襲いかかってきた。

だが、刀は折れ、ナイフはMR.マリックのスプーンのように曲がるだけだ。


ぼくたちは、決して応戦はしない。

彼らから武器を奪い、彼らを殺すことは容易い。

だが、ぼくたちは彼らを殺すつもりはなかった。

彼らは被害者だ。

どんな理由で千のコスモの会の信者となったかは知らないが、何かすがりつくものがなければ、生きてはいけなかった者たちばかりだ。

彼らは弱味につけこまれ、洗脳された憐れな人間たちに過ぎない。

彼らを殺す理由が、ぼくたちにはない。

ぼくたちが殺さなくても、彼らはカーズウィルスの感染者であり、遠からず死ぬ運命にある。

身体中の穴という穴から体液や血液を噴き出して、自ら血の池地獄を作って死ぬ。

彼らは、ただ幸せになりたかっただけなのに、人並みの幸せすら与えられぬまま死んでいく。

宗教なんて、所詮そんなものだ。


「まさか、自衛隊並みの武器をそろえ、信者たちに、戦闘訓練までしているとはね。某国を利用して、世界規模のパンデミックや戦争を起こし、一度は某国を世界の王とした後で、千のコスモの会がその玉座を奪い取る、そういうシナリオだったわけか」


「加藤学、あなたは、聖人の父であり、みだりにその名を口にすることさえゆるされない唯一無二の絶対神について、どう思う?」


小久保晴美がぼくに問う。


「器の小さい奴だと、はじめて聖書を読んだときに思ったよ。食べるなと言われていた果実を食べた人間は、蛇にそそのかされただけだ。彼らは騙されただけ。それなのに、彼らは楽園を追放された。神は人に知恵をつけられては、いつか人が自分にとってかわり神になりかねない存在だと気づいていた」


「そうかもしれないわね。そう考えれば、バベルの塔の建造に怒り、塔を雷で破壊するだけでなく言語をわけたことも、保身のために出る杭を打ったと言えるわ」


「大洪水の前まで人の寿命は千年あった。だが、大洪水後、人の寿命は百年まで短くなっている。知恵をつけた人が千年も生きれば、神と同等の存在が生まれかねない。だから、人の細胞を必ずガン化するように遺伝子を書き換えた。以来人はガンで死ぬか、その前に別の要因で死ぬかのどちらかしかなくなり、百年以上生きることが困難になった」


「つまり、加藤学、あなたは、神とは政治家や官僚のような一権力者に過ぎず、その頭の中は自らの保身のことばかり、そう考えているわけね」


「あながちいい線を言ってると思うけど、晴美さんの考えは違うのかい?」


「私も全く同じ。あなたが、そこまで神という存在を分析しながらも、神の存在を信じていないように、私もまた、同じ立場よ。でも、神自体についての分析は同じでも、神の存在を信じる者がいたとしたら、その者は何を考え、どんな行動を移すかしら?」


「それが、ここの教祖様ってわけか」


「神はあくまで、この星の大陸や海を作ったに過ぎない。しかも、この島国は、別の神によって作られている。つまりは、この国を管轄する神がいて、その上位にみだりにその名を口にしてはいけない神がいる。その神の管轄はあくまでこの星に過ぎない」


「この星に大地や海ができるより以前から、宇宙は存在した。つまり、全くの無から宇宙を産み出した、さらに上位の神が存在することは容易に想像できるな、、、そうか、榊弘幸がゆりかや下手をすれば麻衣までを依り代として顕現させようとしているのは、、、」


「そう、神の中の神。みだりにその名を口にしてはいけないどころか、まだ誰もその名を知らない神よ」


「ぼくは、そもそも、神の存在だけでなく、宇宙が誕生する以前、無だったということ自体が、おかしいと考えているけど」


「同感よ。神は存在しないし、無から何かが生まれることはないわ。でも、榊弘幸は」


「存在しない神を顕現させるために、ゆりかや麻衣を犠牲にしようとしている、、、か」


「そして、神の中の神をも、自分の意のままにしようとしている」




大馬鹿野郎だ。




   2020年6月30日、火曜日。


千のコスモの会本部施設中枢部の場所を知るのは、十三人の使徒だけ。

つまりは教団の十三人の幹部だけがその場所を知っている。


「使徒はあと何人だ? 何人生き残っている?」


「それは、あなたも含めて、という意味かしら? 第八使徒の榊ヤマヒトさん?」


ありがたいことに、ぼくはその使徒のひとりであり、中枢の場所を知っていた。


「含めないでもらえると助かるな。いくら偽名とはいえ、自分を殺したくはない」


憐れな信者たちを殺すつもりはなかったが、使徒だけは別だった。

彼らは、ぼくがそうであったように、決して一枚岩で結束が深いわけではなかった。

しかし、各々が得意とする分野において、第一使徒榊弘幸の目指すもの、千のコスモの会が世界を牛耳り、神の中の神をも千のコスモの会に従わせようという計画の協力していたのは間違いない。

世界規模のパンデミックと戦争を引き起こした、S級戦犯。

彼らもまた、遠からず人間噴水となる運命だが、彼らだけはぼくは許すことができなかった。

この手で首の骨をへし折ってやりたかった。


「そういえば、あなたは急死した前第一使徒のお気に入りだったそうね」


「前の第一使徒は、騙しやすかったよ。

 新興宗教にのめりこむような人間は、いくら幹部に登り詰めたと言っても、騙されやすい奴が多いからな」


「もしかして、その頃のあなたには、今日という日に、本部施設中枢へ向かうことになるという未来が見えていたのかしら?」


「まさか。預言者じゃあるまいし。すべて偶然だよ」


「偶然は、みっつ重なれば必然よ。私との出会いもそう。あなたは、みっつどころか、よっつ、いつつ、あるいはそれ以上、、、すべてを偶然に見せかけて、今日この場に居合わせているように私には見える」


自分でも、正直なところ、よくわからなかった。

ぼくは無力な人間だ。20年前からそれは変わっていない。


麻衣を誘拐され、恋人だった恋子を殺され、ぼくは自分の人生にはこれから先、楽しいと感じることも幸せだと感じることも、一切訪れることはないだろうと考えていた。

ぼくの人生は、19歳にしてすでに余生だと思っていた。


ももかを、連れ出すことができたことが奇跡だったと思えるくらいに、ぼくは無力な男だった。


そんな男が今、まだ彼女に出会う前、理研の広告塔として利用されているのをテレビで見ていたときから最高にいい女だと思っていた彼女と、ロボットアニメのパイロットスーツみたいな全身タイツ型防弾チョッ、ソーシャルディスタンススーツをペアルックで着て、かつてぼくの妹を誘拐し、今まさに世界を混乱に陥れている人類史上最も恐ろしく最も愚かな男から、妹と姪を取り返そうとしている。


本当に不思議だ。


気づけばぼくと小久保晴美は、生き残りの使徒に遭遇することもなく、本部施設中枢部へと続く長い回廊にいた。

数十メートル先の重々しい扉の先に、麻衣が、ゆりかがいる。



「私が知る限り、榊弘幸にとって用済みとなり消されることもなく、カーズウィルスも発症せず生き残っているのは、榊弘幸を除けばひとりだけ」



第一使徒、榊 弘幸

第二使徒、榊 魁星

第三使徒、榊 光明

第四使徒、榊 克己

第五使徒、榊 順

第六使徒、榊 常吉

第七使徒、榊 徹

第八使徒、榊ヤマヒト=加藤学

第九使徒、榊 清人

第十使徒、榊 涼

第十一使徒、榊 教弘

第十二使徒、榊 影人

第十三使徒、棗 雪侍



「使徒もまた、皆榊弘幸の手のひらの上で踊らされていただけだというわけか。そのもうひとりは、もちろんぼくじゃないとして、一体だい?」


「第十三使徒でありながら、第一使徒となり、榊を名乗ることになった棗弘幸の代わりに、第二使徒から第十三使徒に堕ち、榊から棗に堕ちた者、、、」




「ぼくの噂話かい?」



小久保晴美の言葉を遮った男の声に、ぼくは聞き覚えがあった。


第十三使徒、棗 雪侍。


棗雪侍は、直線の回廊を進んでいたぼくと晴美のちょうど真ん中に立っていた。


一体どこから現れたのか、まったくわからなかった。

そういうSFじみた話は、本当にどこかよそでやってくれないかな。そんなことを考えていたぼくの目に飛び込んできた雪侍の姿を見て、ぼくは大きくため息をついた。


棗雪侍は、ぼくや晴美と同じ姿をしていたからだ。


ソーシャルディスタンススーツ。


本当にやめてほしい。


世界観な。世界観。




   2020年7月1日、水曜日。


ももかは、お兄ちゃんが語る、ママとゆりかお姉ちゃんの救出劇を聞きながら、思わず笑ってしまった。


お兄ちゃんは、ママのお兄ちゃんで、ももかの叔父さんの学さん(本物)だって聞かされたけど、ももかにとってお兄ちゃんはやっぱりお兄ちゃんだから、お兄ちゃんと妹のままでいさせてもらうことにした。

14歳どころか24歳も年上のお兄ちゃんだけど。


本当に、お兄ちゃんが語る武勇伝?は、おかしい。


世界観な、世界観、なんて、なんでそんな大変なときに、そんなこと思えるんだろう。そんな余裕があるんだろう。



棗雪侍って人は、千のコスモの会本部施設中枢部に向かう回廊に、突然現れると、小久保晴美さんを人質にとったそうで。

彼は、晴美さんが開発したソーシャルディスタンススーツのプロトタイプを着ていたらしく、、、


「でも、N市八十三町、千のコスモの会の本部施設がある町に限ったことだけれど、あの町でパンデミックを引き起こしていたカーズウィルスは、世界中でパンデミックを引き起こしていたものとは別のウィルスだったんだ」


別のウィルス?


「去年の秋か冬にはもう、千のコスモの会から某国のウィルス研究所に運ばれていたものを、晴美さんがさらに研究を重ねて、人工的に進化させたもの、、、名前をつけるなら進化型カーズウィルスといったところかな、、、そういうものだったらしい」


どんなふうに進化したウィルスだったの?


「晴美さんも同じ、進化型カーズウィルスに感染していた。

 でも、彼女は抗体を持っていたから発症することはなかったわけだけれど。

 進化型カーズウィルスはまさに、以前から言われていた通り晴美さんの世界を呪う心そのものだった」


ももかの目には、晴美さんが世界を呪っているようには見えなかった。

いつも笑顔で、明るくて、人を楽しい気持ちにさせる、、、でも、ちょっと、ちょっとだけ空気が読めない人。

それが、晴美さんに対してももかが抱いた印象だった。



「明るくふるまってはいるけれど、あの人の心の闇は深い。道化を演じ続けることで、闇はますます深くなっていってる」


お兄ちゃんはそう言った。

お兄ちゃんがそう言うのなら、そうなのだと、ももかも思う。


「晴美さんはただ、感染から発症までの期間を短くし、発症時の感染規模を拡大しただけのつもりだった。

 しかし、晴美さんがカーズウィルスに対して行った人工的な進化は、晴美さんの想像を超えた進化を遂げた」


お兄ちゃんがもったいつけて話すから、ももかは早く知りたくてうずうずした。


「進化型カーズウィルスは、抗体を持つ人間の細胞と共存する。

 遺伝子レベルで互いに共存という選択をし、ウィルスと細胞が一体化する。

 それは頭から爪先、内臓や血液、体液、脳、すべての細胞が、進化型カーズウィルスとの一体化によって、見た目はそのままに肉体や脳、精神、すべてを強靭なものとする、、、らしい。

 そして、進化型カーズウィルスと一体化した脳細胞は、脳波によって未発症の人間の中のカーズウィルスと共鳴し、発症を促すことができた」



小久保晴美さんは、人質にとられながらも、棗雪侍という人を、人間噴水にした。


お兄ちゃんも晴美さんも、そのときはふ何が起きたのかまったくわからなかったそうだ。


そして、ふたりは回廊の先にある重々しい扉を開けた。




   2020年7月2日、木曜日。


千のコスモの会本部施設中枢部、神降ろしの儀式の間では、棗雪侍という人と同じように、ももかの本当のパパ、榊弘幸が、ママとゆりかお姉ちゃんの前で、人間噴水になっていたそうだ。


お兄ちゃんと小久保晴美さんは、人間噴水になったパパ、榊弘幸を呆然と見つめるママと、意識を失っていたゆりかお姉ちゃんを助けると、本部施設に火をつけた。

大量の銃火器や弾薬、覚醒剤や麻薬、医療薬品、化学物質、、、本部施設の中は爆薬庫のようなもので、火の手が回り始めるとあちこちで爆発が起き、火は町全体に燃え移った。


一夜明けると、町は千のコスモの会ごと、世界から消えた。


ゆりかお姉ちゃんは、意識を失っているだけでなく、放っておけばももかやお兄ちゃんの家に着くまでに死んでしまうくらい、体の大半が腐り落ちかけていた。


だから、お兄ちゃんが運転する車の中で、晴美さんが応急処置を施した。



晴美さんは、かつて、理研の広告塔として割烹着を着せられながら、千年細胞という若返りや不老長寿を可能とする細胞を発見した人。

でもそれは、その存在自体が、秘匿され続けてきた細胞だった。

20年前ママが誘拐された事件が、事件自体がなかったことにされてしまったのと同じように、晴美さんの世紀の大発見は、なかったことにされてしまった。


ももかのパパが棗から榊になるかわりに、榊から棗になった雪侍という人によって、大切な研究資料が改竄されたり、研究結果が盗まれたりしてしまった。


そして、彼女の発見は、すべてが嘘で塗り固められたものだとされてしまった。


晴美さんは、若返りや不老長寿を可能とする細胞を発見した天才科学者としてマスコミに持ち上げられ時の人となっていた。

だけどその直後に、マスコミや大衆から袋叩きにあい、それだけでなく当時同じ研究チームにいた研究者はすべて理研を去ったり、行方がわからなくなったりした。

その中には晴美さんの恋人もいた。

晴美さんは、恋人を自殺に見せかけて殺され、すべてを失った。


割烹着を着せられていた頃、晴美さんは、男の人がこれくらいがちょうどいい、と言うけれど、女の子は絶対にそれは嘘だと思ってる体つきだった。

でも、テレビで放送された最後の記者会見のときには、彼女は別人のように痩せほそっていた。


彼女は、その記者会見で、何度も涙ぐみながら、


千年細胞は、あります。


という言葉を繰り返した。


晴美さんは、お兄ちゃんの車の中で、ゆりかお姉ちゃんに行った応急処置で、その千年細胞を使った。

それは、彼女の発見が、事実であることを証明する、唯一無二の証拠だった。


それを裁判で提出していたら、もしかしたら、の今があったかもしれない。

でも、その可能性はものすごく低くて、提出しても結局揉み消されてしまい、彼女と彼女の恋人だった人の、こどものような存在が本当になかったことにされてしまう、、、頭のいい彼女はそう考えて、ずっと肌身離さず身につけ持ち歩いていたものだった。


その唯一無二の証拠が世界から失われた代わりに、ゆりかお姉ちゃんの命は救われた。




   2020年7月3日、世界最後の金曜日。


十二人の榊が、この国の歴史を影で操り続け、彼らにとって都合の悪い歴史は、ひとりの棗が歴史の闇に葬り去る。


千のコスモの会、あるいはその母体となった組織は、この国の歴史でいう弥生時代から常にこの国の歴史と共にあった。


ママ、ゆりかお姉ちゃん、お兄ちゃん、小久保晴美さん、そして、ももか。

ここにいる誰もが、千のコスモの会に人生を狂わされた人たち。


ももかは結局、パパに会えず仕舞いになってしまったけれど、仕方がないことだったんだと思う。

たぶん誰にも、どうにもすることもできなかったんだろうな、、、

だって、ママにも、ゆりかお姉ちゃんにも、どうにもできなかったんだもん。


「お父様は、優しい人だった。お母様やゆりか、ももかのことだけじゃなく、他の使徒の方々やその妻であるお方、巫女のみなさん、信者の方たち、、、信者でない方たちにも、、、すべてに等しく優しかった。でもそれは、お父様が棗であったときだけ。棗を捨て、榊になってから、お父様は何かにとりつかれてしまったようだった。日に日に、別のものが新たにとりついていくようにゆりかには見えました」


「あの人は、棗さんは、変わってしまった。麻衣が、あ、ママの悪い癖ね、いい年して、一人称が自分の名前だなんて、、、ママが好きだった棗さんはとっくにいなくなってしまった。ももかが5歳のときよ。だから、ママはゆりかとももかのことをお兄ちゃんに託した」


「だけど、ゆりかは、自らの運命を受け入れていた」


「ゆりかは逃げるのなら、お母様もいっしょにと一度は考えました。

ですが、三人ともいなくなってしまったら、神降ろしの儀式で依り代となる巫女がいなくなってしまう。

 そうなれば、お父様は、お母様やゆりかやももかの所在を、日本全国に支部がある教団のネットワークを使って捜索したでしょう。ゆりかたちはすぐに見つけられ、教団へと引き戻されることが目に見えていました。

 そして、二度とお父様から逃げることができないように、厳重な警備態勢で常にお父様の監視下に置かれることも容易に想像がつきました。


 お母様は、自分だけが犠牲になることを選びました。

 ですが、変わってしまわれたお父様のそばに、お母様だけを置いて逃げることは、ゆりかにはできませんでした」


「馬鹿な子だとそのときは思ったわ。でも、ゆりか、あなたがいてくれなかったら、ママはひとりではあの人のそばにいることは耐えられなかったと思う。

だから、ありがとう、ゆりか。それからももか、、、」


ママとゆりかお姉ちゃんは、ももかの顔をまっすぐ見つめると、


「ごめんなさい、ももか。あなたにだけさびしい思いをさせてしまったわね」


まるで、双子のシンクロニシティのように、ふたりは同じタイミングで同じ言葉をももかにかけた。

ふたりは顔を見合わせて笑った。


「ももかは、大丈夫だよ。お兄ちゃんがずっとそばにいてくれたから」


お兄ちゃんは、ももかの記憶から、ママやお姉ちゃん、パパ、それから千のコスモの会、そういった記憶を、簡単には思い出せない場所に沈めてくれた。

ママやお姉ちゃんが、ももかに望んでくれた、普通の女の子として生きるために。

おかげでももかは、普通の女の子として生きることができた。

でも、普通の女の子として生きるのって、意外と難しい。

普通の女の子は、お兄ちゃんのことを好きにはならないから。

ももかは、お兄ちゃんが初恋の男の人。

普通の女の子が、同級生の男の子や部活動の先輩とか、学校の先生とかに恋をして、キスをしたり、もっと大人なことをしたり、失恋したり、いろんな恋をしている間、ずっとお兄ちゃんだけを見てきた。

これって、たぶん普通じゃないよね。


「学叔父様の一体どこが男性として魅力的なのか、ゆりかにはよくわかりません」


お姉ちゃんはそう言った。

お姉ちゃんが、どんな男の人が好きなのか知らないけれど、恋愛に関して言えば、ももかよりお姉ちゃんの方が普通だと思う。


「あら、ゆりかには、お兄ちゃんの良さがわからないんだ?残念」


「そういえば、お母様は、ももかと同じで叔父様のことが大好きだったんでしたね。お父様に出会うまで」


「あの人に出会ってからも、ずっと好きよ、お兄ちゃんのことは。残念ながら、ももかにとられちゃったみたいだけど」


「それは、兄妹として好き、という意味ですか?それとも叔父様のことを男性として見ているのですか?もし後者ならそれはいけないことです」


「人が人を好きになることに、いいも、わるいもないの。ゆりかもいつか、きっとわかる日にが来るわ。

 ももか、もしママがあの人に、棗弘幸さんだった頃のあの人に出会うことがなかったら、ママは、お兄ちゃんを好きなままでいたと思う。

 ゆりかやももかは、ママとお兄ちゃんのこどもだったかもしれないくらい、ママはお兄ちゃんが好きだった。

 お兄ちゃんも、麻衣が大好きだったでしょ?」


ママの問いに、お兄ちゃんは答えなかった。


お兄ちゃんはいつの間にか、部屋の外に出ていた。




   2020年7月4日、土曜日。


恥ずかしくて聞いていられなかった。

手汗が出始め、顔からも汗がふきだしはじめたころ、ぼくはぼくについての恋の話をする母娘女子会から早々に退席した。


麻衣とももかのふたりに、好きだ好きだと言われ続けるのは、とても幸せなことだった。

ぼくも、ももかが好きだ。

麻衣のこともずっと忘れられないでいる。

だけど、ぼくは、自分がももかや麻衣に愛されるだけの男だとはどうしても思えなかった。

20年前、ぼくは19で、麻衣はまだ14だった。

あの頃のぼくにとって、麻衣はぼくのすべてだった。

言い換えるなら、ぼくには麻衣しかいなかった。

恋というより、依存だ。


あれから20年が過ぎ、ぼくは麻衣をあの男に取られてしまったから、今度はももかに依存した。麻衣やゆりかのももかへの想いさえも利用して、ももかのためという大義名分をもらって、依存し続けてきた。


ふたりの気持ちは、恋心は、愛と言っても過言ではないくらいに大きい。

ぼくの気持ちは確かに恋の形のひとつではあるかもしれない。


だけど、それは本当に恋か?

他に誰も自分のことを好きになってくれないから、麻衣の気持ちを利用しただけじゃないのか?

麻衣を取られてしまったから、今度はももかの気持ちを利用しただけじゃないのか?


ぼくの中で、ぼく自身を冷静に見つめるぼくが、この20年間ぼくにそう問いつづけている。

ぼくよりも、ぼくのことを知る、その冷静な分析者に、ぼくはこの20年、返す言葉を見いだせないでいる。


この20年、ぼくがしてきたことは、ただの贖罪だ。



9年前、ぼくは麻衣からゆりかとももかを託され、そしてゆりかからはももかだけを託された。

だからぼくは、ももかだけを連れて逃げた。


その後ぼくは、加藤学であることを捨て、佐久間航(さくま わたる)として生きることにした。


佐久間という苗字は、ももかを、榊や棗、加藤という苗字の呪縛から解放するために選んだ苗字だ。

知り合いに、頼めば偽造免許証の用意から、戸籍までをも簡単に書き換えてくれるハッカーがいたから、苗字さえ決まればあとは簡単だった。


榊や棗が一文字、加藤が二文字だから、三文字、だけど同じ三音の苗字で、ももかが漢字を習い始めたらすぐに書けるような苗字を選んだ。


すべては、ももかのため。

麻衣やゆりかに、ももかを託されたから。

そんな大義名分のもと、ぼくはぼく自身が加藤学であることをやめようとした。


麻衣やゆりかのことを忘れ、ももかとふたりで生きていくことさえも考えていた。


ゆりかには、そんなぼくの本性を見透かされているような気がしていた。


そして、もうひとり、ぼくの本性をとうに見透かしている女性が、部屋の外にはいた。

その人は、部屋を追い出されたまま、麻衣たちにすっかり忘れられて、さびしそうにしていた。


「あなたは、自分のことがあまり好きじゃないのね」


小久保晴美は言った。


「好きじゃないなんてレベルの話じゃい。嫌いだ」


「私と同じなのね、あなたは。私も私のすべてが嫌い。憎い。殺したいくらいに」


彼女は、ぼくが経験してきた孤独や自己嫌悪とは比べ物にならないほどの経験をしてきた。


皆に心配かけまいと、道化を演じれば演じるほど、彼女の中の闇は大きく膨らんでいく。

もうすでに、宇宙と同じくらいの広さの闇が広がっているのが、なんとなくだがぼくにはわかっていた。


「あの母娘に対して、あなたがすべき贖罪は、すべて終わったようね」


「どうかな、、、ただひとつ言えるのは、ぼくはこれ以上、ももかや麻衣のそばにいてはいけないということくらいだ。あの三人の新しい人生に、ぼくの存在は不要だ」


「奇遇ね。私もあの三人の新しい人生の門出を邪魔するつもりはないの」


「ぼくは、今度はあなたに依存してしまう」


「それ以上に私があなたに依存するだろうから別に平気」


ぼくたちは、いつの間にか手を繋いでいた。


「行きましょうか、棗 雪侍」




え?




   2020年7月5日、日曜日。


お兄ちゃんと小久保晴美さんがいなくなった。

ももかたちが、恋バナに花を咲かせているうちに、いつの間にか部屋を出ていったお兄ちゃんと、先に部屋を追い出されていた晴美さんが、どこへ出掛けたのか帰ってこなかった。

何時間かしたら帰ってくるものだと思った。

でも、日付が変わっても帰ってこなくて、朝になっても帰ってこなかった。


もう1日だけ待ったけれど、やっぱり二人とも帰ってこなかった。


そして、その次の日の朝に、ももかはポストに何かが投函されていることに気づいた。


見慣れたお兄ちゃんの女の子みたいにかわいい字じゃなくて、殴り書きのような荒々しい字のメモだけが、部屋のポストに投函されていた。


それは、手紙ですらない、固有名詞や単語だけが羅列されたただけのただのメモで、それがお兄ちゃんからの、ももかやゆりかお姉ちゃん、そしてママへの最後のメッセージだった。


ももかは、その走り書きのメモに、お兄ちゃんから聞いた話を補足して文章にしてみることにした。



「ぼくもまた、記憶の改竄や洗脳を施され、加藤学だと思い込まされていた榊弘幸の飼い犬のひとりに過ぎなかったようだ。


かつてぼくが言った通り、加藤学はやはり20年前に死んでいた。


ぼくの本当の名前は棗 雪侍だという。


だが、千のコスモの会の第十三使徒であった棗雪侍は、ぼくが小久保晴美と共に、本部施設中枢部、神降ろしの儀式の間へと向かう途中の長い回廊で、晴美が彼の体内に潜伏する進化型カーズウィルスを強制的に発症させて殺害したはずじゃなかったか?


しかし、それはぼくの記憶にしかなく、小久保晴美は回廊に襲撃者はいなかった、という。


榊弘幸は、1ヶ月前にももかを誘拐した男やぼくのような加藤学もどきを大量に作り出していた。


いくら20年前の誘拐事件の関係者であり、事件当時にすでに他界しており、加藤麻衣の兄であるとはいえ、なぜ榊弘幸が加藤学をわざわざ選び、彼の飼い犬として加藤学もどきを大量生産したのかまではわからない。


だが、加藤学もどきのひとりであるぼくが生きているということは、榊弘幸がまだ生きているということの証明だという。


加藤学もどきたちは、その脳や体中の至るところにいくつものチップを埋め込まれているらしい。


それらのチップには、彼らが警察にその身柄を確保された場合や、自分が加藤学などという人間ではないと気づいてしまったときなどに、自ら命を絶つようプログラムされており、榊弘幸の死と同時に彼の飼い犬である彼らの肉体もまた役目を終えて、心臓を停止するプログラムされたものだという。


つまり、ぼくが生きているということは、榊弘幸がまだ生きているということだ」


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